外伝2『始まりの唄』4:村娘アリア
文字数 5,719文字
乗馬は嗜んでいたが、このような長距離移動は初めてだ。僅かな食事で飢えを凌ぎ、小川の水で喉を潤し、馬に休息を与えながら野宿をする。幸いにも山賊に遭遇することはなく、また老体二人に合わせて旅を進めているので、体調を崩すこともなく旅は続いた。
ただ、村を見つければそこで休むが、見つからない時が多く、流石のトバエも幾度か挫けそうになった。
しかし、苦労してでも得た自由に心は踊る。
街に到着した時は、装飾品を売って金にし、二人に寝心地の良い宿を与えた。二人は遠慮したが、感謝の気持ちとして、それくらいの贅沢はさせてやりたかった。
乳母の夫は狩りの達人でもあったので、トバエは道中で狩りを憶える事ができたし、野草についても詳しくなった。川で魚を獲る事も、上手く出来るようになった。食事は自身で用意する、用意できなければ、空腹が待つのみ……当然だが、生きる為に必死になる。城にいた時には、そのようなこと考えもしなかった。黙っていても、食事は出てきた。時折、毒入りだったが。
途中、飢えに苦しむ村を幾つも見た。今年は天候の為、作物が不作だという。
家の外で倒れている河と骨だけの人々に手を差し伸べたくとも、そこまでの余力がない。ただ、旅をしている自分達の方が、随分と裕福な生活をしていることに衝撃を覚えた。
「……もう、オレには何も出来ないが、視野を広げるべきだった。国で余っている金を地方に注がねばならなかったのだな、地方と首都の格差が激しい」
目を背けたくなるほどに貧しい集落で、ぼそりとトバエは呟いた。
「そう思われるのであれば、やはり貴方様には王としての器が備わっていたのですな。惜しい事です。ですが、そう思えるお方だからこそ、私達は供を申し出たのですよ」
乳母の名はカルティア、その夫の名はキースといった。
カルティアは眩しそうにトバエを見つめ、キースは満足そうにトバエに平伏す。
「もう王子ではないのだから」
苦笑し告げたトバエはキースを立たせると「以後、敬語も禁止だ」と嗜めた。そして、年老いた夫婦と、その息子という偽りの設定を設ける。そのほうが、何かと都合がよい。
城を出てからというもの、トバエの表情に変化が表れた。張り詰めた糸で絡め取られていたのだろう、冷酷にも見えた冷たい視線は太陽の光に触れて穏やかに色づく。上等だった衣服は汚れ幾箇所か継ぎはぎをし、顔も泥で汚れている。衣服は確かに貧相になったが、生き生きとした表情は、締まった顔つきをより際立たせる。
そして、以前より幼い笑顔を見せるようになった。
「キース、見てくれ! あの美しい鳥はなんだ?」
「キース、巨大な魚が獲れた! これは……美味いのか?」
「カルティア、森で変わった茸を見つけた、食べても大丈夫か?」
「可憐な花だな、小さくとも存在感がある華やかな純白でとても美しい。名は何というんだ、教えてくれカルティア」
行く先々で、トバエは全てのものに興味を持った。そして、すぐに質問をした。
そんな無邪気な姿に、老夫婦は胸を撫で下ろし笑みを交わす。「この子は、窮屈な城で暮らすより、こうして外に出たほうが全てを曝け出せる。正解だったのだ」と、頷き合った。確かに彼であれば賢王になれたかもしれない、だが、それではトバエの気が休まらない。
すでに自分達の愛しい息子の様に思い始めていた夫婦は、平凡な人生を歩ませる事になんの躊躇いもなかった。例え故郷の国が彼の兄である狂王によって、混沌に導かれたとしても。
夫婦には子供がいなかったこともあり、感情移入は早かった。
城を出て一年ほど経過すると、三人は歳こそ離れているものの、傍から見たら元上流階級の親子のようだった。身分を偽っても、トバエの供え持った気品は隠せない。汚れても高貴で整った顔立は、人目を惹く。夫婦も元々上流階級だ、否応なしに品性が滲み出ていた。
やがて、首都と変わらぬ程栄えた大きな街に辿り着いた。
