外伝3『ABHORRENCE』6:トリアとクレシダ
文字数 2,820文字
街ではトカミエルとトリア、二人の誕生日会が盛大に行われた。
両親は武器屋を経営しており、顏が広い。自慢の息子に剣舞を披露させ、こんな時でも商品を売り込む程には抜け目ない。
しかし。
「やれやれ」
客の接待をトカミエルに任せ、主役の一人であるトリアは密かに自宅の裏口から抜け出した。フードを深く被り、愛馬のもとへ急ぐ。
御機嫌取りの大人や、媚びてくる女たちの相手などしていられない。そういったことは要領がよく、八方美人な双子の兄に任せるが懸命。美味いワインを呑めたことは喜ばしいが、他はうんざりだ。
見つかると連れ戻されてしまうので、人目を気にしながら森へと馬を急がせる。
幼い頃から育て共に成長してきた愛馬クレシダは、月毛。稀な色合いをしているので、その馬の持ち主がトリアであることは皆知っている。逃げるように街を疾走するクレシダに、数人は振り返って声を上げた。
それらを無視し、クレシダは全速力で駆け抜ける。森の奥に辿り着くと、ようやく安堵の溜息を漏らした。行き先は決まっている、誕生日会という面倒事から抜け出したかったことは事実だが、目的があってここまで来た。
「さて……」
昨日、リュンが見たという少女を探しに来た。不安か期待か、それすら分からないが胸が高鳴る。だが、どうしても彼女に会わねばならない気がしている。
「クレシダ、ここで待て」
花畑の入り口でトリアはクレシダから下りると、足音を立てないように細心の注意を払って進む。花畑は昨日と打って変わり、静寂に包まれている。別の場所に来たような錯覚に陥ったが、無残い散らばっている摘み取られた草花を見て安堵の溜息を漏らした。
軽く溜息をつき、フードを脱ぐ。大きく息を吸い込むと、少しだけ甘い花の香りがした。自然と口元に笑みが浮かぶ。
遠くで、クレシダが僅かに嘶いた。
今ならば奇跡が起こる気がして、期待感が高まる。リュンが昨日指した木に近づき、祈るような視線を投げかけ目を凝らす。
けれども、誰もいない。
「いるわけ、ないよな」
自嘲するような薄笑いを浮かべ、トリアは名残惜しそうに木を一周する。
軽い溜息を吐くと、木の根元に座り込みもたれ瞳を閉じた。心地よい陽の光に包まれ、夢の世界へ誘われる。騒がしく鬱陶しいだけの誕生会よりも、こちらのほうが心が休まった。
すぐに、軽い寝息が周囲に響き始める。
アニスは気に入った花冠を頭上に乗せたまま、森を散歩していた。
栗鼠たちは、アニスを人間に見られてしまったことを黙秘している。よって、誰にも咎められることはなく、今日も気ままに過ごしている。ただ、罪悪感と後悔から栗鼠たちは木の寝床に潜りこんだまま出てこない。
その為、一人きり。
森で遊ぶ涼しい風が、頬を撫でる。雰囲気がいつもと違うことに勘付いたアニスは、首を傾げ昨日の花畑へと足を向けた。
「あれは……だぁれ?」
花畑付近で、珍しい動物に出会う。
森では見たことがない生物で、何度も瞬きし、そのほっそりとした姿を確認する。鹿に似ている気もするが、もっと大きい。
そこにいたのは、馬のクレシダ。木に繋がれ、大人しくのんびりと草を食べていた。
アニスは周りに誰もいないことを確認すると、ゆっくりと歩み寄る。
気配を察し、クレシダは顔をあげアニスを見た。瞳が交差する。
「綺麗な瞳! こんにちは、初めましてアニスです。あなたのお名前は?」
深く頭を垂れ、躊躇うことなくアニスはクレシダに手を伸ばした。そっと背を撫でると、艶やかな毛並みに驚く。毎日トリアが念入りに手入れしているので、清潔で触り心地が良い。
大人しく撫でられていたクレシダだが、暫くしてアニスに話しかけた。
「名前は、クレシダ。あそこにいる主と共に暮らしているものです」
「主?」
クレシダは小さく鳴くと、木のほうへ顔を向ける。
アニスは言われた方向へと身体を向けた。木の根元に、誰かがいる。
「今日は誰も来ないと思っていたのに。タンジョウビカイ……だと」
「よくご存知で。主はそれを抜け出し来ております」
誕生日会の詳細を知らないが、愉しそうな印象を受けていたアニスは、それに出席しない人間がいることに驚いた。代わりに参加したいくらいだ。
「そうなの? あれは……誰?」
「主の名は、トリアと申します」
途端、アニスの目が輝きを増す。興奮していた為、声色が高くなった。
「わぁ、トリア! トカミエルの弟さんですね」
「なんと。……詳しいのですね、そうです」
急に早口になったアニスに多少引き、クレシダは肯定し頷く。
クレシダの背を丁寧に撫でながら、アニスはじっとトリアを見つめる。
「近寄ってみようかな、どうしよう」
動物たちから再三忠告を受けているので、簡単に動けなかった。
葛藤が続く中、アニスは不意にクレシダに質問した。
「クレシダは、トリアのことが好き?」
「えぇ、とても。優しくも行動的で、丁寧。素晴らしい人間だと思いますが」
ニンゲン全てが好きかと訊かれたら、クレシダの答えは『いいえ』だった。しかし、アニスの質問は『トリアが好きか』だ。ならば答えは決まっている。
「ありがとう!」
アニスは決意したように唇をキュッと結び、笑顔でクレシダから離れる。ゆっくりと地面を踏みしめ、トリアに近づいた。
「大丈夫、クレシダが好きだと言っていた」
寝息を立てているトリアに近寄ると、アニスはしげしげと見つめる。人間にここまで近寄ったのは、勿論初めてだ。
「この人が、トリア」
端正な顔立ちをしている、と思った。純粋に綺麗だと。そしてやはりトカミエルに似ている。瞳と髪の色が同じな事は知っていた、性格が違うことも解っている。けれども、身に纏う雰囲気は似ている。
トリアを熟視ししているアニスを、クレシダは遠くから見守っていた。ニンゲンを眺めて何が楽しいのか理解できないと、小さく嘶く。彼女が人間ではないと理解しており、自分たち動物に近い気がすると思った。
しかし、姿は人間に酷似している。
視線に気づいたのか、トリアが身動ぎして小さく呻き瞼が痙攣する。
慌てふためき後退ったアニスは、狼狽の色を瞳に浮かべた。想定していなかったことに気が動転し、どうすればよいのか分からず立ち尽くす。
トリアは腕を大きく伸ばし、気だるそうに欠伸をした。
「あー……よく寝た」
「っ!」
瞳を開き、何気なく気配がする左を見やる。
何度か瞬きを繰り返し、見間違いかと思って瞳を擦った。
「え?」
緑の髪の美少女がこちらを見ている。あまりの美しさに、夢の続きではないかと思った。
視界に鮮明に飛び込んできたが、寝起きの頭では上手く考えがまとまらない。神秘的な美少女の、全てを見透かすような麗しい瞳に囚われる。
互いに見つめ合う。
「女の子! リュンが言っていたのは君のことかっ」
声を出したら急に意識が冴え渡り、勢いでトリアは立ち上がった。