外伝7『埋もれた伝承』9:囚われの獲物
文字数 2,864文字
静まり返る周囲だが、クレシダの小さな嘶きが現実に引き戻してくれた。火が小さくなっているので、木をくべる。
トロワは白い息を吐き、周囲を見渡した。狩猟が成功したら肉が食べられるので、そっと手首の蔦を外す。
「ん……。どうし、たの?」
眠っていたアミィを起こしてしまった。トロワは優しく頭を撫でると、出掛ける旨を伝える。
「頼むから、逃げないでくれ。口煩いが、森は危険だ。分かるな?」
アミィは、カクン、と首を立てに振る。寝ぼけているのだろうか、本当に分かっているのだろうか。些か不安になったトロワは、思案した挙句両足首と両手首を蔦で結んだ。
これなら逃げることも難しいだろう。拘束は気が引けるが、その身を護るためだ。逃げたところで、村へ辿り着ける保証はない。迷子になるか、獣に食われるか、つまりは死。
焚火の近くにいれば火を恐れる獣は寄ってこないので、動かないのが懸命だ。獣避けにもなるので、クレシダは置いていく。
「行ってくる。すぐ戻れるよう、祈ってくれ」
額に優しく口づけると、クレシダの背を撫で静かに駆け出した。狩りが成功したら、茸や山菜、木の実を獲ってもいい。連れてきてしまった以上、不自由は避けられない。しかし、少しでも喜ばせたい一心だった。
アミィは、まだ微睡んでいた。長時間馬に乗っていたのは初めてであるし、トロワに嗅がされた粉の反動か身体が怠い。しかし、白い微粒に取り巻かれた太陽光に重たい瞼を開く。
寄ってきたクレシダが鼻先で頭部を突くので、くすぐったくてアミィは笑った。立ち上がろうとしたが、手足が縛られていることに気づく。
逃げようとは思っていない、そこまで浅はかではない。信用されていないことを悲しむ気持ちと、それほどまでに大事にされているのだという彼への信頼がせめぎ合う。
「でも、私だってお手伝い出来るのに」
昨日は暗くて見ている余裕がなかったが、森は野草の宝庫。すぐそこには油で炒ると美味いミゾソバが生えているし、少し離れたところにはサルトリイバラの真っ赤な実が見える。暫く二人で旅をするならば、協力し合うのが当然だ。
どうにかして拘束を外せないか、身を捩った。
這って焚火近くに移動し、突き出ていた枝を懸命に掴む。引き摺り出すと、脚の蔦に添えて熱で焼き切る。
時間はかかったが、どうにか足は解けた。次は手だが、腹側で結ばれているとはいえ難しい。
しかし、立ち上がる事は出来た。雲の上を歩くみたいに足元が定まらないが、川へ向かって水面を覗き込む。鋭利な石があれば、蔦を切ることが出来ると思った。
揺れている水面に、曇った表情がくっきりと映っている。石を探して手を揺らすと、表情は歪む。
だが、水底の砂が巻き上げられ濁っても、しばらくすると透明感を取り戻す。
こんな風に、時間が問題を解決してくれたらよいのにと、願わずにはいられない。今は身動きできない状態でも、いつかはきっと安穏が訪れるはずだと。
神に祈り続ければ、見逃してくれるのではないかとも思った。
「トリュフェ」
想いを寄せていた男の名が、知らず口から洩れた。頬を染め、彼を思い浮かべる。名を口にしたら、無性に逢いたくなった。顔を見たくて仕方がない、声が聞きたくて苦しい。数日会わなかったことなど、今までなかった。
深い哀愁の色を瞳に浮かべ、村がどうなっているかよりも、彼を想う。
「トリュフェ」
再度、名を呼んだ。
呼んだところで、彼が来るわけもないのに。
けれど、来てくれたら状況が変わるのも確かだ。三人いたら、良い案が浮かぶに違いない。ここまで神変不思議なことが起これば、村も災厄に見舞われずに済むだろうなどと、夢見がちなことを考える。
「私、我儘だ……。自分に都合のよいことしか考えない」
浅はかな考えに落胆し、唇を噛みしめる。じんわりと、瞳の端に涙が浮かんだ。離れるほどに恋い焦がれ、もがいて足掻く。
絶望と渇望が押し寄せる中、後方の木々が揺れる音が聞こえた。振り返ると、涙で滲む瞳に人影が映る。
太陽の光に反射し、紫銀の髪が光り輝く。
「おかえりなさい」
アミィは結局手の拘束を解けぬまま、立ち上がって声をかけた。
「……ようやく、
光が、顔を陰らせていた。
しかし、その声を聴いた瞬間にアミィは息を飲む。唇が震える、感極まって涙が溢れそうになった。
聞き間違えるはずがない、今の声はトロワではない。有り得ない声が聞こえ、幻聴かと耳を疑う。
「オレは一人だから、距離を稼ぐことが出来る。幾らクレシダが駿馬だからって、二人乗せていては、なぁ?」
自信に溢れた声が近づく。小石の上をジャリジャリと歩く足音が、妙に耳に残った。
「トリュフェ……?」
陽の光が、すっと引いていく。ようやく見えた愛しい男の顔に、アミィは唖然として名を呼んだ。足が震え、立っていられずよろめく。
大粒の涙が頬を伝い、流れ落ちた。トロワよりも多少幼い声は、脳を溶かすほどに甘い。
「随分とまぁ……刺激的な格好で。アイツの趣味か」
こちらへ向かってくるトリュフェを、アミィはまともに見られなかった。見たいのに、涙が邪魔をする。滲む涙を拭うことも出来ず、打ち震える。
今すぐその胸に飛び込み、抱きしめたい。
求めていたのは村から連れ出したトロワではなく、彼だ。二度と会えないと思っていた男が、目の前に立っている。
アミィは神に感謝した。奇跡だと思った。
「トリュフェ」
幻覚ではないのかと、掠れた声で名を呼ぶ。声を聴きたくて、呼び続ける。自分の名を早く呼んで欲しかった。数日前のように。
「……よぉ、アミィ。随分と手古摺らせてくれたな」
ようやくはっきりとトリュフェの姿を捉えたアミィは、嬉しくて微笑もうとした。だが、怒りを含んだ眼つきで強引に顎を掴まれ硬直する。
「んっ」
触れた手が、ひどく熱い。ジンと痺れるようなその熱に、アミィは声を漏らす。やんわりと顎を指で摩られ、くすぐったくて声が漏れた。
「ん、ぁ、なっ、なに……?」
細めた瞳で、鼻がぶつかりそうなほど接近していたトリュフェを見つめる。近すぎて胸が高鳴るが、トリュフェは不愉快そうに顔を顰めている。その冷酷な表情に、アミィの喉がヒュッと音を立てた。
「気に入らないな。もう
「え?」
吐き捨てるように言われ、アミィは狼狽した。その表情と声色に、胸騒ぎがする。単純に浮かれていたが、彼が自分を捜しにくる理由は一つではないことに今頃気づいた。
村の追手である可能性が高い。
「あ、あの」
夢にまで見た愛しい人なのに、待ちわびていた表情ではない。声は普段よりも低く、棘を含んでいるように冷たい。
「どういう趣味だよ、アイツ」
結ばれているアミィの手首を、トリュフェは値踏みするように眺めた。やがて口の端を歪めると、不安そうにこちらを見上げているアミィに声をかけることなく、唇を塞ぐ。
遠くで、獣が啼いた。
周囲にアミィの悲鳴が響き、ぽたりと地面に朱色の液体が垂れる。