人々に活気があり、物資が溢れ、酒場を覗けば仕事が多々あるので、ここに定住を決めれば生活に困る事はないだろう。年老いているとはいえ、城に勤める事が出来る程認められた腕前の乳母カルティアと、物知りで狩猟に秀でたキースならば働き口はありそうだ。また、カルティアは刺繍も上手く、それを売れば裕福な家柄の婦人達がこぞって買い求めるだろう。
けれども、数日滞在し、食料などを買い込んだだけで立ち去った。
トバエが描く理想の場所とは程遠く、ここは騒がしすぎた。生活が楽かよりも、自分に居心地の良い静かな場所を渇望した。
「すまない、ここには“オレの求めるものがない”」
そんなトバエの意思を尊重した二人は嫌な顔一つ見せず、旅を続ける。
自分が根を下ろす場所に辿り着けば、胸がざわめくことを知っている。トバエは失った何かを捜すようにして、まだ見ぬ土地を求める。
それから、大河を船で渡り、暫く歩いた山中で静かな村を見つけた。煙のように流れる雲が、山々の狭間を去来する。太陽の光が、村へ案内するように差し込む。
「なんと美しい場所だ……! 今まで見てきたどの景色よりも素晴らしい」
トバエは、驚きに打たれた。胸が、ざわめく。まだ足を踏み入れていないというのに、求めていた場所はここで間違いないのだと、息を飲んで身体中を震わせた。
村の中心には小川が流れており、女達はそこで洗濯をしていた。地中から湧き出た冷たく美味な水が川となって大地を潤す。上流で飲食用に水を汲み、下流で洗濯をする。
豊富な水源のある山なのか、小川だけでなく至る場所から水が湧き出ていた。水中花が綺麗に咲いている、ゆらゆらと揺れる姿は幻想的で美しい。
鶏や牛や豚、山羊の鳴声が聞こえる。畑では、逞しい腕の男達が土を耕している。
質素ながらも心は裕福なのだろう、村人達は始終笑顔で突如現れたトバエ達にも軽く頭を下げ、親しげに挨拶をしてくれた。
トバエは感じの良い村人達に、すぐに好感を抱いた。そして、すでにここでどのように暮らすか思案を始めていた。
そんな心躍る瞳の輝きを見たキースは全てを察し、直様村長へ謁見を申し出た。夫婦らも、この村の雰囲気をとても気に入った。カルティアの故郷はまだ先だったが、三人の意見は一致していた。
ここに、住みたい。
「お忙しい中、失礼致します。わたくしは遠方からやって来た、キースと申します。いやぁ、素晴らしい村ですね、是非ともここに住みたいと思いまして。村長様のご自宅はどちらにございますか」
「遠くからよく参られましたな。村長といっても、そんな立派なものではないですよ。どれ、ご案内しましょうか」
野菜を収穫していた屈強な男に声をかけると、豪快に笑いながら多少大きな家に案内してくれた。
「何もないところですが、おかけください。若者は街へ行ってしまい年中人手不足なので、申し出はとても有り難いです」
なんと、声をかけた男こそが村長だった。額の汗を拭い、娘に客人を持て成すように伝える。娘と言っても、三十路を超えている。しかし、あどけなさが残る、純朴そうな女だった。村長も若く見えたが、実際はキースよりも年上で、それには三人が驚いた。生き生きと暮らしている為か、年齢よりも若く見えてしまう。カルティアは、ここで暮らせば自分も若返るだろうか、とはしゃいだ。
村で育てている薬草茶が出された、それはこの娘が調合したという。鮮烈な香りがふわりと鼻孔をくすぐり、三人は瞳を輝かせる。
トバエは瞳を閉じて思い切り吸い込み、その香りを堪能してから戴いた。
湧き出ている水で淹れた茶は、城で飲んだどんな高級な酒や紅茶よりも美味しく感じられた。喉を通り抜ける爽快感は、自然の恵みそのものだ。
キース達に小難しい話は任せ、トバエは村を散策することにした。話は直ぐにまとまることも、気付いていた。去り間際に『廃屋がありますので……』という村長の言葉を聞いたからだ。おそらく、そこが仮の住まいになるのだろう。
笑みを浮かべて小走りに村長の家を飛び出したトバエは、活気ある人々の生活に飛び込めることに感謝した。
……オレはここで何をしよう、何か役に立てるだろうか。
