外伝6『雪の光』1:誘拐
文字数 4,204文字
貴方の熱い声で、耳元で囁いてください。
私の、名前を。
けれど、私の想いは口にしてはいけない、伝えてはいけないの。
伝えたら破滅が押し寄せて、みんな消えてしまうの。
だから、声は。
私は声を出す事ができないの。
私の声は災禍となり、全てを飲み込んでしまう。
けれど、貴方の声は、聴いていたい。
ずっと、ずっと、聴いていたい。
聴いていられるなら、それで構わない。
……と、思っていたの。
***
肺が凍ってしまいそうな程に、空気が冷たい。
忌々しく上空を見上げれば、今後も雪は止むことなく降り続けるらしい。分厚い灰色の雲はどんよりとして、覆い被さるように威圧感を与えてくる。何度雪かきをしても、直ぐに純白で埋め尽くされた。
この白銀の世界に、人々は嫌気がさしている。
「今年は、よう降るなぁ」
悴む手を擦り身体を震わせ、懸命に作業に精を出す男達。黒の衣服に身を包んでいるが、それすらも白く染まっている。兎の毛皮で作られた帽子は、雪が降り積もって重くなってしまった。時折雪をはたかないと、首が凝る。
彼らは、巨大な屋敷前の道路を延々と雪かきしていた。この大雪の中やって来た来賓が滞りなく帰宅できるよう、延々と整備している。
暫くして、一台の馬車が敷地内からやって来た。深く腰を折って、頑丈な門を開く。
その馬車は華美ではないものの、使われている素材は一級品。物静かで謙虚な男を見事に表している馬車だと、男達は思った。自分達とは違う世界が目の前にある。
男達は、この屋敷の主に雇われた、ただの雑用係。制服一式を支給してもらえ、狭いながらも宿舎もあるという好条件ゆえ、志願する者は後を絶たない。豪商というと、守銭奴で他人に金は出したがらないと思っていたが、この屋敷の男は違っていた。
身分の低い者を蔑むことなく、気前良く施しをしている。一文無しで、見た目下卑な輩でも、誠意を見せればその男は雇ってくれた。
類は友を呼ぶのか、本日訪れていた客も善人だった。実際は客の方が、雇い主の豪商より数段格式高い貴族である。貧困の問題に真っ向から取り組む姿勢から、身分問わず人気がある絵に描いたような男。歴史ある名家であり、医療の整備を唱え続け貴族でありながら最低限の生活をしている。
名を、アルゴンキン=イグザム。
イグザム家といえば、余程の貧困民でない限り誰もが知っている貴族。貴族達の裕福で贅沢華美な暮らしを批判し、貧困層には惜しみなく援助をする。ただの点数稼ぎでないことは、働きぶりを見れば一目瞭然であった。多くの者が、彼に心酔していた。
敷地から出て行こうとする馬車を、精一杯の敬意を払い見送る。自分達を救ってくれた、それこそ神より現実的で、神に近い男達。願いを乞うても手を差し伸べない神より、この男らに救済を頼んだほうが確実だった。
「御気を付けて」
挨拶をしていると、暴走気味の馬車が館からこちらへ向かっている。雪煙を巻き上げ疾走してくるそれに、何事かと緊張した。
馬車から身を乗り出し、豪華な衣装に身を包んだ男が「止めろ、止めろ」と叫んでいる姿が見えた。男達は慌て、今にも出発しそうな馬車の扉を無礼を承知で叩いた。
「何かあったのかね」
アルゴンキンが顔を出し、そう問うた。
すぐさま従者達が下りてきて説明を求められたが、何故呼び止めねばならなかったのか解らない男達は答えられない。頼みの綱である向かってきている一台の馬車に、一斉に視線を送った。
「大変申し訳ございません、アルゴンキン様!」
この寒いのに汗をかき、拭いながら馬車から降りてきた恰幅の良い中年の男。
アルゴンキンは、彼を幾度となく目にしている。
「恐縮でございますが、主人が御渡し忘れた物があると。今一度、館に戻っていただけませんでしょうか」
「ふむ、しかし」
「アロス様にと、主人が購入したドレス。そして、見ていただきたい最新の薬品があるそうで……。会話に夢中になり、それらを忘れていたと落ち込んでおります。アルゴンキン様の馬車では、小回りがききません。こちらに乗っていただければお手間も取らせないかと」
「アロスに、かね。ふむぅ、薬品も気になるな。致し方あるまい、承知した」
主人の失態を懸命に説明する男にアルゴンキンは低く唸ると、大きく頷いた。傍らの娘の頭を撫で、「アロスや、少しだけ良い子にしているのだよ」と告げる。
言われたアロスは、にっこりと微笑んだ。
豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇。まるで御伽噺に出てくる天使の様で、その愛くるしい顔立ちは見る者全てを魅了してしまうと言っても過言ではなかった。
アルゴンキンの愛娘、アロス。最愛の妻が命と引き換えに産み落とした、たった一人の娘。
アルゴンキンは馬車を手早く降り、一人の近衛兵を連れ馬車を乗り換えた。丁重に彼を誘った男は、再度申し訳なさそうに馬車に残されたアロスに深く礼をした。そして、父と娘が手を振り合う様子を微笑ましく見守る。
