運命の駒は引き寄せられ
文字数 4,814文字
「アサギ?」
胸にぽっかりと大きな穴が開いたように、虚しい風がヒューヒューと抜けていく。トランシスは愛しい女の名を呼びながらどうにか上半身を起こすと、重い頭に手を添えて低く呻いた。脱力感に襲われていた、思う通りに身体が動かせない。息を吸うたび妙な不安が体内に取り込まれ、蓄積していく気がする。
「アサギ? 何処だ、アサギ!?」
二十四時間経過したら、アサギと離れなければならない。次に逢うことが出来るのは、五日後になる。
幸せ過ぎて、そのような取り決めを忘れていた。
取り乱したトランシスは、慣れている自分のソファからバランスを崩し床に落下する。その際に負荷がかかり足首を捻ってしまったようで、鋭く悲鳴を上げた。ズキンズキンと鈍く右足が痛む。すぐに腫れてくるだろう、反射的にその箇所に触れたが、次の瞬間抑えられない苛立ちに襲われた。
「アサギ、どうしてオレから離れる!」
激しく床を殴りつけた。
右の拳で何度も床を殴ると血がうっすらと滲み、床がへこみ始める。
それでも止めなかった。手に痛みなどない、アサギが消えていたことへの胸の痛みが大き過ぎて、感覚が麻痺している。
「アサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギオレのアサギアサギアサギアサギアサギッ」
名を連呼し、血走った瞳で床を殴り続ける。
その瞳は怒りに満ちていた。何に対する怒りなのか、トランシス自身にも解っていない。ただ、酷く空しくて悲しくて切なかった。
「どうしてっ、一緒にいてくれないんだっ」
それは、何故か神が妨害しているから。
分かっているのに、納得できないため苛立ちは募る。
「アサギッ」
嗚咽を漏らし床を殴り続ける。閉鎖された室内に、二種の鈍い音が響いていた。
大きな欠伸をしながら、アサギは目の前で繰り広げられているサッカーの試合を観ていた。周囲では大歓声が上がっているのに、自分だけが欠伸をしていては非常に失礼な気がする。
しかし、どうしても眠い。堪えたくても限界がある。
トランシスのいる惑星マクディから地球に半ば強制送還されたのは、今朝方のこと。日曜日である本日、サッカーの試合を観戦に行く予定があったことを忘れていたわけではない。早く寝なくては眠い事は承知の上だった。それでも、時間が許す限りトランシスと一緒にいたかった。
「アサギちゃん、大丈夫? みんなに伝えておくから、先に帰ったら?」
「大丈夫。実は寝不足で」
ユキが心配そうにのぞき込んできたので、アサギは力なく笑う。傍目には、体調不良に見えたのだろう。
恋人であるケンイチが試合に出ているので、ユキは気合が入っていた。九月だがまだ日差しが強いので薄桃色の日傘を差し、買ってもらったばかりの淡い水色のワンピースに、繊細なレースのカーディガンを羽織っている。勝負服だ。
ケンイチが何回もシュートを決めてくれたら、堂々と彼女として挨拶に行こうと決意していた。
トモハルとミノルも同じチームで、二人のほうが技術力は上。だが“彼女”がいるのはケンイチのみ。その彼女が応援に来ているのだから、普段以上の踏ん張りを見せてくれるのが当然だとユキは勝手に妄想している。
リョウは補欠なので今は出ていないが、出番が来るかもしれないので身体を温めていた。目があったので、アサギは手を振って微笑んだ。
そんな二人の目の前に、水滴の滴るペットボトルが出される。
「お茶」
剣道をしているダイキは、アサギとユキと並んで観戦していた。先程一人で席を立ったことには気付いていたが、気を利かせ飲み物を買ってくるとは思いもしなかった。
照れくさいのだろう、ダイキは顔を背けて手渡そうとしている。
「ありがとう!」
柔らかく微笑んで受け取ったユキと、慌てて財布を取り出し飲み物代を払おうとするアサギ。
