外伝6『雪の光』15:魔手
文字数 4,444文字
「アロス様。そろそろトシェリー様が参られるやもしれません、お部屋に戻りましょう。ミルア様とユイ様には、
毅然とした態度で進み出た女を、ユイは一瞥した。後宮として入ったものの、王の寵愛を受ける事も、女達の派閥に入ることも出来ず、女官となった者。
「つまり、後宮での落ちこぼれでしょう?」
小馬鹿にして呟いたユイは、あからさまな笑みを浮かべた。
「今後も、アロスちゃんと遊びたいわ」
「無礼な……!」
拳を強く握り締め瞳に怒りの日を宿した女官を、侍女らが狼狽し見つめる。
「さぁ、参りましょうアロス様」
「またね、アロスちゃん。今日はとても有意義で楽しかったわぁ」
急かされ、アロスは後宮を出た。部屋に戻ると、女官と侍女らから、「彼女らとは遊ばぬように」と言われ困惑する。
何故ですか?
そう告げたいのに、言葉が出ない。質問したいことは多々あるのに、訊く事すら出来ない。アロスは紙とペンで思いを綴ったが、こちらの文字を覚えている途中の為、母国の文字で書いた。その為、侍女らは読むことが出来なかった。
一刻も早くこの国の文字を覚えねばと焦ったが、それすら伝えられない。
……どうして私は、みんなと違うの!
落胆したアロスは、トシェリーが来るまで顔を陰鬱に沈み込ませ部屋の隅で蹲っていた。追い打ちをかけるように、先程ユイに言われたことが気になっている。
……トシェリー様とミルア様は、親しい間柄。
では自分は何なのかと考えるが、“市場で助けられた娘”である。トシェリーは王なのだから、自分とは身分が違うのだと今更悩み始めた。
その為、その日はトシェリーが来ていつものように寝台で抱き合っても、どこか上の空だった。
今までと違う様子のアロスに、トシェリーは無論気づいていた。
慌ただしく部屋の掃除をしながら、女官が低い声を出す。
「トシェリー様に御報告せねば。後宮の女達がアロス様と親しくするなど、有り得ない!」
気落ちしているアロスを思い出し、女官は憤慨している。最初任命された時は戸惑ったものの、他の女達のように喚きもしなければ、威圧的な態度をとることもない。逆に、こちらが言ったことはすんなり受け入れるので、苦労はない。意思の疎通が図れないことは確かに不便だが、それを差し引いても素晴らしい職場だ。
世話をしているうちに、アロスに同情に似た愛情も持った。
「極力、ここから出ないようにして頂きましょう。狡猾な女達が、何をしでかすか解らない」
「ですが、アロス様は他の方々とは違う寵姫。幾らなんでも、手を出すとは」
口籠る侍女に、女官は声を荒げる。
「ユイが付き従っているミルア様は、以前トシェリー様の寵愛を受けた女達を消し去った。それは、公然の秘密。誰も口答え出来ない、言及できない、王は興味がないから咎めない。今回も……」
「けれど、まさか、そんな」
蒼褪める侍女らを、女官は険しい顔で見つめる。
「ここは多くの悪魔が集う、魔窟。彼女達は、人間の顔をした悪魔と思いなさい」
震えながら侍女らは顔を見合わせ、頷いた。
その翌日、アロス付きの女官と一人の侍女が消えた。
残された侍女らは、何故二人が消えたのか悟った。同時に、自分達が生き残る方法も知った。
「ぅ、あ」
女官が不在なのは「体調を崩したから」と侍女から伝えられたアロスは見舞いたいと思ったが、それすらも伝えられない。文字の勉強がしたくとも、女官が教師の予定を把握していたので次がいつなのか解らない。
そうして手持ち無沙汰となったアロスは、庭園に出た。後方で怯えている侍女を不思議そうに見つめつつも、事情を知らないので首を傾げるばかり。
「こんにちは、アロスちゃん! 今日も一緒に遊びましょう」
目ざとくユイがやって来て、後方で縮こまっている侍女に挑発的な笑顔を向ける。
凄まれた侍女は、もう何も言えなかった。彼女は、自身に課せられた職務より、自分の命を選んだ。
「ようこそ、寵姫アロス。今度一緒にお茶でも如何? 他国のお話を聞きたいわ。……あぁら、ごめんなさい! お喋りは出来ないのでしたね、失礼致しました」
嘲笑を浮かべた女達が、アロスを出迎える。
「そうそう、お聞きしましたよ。女官は高熱で寝ていらっしゃるとか」
「庭園は寒いですから、お風邪をひいたのでしょう。寵姫アロスが罹患していないことを願います。暫くはこの後宮で戯れましょう」
「そうね、庭園はいけないわね。今度、茶会を開きましょうか。愉しみね!」
女達が騒ぎ立てるので、アロスはじっと見つめていた。この場所が何か、知らない。ただ、親切で優しい女性達が住まう場所なのだと。
「今日はみんなで裁縫をしましょう。この間、ミルア様が
ユイが興奮気味に告げると、アロスの身体が大きく震える。ほくそ笑み、ねじ伏せるように続ける。
「アロスちゃんがここへ来てすぐに糸を戴いたから、これを購入する為に外出されていたのかもしれないわ」
「流石ミルア様ですわ、羨ましい!」
この糸は、大したものではない。女達ならばすぐに手に入れられるものだった。冷静なアロスが糸を見れば、価値を見抜く事が出来ただろう。しかし、みっともないほどに動揺している。
女達は、解りやすいアロスを見て笑いを堪えた。
こうして、アロスは後宮に出入りするようになった。彼女らに逢うのは楽しいが、聞きたくないことを知ってしまう。
