外伝3『ABHORRENCE』9:竪琴
文字数 3,693文字
「わぁ、おいしー……」
アニスは口内でそれを転がし、破られた袋を持ち上げる。手の中に残りの菓子を出すと、唇を尖らせ皆に視線を投げた。三個しか入っていないが、輪を描くように並んだ彼らは喉を鳴らし食い入るように見つめている。
どうやって残りを分けるべきか。
「あの人間がやって来た時、攻撃し追い返そうと思ったが……。友好的に思えたので、接近を許してしまった。共に来ていた生物も大丈夫だ、と言っていたので」
大きな欠片を食べ終えた鷹が、申し訳なさそうに語る。鷹は森の番人でもあり、上空から人間の侵入を常に監視していることは皆知っていた。
「大丈夫だよ、いつもありがとう」
アニスは微笑み、鷹に手を伸ばした。謝る必要はない、これは危険なものではないのだから。美味しい食事にありつけて、誰もが喜んでいる。
「共に来ていた生物は、クレシダというの。トリアのことが大好きな動物だよ」
「馬、というやつですな」
人間に飼いならされた気の毒な動物という印象だが、クレシダは嫌悪していなかった。それどころか親身になって寄り添っているように見えたので、鷹は奇怪な目で彼を見つめていた。
「トリアは優しい人間だから大丈夫。人間って怖いものじゃないよ?」
「う、うむ。しかし、あの者が異常なだけやもしれぬ」
口籠る鷹に、アニスは小さく笑う。彼が人間を善いものだと認めてくれるなら、これほどまでに嬉しい事はない。
「アニス、アニス、また食べたい!」
「もっと欲しい、もっと欲しい!」
「トリアは善い人間だね! だね!」
アニスは焼き菓子を細かく砕いて全員に与えた。騒ぎを聞きつけた他の鳥や動物も寄ってきたが、すでにない。それでも砂に混じった粉を無我夢中でつついて、なんとか食べようとしている。
「これが……人間の食べ物。何という木の実でしょうか」
アニスは口内に残る味を覚えておこうと舌先を動かした。木の実にしては食感が違う気がするし、何処となく花の蜜のような味もする。
これをトカミエルと一緒に食べたい、そう思った。
食べていると、みんなが笑顔になれる素敵なもの。一体、何処に行けば手に入るのか。
人間のことが知りたい、もっと知りたい。自分と姿は似ているのに、全く違う彼らの事を解りたい。
……そうしたらトカミエルに近づける? トカミエルのことを、知ることが出来る? 私の事も、知ってもらえるのかな?
アニスは淡い期待に胸を高鳴らせ、満面に喜悦の色を浮かべた。
「あれ? これはなんだろう?」
腹を満たした栗鼠が太腿から落ちそうになっていた首飾りを咥え、引っ張る。
毛繕いをしている鷹が、一瞥して告げた。
「それも、あの人間が置いていったよ」
であれば、危険なものではないだろう。華奢な指先で石を摘み、アニスは小首を傾げてそれを見つめた。透き通る石の中で光り輝く色は、雄大な水の流れに思える。
「なんとなく、トリアに似てる気がする」
輪になっているそれをどうすべきか分からなかったが、これも失くさないように身につけようと思った。
「アニス、それを首に下げるといいんじゃないかな、かな!」
「本当だ、これなら落ちないね」
栗鼠に言われ、首飾りの正しい使い方を覚えた。石が自分の胸に来るように回して調整し、満足してうっとりと微笑む。
「人間は、こうして着飾るのかもしれない。自己主張だ」
「……でも、どうしてトリアは私にこれをくれたんだろう?」
アニスはそれが不思議で、じっと胸元の石を見つめた。
「トリアを着飾っていたこの綺麗な物も。大事でしょうに」
不恰好に手に巻き付けた布を見つめ、幾度も瞬きをする。意味は解らないものの、心の奥底がじんわりと温まる気はした。
動物たちは顔を見合わせ、なんとなく察していたものの上手く言葉にできず俯く。
「私も、みんなに木の実を拾って届けたりするものね。大事な友達には、何かあげるよね。トリア、私のことを友達だと思ってくれたのか、な? ……そうだといいな」
友好の証。そういった意味合いに辿り着き、困惑しつつも納得する。
トリアの行動は、アニスへの求婚に思えた。動物たちは、そこに気づいている。しかし、人間と妖精は別世界の生物。あってはならぬことだと黙秘した。
「そ、そうだといいね、いいね!」
「トリアなら大歓迎だよ! また木の実を持って来てくれるならね!」
トリアという人間ならば受け入れ始めた動物たちだが、餌につられたわけではない。
あの人間は、何かが違うと直感していた。
「友達」
念願の、人間の友達。
アニスはそれが嬉しくて、首にぶら下がっている石を太陽の光に透かして見つめた。
「眩しい……!」
反射したそれが、瞳に刺激を与える。だが、それすらも嬉しい。森にはない未知のものに心が躍る。
初めて出来た人間の友達は、トリア。彼は、トカミエルの双子の弟である。
……もしかしたら、もうすぐトカミエルに逢える?