「お金はいらない、俺が勝手に買って来たから」
「え、でも……」
「本当にいらない。暑いからね、今日は。気を付けないと」
やり取りを冷めた瞳で見ていたユキは、内心ほくそ笑む。
おバカさんね、アサギちゃん。女の子はね、奢って貰ったら笑顔で応じて素直に喜べばいいの。当然のことなのよ。ダイキ、困ってるでしょ? そう口に出したいのを必死に堪えていた。
「いただきまーす」
ペットボトルのキャップを「かたーい」と言いながらも開けたユキは、美味しそうに茶を口に含んだ。
「ありがとう、ダイキ。今度は私が奢るね」
「アサギは律儀だな、気にしなくていいのに。でも、何かあったら奢って貰うことにする」
「うん」
二人の会話をほぼ無視していたユキは、冷たい茶で喉を潤した。試合自体はつまらないし、埃っぽいし、暑いし、良い事など一つもないがケンイチの為に応援をしている。
「勝てそうだね」
「あいつらがいるから、負けるわけない。見なくても結果は解る」
「みんな、愉しそうだね」
「異世界で修業をしていたほうが圧倒的にキツい、ってトモハルが言ってた」
「ふふふ」
二人の会話をやはり無視していたユキは、半分ほど茶を飲み干す。
「わぁ、流石トモハル! 相手の動きを読んで動くね」
「そういうトコ、本当にアイツは上手い。気配りが出来るから、リーダーも難なくこなせるんだろうな」
ユキには色の違う服を着た人たちが、適当にコート内を走り回っているだけにしか見えなかった。ボールを追うのも面倒になってきたので、涙を流して大きな欠伸をする。眠くはないが、暇になってしまった。
試合は終了し、予想通りトモハルたちのチームが勝利した。
ミノルとトモハルは何点かゴールを入れていたが、ケンイチは一点もとっていない。それくらいはユキにも解ったので、途中からつまらなくなっていた。サッカーとは、もっと大きな動きがあるものだと思っていた。しかし、実際観ていたら地味だ。漫画やアニメのような、派手な必殺技など普通のサッカーにはない。
「おつかれさま!」
「観に来てくれてありがとう」
皆でファーストフードを食べてから帰宅する。
しかし、ケンイチは始終ユキが不貞腐れているので、余計に気遣い疲れ果ててしまった。試合が終わったばかりで疲労感に押し潰されそうだったが、懸命に話しかけた。
けれども、結局原因は分からない。
『ごめんね、ユキ。暑い中、来てくれてありがとう! 嬉しかった、恥ずかしかったけどね』
『ケンイチ、凄かったね。頑張ってたね!』
逃げるように帰宅し、お気に入りの衣服を脱ぎ捨てジャージに着替えたユキはアイスを齧っていた。部屋で転がりながら、ケンイチから届いたメールにそう返信する。
出来れば、もう行きたくないと思った。何が楽しいのかさっぱり解らない。暑くて汚れるだけの拷問は、異世界を旅していた時に似ている。
体育の授業すら嫌いなユキは、休日くらい涼しいところで転がっていたいと心底思った。
小学六年生の勇者たちは、自分たちが他の生徒と違って特別だということを誇らしく思い、異界の自室で遊ぶ分には疲れることもなく愉しかったので、ほぼ毎日入り浸っていた。
このところクレロから緊急要請もなく、伝達事項によれば不穏な動きもないらしい。しかし、小規模であれ点々と火災報告は上がっている。
「この世界の火災は、消火器も消防車がないから大変だよね。水の魔法が扱える魔法使いを、消火隊員として配属したらどうだろう」
食堂でアリナから話を聞いたトモハルは、神妙な顔つきでそう呟く。
「大変ダナー」
気のない返事をしたミノルは、隣りで興味なさそうに携帯ゲーム機に没頭していた。
「異世界にいる時くらい、ゲームやめたら?」
「俺はゲーム命なんだよ」
そんな幼馴染に、トモハルは呆れて項垂れた。