アロスは、胸の内に巣食う気持ち悪くて混乱するモノに翻弄されている。
「ねぇ、あのお馬鹿ちゃん。何も疑わないのね」
「面白いわよねぇ、馬鹿って怖いわ。うふふ、どうやって虐めようかしらね」
最初から突き放すより、懐いてから叩き落したほうが精神的に傷が深い。
女達はアロスに手を振り、頭を撫で、気色悪いほど親しくして、“制裁の日”を待つ。
たった一人の、小さな標的。
「無粋ね」
ガーリアは、そんな女達の様子を眉を顰め一瞥する。
あまりにも、醜悪。多くの女達がミルアの口車に乗せられたらしく、集っている。ガーリア以外にも傍観している女はいたが、数える程。当然の様に行われる陰湿な光景が許せず、唇を噛む。トシェリーに進言するべきか、アロスに直接忠告すべきか。思案していたが、お付の女官に制された。
「ガーリア様、御辛抱を。貴女様の真っ直ぐな気質は我らの誇りです、しかし、なればこそ。関われば、こちらにも飛び火します」
ガーリアは、必死の訴えに折れた。今まで、幾度もミルアと対立してきた。その時に巧く立ち回り、助けてくれてた彼女らである。今回の相手は、ミルアだけではない。後宮全てが敵だと思わねばならない。
「……ごめんなさいね、アロス。私には、貴女を救う手立てがない」
やがて、ガーリアは後宮でアロスの姿を見かけると、後ろめたさを隠すように身を翻し逃げた。
温かく柔らかい夜着を捨て、一糸まとわぬ姿で今宵もトシェリーとアロスは抱き締め合う。
「アロスは最近……オレが居ない間、何をしている?」
以前はすぐに瞳に情欲の色が灯り快楽に堕ちたが、最近のアロスはどこか浮かない顔をしており、心此処にあらず。
よもや、後宮に出入りしているとは思わなかったトシェリーは、短期間での変貌ぶりを訝った。
アロスは身振り手振りで説明したが、伝わらない。
苦笑したトシェリーは、泣きそうなアロスの唇を塞ぐ。
「それは……オレと居る時より楽しいのか?」
言われて、アロスは首を横に振り全力で否定した。ギュウ、と抱きついて違う、違うと訴える。
……ただ。ミルア様が。
アロスは、まだミルアを見たことがない。御礼をしたいが、常に不在だった。時折、他の女らが「トシェリー様の執務室に呼ばれている」だの、「会議に出席しているトシェリー様の傍らで傍聴している」だの話していたのを聴いた。つまり、日中は彼女と共にいるのだと悟った。
「どうした?」
不安げに見つめたきたアロスに、トシェリーは優しく口付ける。
……この唇は、ミルア様のものでは?
急に、自分がいけないことをしている気になってきたアロスは、喉を鳴らす。離れていることが、こんなにも辛く、怖く、恐ろしいものだとは思わなかった。躊躇いがちに、口付けをせがんで瞳を閉じる。
トシェリーは髪を撫で、いつものように深く口付けた。
「喜べ。今、全力で医者を捜している。必ず、声が出るようになるぞ! そうしたら、まず最初にオレの名を呼べ。それから、『愛している』と言ってくれ。楽しみだな」
全身に愛おしく口付けながら囁くトシェリーに、アロスは懸命に頷いた。
……そうだ、私もみんなのように話すことが出来たら!
トシェリーの想いを聴いて、嬉しさのあまりアロスは涙を零した。
そうして、寝台が激しく軋む。今宵もまた、ニ人は快楽の波を幾度も味わった。
激しく愛され気を失っているアロスを見下ろしたトシェリーは、荒い呼吸を繰り返す。そうして、額の汗を拭った。
月は、太陽と交代しようとしている。
「だがな、アロス。正直、オレ以外に興味を持たないで欲しい。言っただろう、お前はオレだけ知っていればいいと」
どうしようもなく、怖い。足元の暗闇が自分を引き摺り込みそうで、恐ろしい。髪に指を通し名残惜しそうに強く抱き締めると、ようやくトシェリーも眠りに就く。
その身体は、小刻みに震えていた。
どうにも気になったトシェリーは、宦官に普段のアロスについて報告をさせたが、『庭園で花を見ている』とのことだった。もしくは、『部屋で刺繍をしている』と。
ミルアは彼らに金を握らせ、すでに根回しをしていた。
よって、トシェリーに真実は伝わらない。
庭の木々が、大きくしなっていた。
連日振り続ける雪に、枝は悲鳴を上げる。それでも、気丈に、したたかに春を待つ。何故ならば、春が来ることを木々は知っている。
ユイは、ミルアの言いつけで毎日アロスを出迎える用意をしていた。
アロスのいる場所は、ユイは勿論、ミルアもガーリアですら入ることが出来ないトシェリーの隣室である。寒い中アロスをじっと待つので、凍えている。毎日後宮へ来ているわけではないので、無駄足の時もあった。寒さで赤く腫れ上がった手を息で温め、舌打ちする。
「私が寒がっているんだから、ちゃんと来なさいよ。馬鹿女」
空振りの日は、決まってユイは美しく煌めいている庭の雪が疎ましく、無茶苦茶にしてやりたくなった。シン、として、こちらの気も知らず平然とそこにいることに、腹が立つ。
キラキラと輝く様子が、誰かに似ている。
だから、思い切り雪を踏みつけた。真綿の様に柔らかで清らかな雪を踏み躙ると、清々した。潰れて泥と交わって穢れていくのが、愉しかった。
ユイは、雪を黒く醜く染めていった。
ついでに、アロスが毎回熱心に見ている花も引っこ抜いた。