馬車が館へと戻っていくと、アルゴンキンの馬車も方向を変える。主人を迎えに行く為、屋敷前へ戻るつもりだ。
「アロス様、退屈でしょうが少々お待ちくださいませ。貴女様にドレスの贈り物だそうですよ」
そう告げられ、アロスは微笑んだまま窓から雪を見ていた。空から舞い降りる真綿の様な雪は、神秘的で楽しいもの。親が質素堅実を好むとはいえ、娘はやはり蝶よ花よと育てられている。そこらの子供のように、寒い中で水を汲むことも、洗濯もしない。積もった雪で従者が雪うさぎを作ってくれるくらいしか、雪には触れたことがなかった。
雪は春の前に空がくれる贈り物、そう聞かされていた。
何か妙な音が聞こえ、アロスが窓に身を近づけた時である。
馬車が激しく揺れた。
驚いて倒れ込んだアロスを、慌てて近衛兵が助け起こす。
窓に目をやった瞬間に飛び込んできた光景は、白ではなく赤だった。唖然と、その美しい朱色を見つめる。馬車は、揺れ続けていた。
「奇襲!? 馬鹿な」
切羽詰まった声を上げた近衛兵は、アロスを護る為に細身剣を引き抜いた。
アロスは状況が理解出来ず、狼狽する。外からは、男達の悲鳴とくぐもった呻き声が聞こえてきた。
「ゴフッ」
アロスの目の前で、近衛兵がゆっくりと崩れ落ちる。目を上げれば、彼の心臓あたりから剣が飛び出していた。そこから、ぬったりとした赤い液体が緩やかに零れ落ちている。
一気に、馬車の中に咽返る血液の臭いが充満した。腹の奥から酸がせり上がってくるものを堪え、アロスは慌てて口元を押さえる。
「みぃつけたぁ! さぁさ、お譲ちゃん。行きますよ」
近衛兵を足蹴にして現れたのは、まるで悪魔のような漆黒の装束に身を包んだ男達。彼らの瞳しか見えず、恐怖からアロスは後退った。腕を伸ばされ、恐怖で硬直する。蛇に睨まれた蛙状態で、一歩も動けない。動けたところで、逃げ場など何処にもないが。
アロスは、歯を鳴らしながら伸ばされた腕を唖然と見つめた。漆黒の布が、鮮血で染まって不気味な色に変色している。怯えで瞳が揺れるが、自分が着ていた純白のドレスにも鮮血が飛散しているのが見えた。
喉の奥で悲鳴を上げ、琥珀色だった馬車の中が朱で染まっている現実に直面する。
全てを燃やし、跡形もなく消し去ってしまう炎の赤。
抵抗出来ない放心状態のアロスを軽々と抱えた黒装束の男達は、そのまま馬車内に松明を落とした。一気に火の手が上がる。
「さぁ、引き上げだ!」
停めてあったみすぼらしい馬車にアロスを放り投げ、走り去る。
放りこまれる瞬間、アロスは愕然としながらも真赤に燃えて揺らめいている馬車を見た。そして、あまりに壮絶な事実を受け入れることが出来ず気を失った。
アルゴンキンが戻ってきた頃には、燃え盛る馬車は見るも無残な状態であり、道端に丁寧に並べられた遺体には無情にも雪が降り積もっていた。
近くの住民達が駆け付け、必死に消火活動にあたっている。近衛兵らを弔ってくれたのは、彼らだ。
アルゴンキンは半乱狂で愛しい娘を捜したが、何処にもいない。気が狂いそうになりながら並べられた遺体を見ていったが、娘の身長程の遺体が見当たらないことに少なからず安堵した。
「馬車に! 馬車の中に娘は!」
燃え盛る馬車に乗り込もうとするアルゴンキンを、死にもの狂いで皆が制する。あそこにはもう誰も乗っていないと、説得を試みた。
「どういうことだ! 何があったのだ! 誰か! 状況を詳しく説明出来る者はおらぬか!」
阿鼻叫喚の中、死人のような顔で蒼褪めている先程の案内人と共に、鬼のような形相でやって来た館の主人である豪商ラング。周囲に怒鳴り散らし、警備は万全な筈なのにと頭を掻き毟りながら、発狂する勢いで悲鳴を上げる。普段紳士的な彼がここまで取り乱す姿は、誰も見たことがなかった。
「申し訳ございませんでしたっ! 謝罪など、謝罪などっ」
アルゴンキンを一目見るなり、地面に這い蹲ってラングは大泣きしながら泥雪の中に頭を突っ込んだ。喉が嗄れる程に、「申し訳ない、申し訳ない」と何度も連呼している。
謝罪の言葉よりも、今はアロスの安否である。満身創痍ながらも、アルゴンキンはラングを気遣い慰めた。
「貴殿には、なんの非もないだろう」
疲れた声でそう告げ、馬車が焼け崩れる様を見ていた。
鎮火した馬車から二人の焼死体が出てきたが、大きさ的にアロスではないことは明らか。
死体がない以上、アロスが生存している望みはある。アルゴンキンは神に感謝した。無事でいて欲しいと、無気力になりそうな自分を叱咤し身体に鞭打って瞳に光を宿す。
この場にいないのであれば、連れ去られた可能性が高いという結論にしかならなかった。流石に、逃げ出すには無理がある。
身代金目的の誘拐を視野に入れ、アルゴンキンとラングは唇を噛んだ。
「こういう時に……トリフが居てくれたら」
焦燥感に駆られるアルゴンキンに代わって、ラングが率先し指示を出した。この地域ならば熟知している、警備を強固にし、包囲網を張った。
「鼠一匹とて、逃すものかっ!」
ラングは朗報を信じ、アルゴンキンを励ましながら待った。
けれども、アロスの行方は数日経過しても解らないまま。手がかりは、ない。