サッカーの試合があった日曜から数日経過し、今日は水曜日。育ちざかりの勇者たちは家に帰ってめぼしいおやつがないと、食料を求め食堂に集まるようになっている。街に出れば店が並んでいるので食べ放題だ。地球のコンビニで買うと小遣いが無くなるが、異世界では資金が無くなればアリナに告げるだけで追加される。
度が過ぎた買い物をしなければ大丈夫だと言うアリナの太っ腹に、心から感謝した。
今日もトモハルとミノルは二人して街に出掛け、露店でイカ焼きを購入してきた。醤油ではなく、香辛料たっぷりの塩味がきいたもので気に入っている。それと、隣の露店で売られているふかした芋が二人の好物になっていた。
「あー! やっぱり来てたんだね」
「よっ」
ケンイチもダイキもやって来て、コンビニ前で偶然出会ったかのように異世界の食堂で他愛のない話をした。
「ユキは?」
「ピアノのレッスンだって」
「お嬢様は忙しいなぁ。アサギは……」
トモハルの素朴な疑問に、三人は一斉にミノルを見た。しかし、慌てて視線を逸らすと気まずそうに瞳を泳がせる。
「悪かったな、情けない元カレで」
ゲームに没頭していたので気づかれていないと思っていたが、突き刺さる様な視線は何をしていても不愉快だ。ミノルは唇を尖らせるとくぐもった声を出す。
「そこまで言ってないけど、結局アサギとはどうなの。憂美って子とは、もう会ってないだろ? 俺としては、親友のお前と大事なアサギが一緒にいて欲しいんだけど」
「……無理だと思う。アサギは、俺ごときがどうこう出来る子じゃない」
「無理だ、って自分で言う時点で無理だろうなぁ、残念。でも、まだ好きなんだろ? 浮気したお前が一方的に悪いけど、好きなら諦めるなよ。チャンスはあるかも」
背中を叩いて励ますトモハルに面倒そうな視線を投げたミノルは、再びゲーム機に視線を戻した。
「それにしても、アサギもなんでこんなのが好きだったんだか」
「うるせー」
侮蔑の視線を痛いくらいにその身に浴び、ミノルは勝手に言えとばかりに投げやりな態度をとる。自分が悪い事は重々承知だ、良い夢が見られたと思えばいい。アサギの事は今でも好きだが、一緒にいてはいけない気がしていた。罪悪感のようなものが押し寄せてきて、会話すら躊躇してしまう。自分に非があるせいだと思い込んでいたのだが、それとは別な気もしてきた。
「結局、俺は何度やってもアイツを傷つけるだけで、護れない」
ぼそ、っとミノルは吐き捨てる。
その時トモハルたちは別の話題に入っていたので、聞き漏らしていた。
キィィィ、カトン。
音が聞えたので誰かが入ってきたのだと思い、四人は一斉に入口を見つめた。
しかし、見つめて気づいた。食堂はドアで仕切られていない。聞き間違いか、と四人は直前の動作に戻る。
「そういえば、ユキがなんかおかしな事言ってたんだよね。アサギに新しい彼氏がいるからどうのこうのって」
「は?」
何気なく呟いたケンイチのそれに、一際大きく反応したのは案の定ミノルだった。気の毒な位に動揺しているのが解る。あんなに真剣に遊んでいたのに、ゲーム画面の中ではキャラが死んでいる。
「え、え、え、え、え、え、え、え」
「ミノル、落ち着け! ケンイチ、軽はずみなこと言うんじゃないっ」
「ご、ごめん。でも、やっぱりそんな話誰も知らないよね? 僕はトビィが相手なのかな、と思ってたんだけど」
音を立てて震え出したミノルを落ち着かせようと椅子に押し付けているトモハルの目の前で、悪びれた様子もなくケンイチは話を続ける。
その横でダイキが地味に落ち込んでいた。
この時、偶然トビィが食堂前にいたため会話を聞いていた。部屋に荷物を運んでいて忙しかったので、話には加わらず素通りする。真相を知っていたが、トランシスの名を口にするのも悍ましい。
勇者たちの会話は、憶測で続く。通りかかったアリナが気を利かせ食事を頼んでくれた為、会話は延長となった。
未だ気持ちの整理がつかないミノルは、草臥れた。逃げ出したいが気になる。葛藤が続き、放置していたゲーム機は充電が切れた。