天にも昇る気持ちで、アニスは口元を押さえる。こうしていないと、歓喜の悲鳴を上げてしまいそうだった。想うだけで胸が締め付けられて苦しいのに、心地良い。奇妙な感覚に、身体中が震える。
……トカミエルに、会いたい。
頬を染めたアニスは、熱っぽい溜息を吐いた。
……あの強い眼差しで見つめて欲しいな、あの綺麗な声で名前を呼んで欲しいな。そして一緒に遊んでくれたらいいな。川で水遊びして、原っぱでおっかけっこして、木に登って。それから、お花畑で冠を作ってもらえたら。
アニスの頭上で華やかに咲き誇っている花冠は、先日トカミエルが作った物だ。未だに作りたてのまま、生き生きとして艶やか。
それは今後も変わらないだろう、
それから数日間、トリアは木の根元に贈り物を届けた。
皮肉にもアニスがその時間帯に不在だったので、二人が顔を合わせることはなかった。けれどもめげることなく、街で似合いそうな物を見つけてはやって来た。翌日には物が消えていたので、彼女の手に渡っていると信じている。
二日目は鉢植えの花を。その花は、森には咲いていないものだった。アニスは大層喜んで、老樹のもとに運び、育てている。
三日目にも花を。これも見たことがない華やかな花で、茎に棘があるが荘厳な雰囲気だった。気高い感じがトリアに似ていると思って一緒に育てた。
四日目は竪琴が届いた。初めて見る楽器にアニスは戸惑ったものの、鷹からトリアがこれで音を鳴らしていたと教えてくれたので見よう見まねで弦を弾いた。
曲を奏でることは出来ないものの、音は鳴る。
空気が震えるような音にアニスは心を奪われ、暇さえあれば指を動かした。そうすると、まるで鳥たちと一緒に囀っているような感覚になる。
「人間はやはり不思議。これは一体、どういうものでしょう!」
全てが繊細な手作業の、高級な竪琴。安くはないので、トリアも無理して購入した。
妖精が月夜の晩に奏でていたら非常に絵になると思ったが、それだけではない。アニスにこれを渡さねばならない気がしていた。
トリアが楽器屋で悩んでいると、店主が話しかけてくれた。贈り物だと告げると、「手の大きさで選ぶのがよい」と言われたので背格好を伝え、適切な助言のもと選んだ品だった。
「やっと、竪琴を渡せる」
出来れば奏でているところを見ていたいが、そうもいかない。だが、アニスの手に渡っていることが解ればそれで十分満足している。遠い昔、彼女に竪琴を渡す約束をしていたような気がしていたのだ。
いよいよ自分の気が触れてしまったのかと思い始めたトリアだが、悪い気はしない。傍から見たら魔性に魅入られていると思われても仕方がないが、それでもよかった。
「森は広大。一体、彼女は普段何処にいるんだろう」
毎日飽きもせず足を運ぶトリアだが、太陽の高さで時間を把握している
アニスは森を見回り、動植物に話しかけたり様子を見て過ごしている。共に遊びながら、彼らの体調を見ていた。怪我をした動物に話しかけると彼らは回復する。寿命以外であれば、助けることが出来た。
それが、動物たちがアニスを『守護者』と呼ぶ所以だ。他者を癒す能力が備わっている生物など、他にはいない。
「また置いてある……!」
見回りを終えようやく花畑にやって来ると、トリアが来た痕跡を見てアニスは目を輝かせた。
菓子が届くと惜しみなく動物たちに与え、花が届くと老樹に見せてそこで育てる。僅かな光しか届かぬ森の最奥であっても、花たちは目の覚めるような艶やかさで咲き誇っている。
それは、人間が知れば喉が手から出るほどに欲するアニスの未知の能力だった。