走り回る鶏を避けながら、村の端まで一気に駆け抜けるとそこは切り立った崖になっていた。
崖には幾つもの黄色や白の小さな花が咲き乱れ、楽園のようだった。風で花が揺れると一気に甘い香りが漂い、身体がふわふわするような感覚に陥る。荒くなった呼吸を鎮めるように大きく肩で息をしたが、いつまで経っても胸の鼓動は早鐘を打つ。
胸に湧き上がるある種の予感に、喉が渇く。
「ぁ……」
思わず、声を漏らした。
その花畑に、艶やかな新緑色の髪を揺らし、息を飲む程の美少女が歩いている。崖の上の木の柵に縄を結び、それを頼りに時折しゃがみ込み歩き回っている。美少女といっても、まだ幼い。だが、すでに並外れた美しさが溢れ出ている。
「そこは危ない」と叫ぼうとしたが、身体に電撃が走ったように硬直し、声が出なかった。
呼吸が停止する、胸が躍る、身体が小刻みに震える。何かが体内を突き抜けていくように、血液が逆流するかのように、強い圧迫感を覚えた。
トバエの視線に気付いたのか、ゆっくりと少女はこちらを向き、やんわりと微笑んだ。
脳が、揺さぶられる。
縄を懸命に握って崖から上がってくるその姿が、一生懸命で可愛らしい。着飾った少女達を城でも見たが、ここまでの美貌を目の当たりにしたのは初めてだった。健康そうな肌の色と上気した息使い、艶かしいしなやかな足。豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇。
まるで御伽噺に出てくる天使の様だと思ったが、同時に懐かしさが込み上げる。何故だか解らないが、脳がそう体中に伝達した。それは、なんとも心地良いものだった。
そして、この瞬間を待っていた。
この為に、城を出て、安息の地を求め続けた。
トバエにとっての安息の地とは、この少女がいるか、いないか。
「喜ぶ顔を見ていたい、それだけだ。地上の太陽に相応しい大輪に咲き誇る向日葵のような眩しい笑顔で笑うから」
ぼそ、とトバエは呟いた。
崖から顔を覗かせてにっこりと笑った美少女は、柵を軽やかに飛び越えるとトバエに一直線に向かってきた。
周囲の空気が急激に変化した、村に入った時から異常なまでの安心感に包まれていたのだが、彼女が近づくたびにそれが増す。居心地が良いと直感した村の正体は、彼女から溢れ出る不思議な空気のせいだと悟った。
「早く、ここまでおいで」
突っ立ったまま不意に呟いたトバエは、激しく脈打つ胸を押さえようと拳を作り、懸命に唇を噛締める。発狂しそうだった、歓喜に包まれ興奮で頭に血が上り、まるで薄桃色の空気が包み込むように五感を刺激してくる。意識が朦朧とする、身体中が浮いたようにふわつく。
けれども、少女の姿だけは鮮明に瞳に焼きついたままだった。
トバエが、徐に手を差し伸べる。
ぱぁ、と笑顔を見せた少女は駆け寄ってくると、軽く地面を蹴ってトバエの胸に飛び込んだ。
伸ばしていた手を戸惑うことなく折り曲げ、少女を抱きとめる。なんと、柔らかく温かいのだろう。そして、どうしてこうも胸が苦しいのだろう。
反射的に抱き締めていたが、戸惑いを覚えた。
人から抱き締められた記憶も、抱き締めた記憶も、ない。親子の様に接してくれているキース達とて、まだトバエを抱き締めたことがない。両親が生存していた頃に抱き締めてもらったかもしれないが、それはまだ物心ついていなかった。
けれども、懐かしく、安心する。思わず涙を零しなくなるほど、熱いものがこみ上げてきた。
『遠イ昔ニ、コノ温カサヲ知ッタ気ガスル』
頭の中で、声がした。不快ではない声だ、寧ろよく知った声だ。
これは、自分の声だと気づいた。
「逢いたかった、捜していたよ。だからオレはここまで来た。ようやく逢えた、見つけ出したよ」
震える声が、唇から漏れる。
少女は不思議そうに自分を抱き締めているトバエを見上げ、大きな瞳で何度か瞬きを繰り返す。
「わたし、アリア。おにぃちゃんのお名前は?」
アリア。
そう唇を小さく動かしたトバエは、嫣然と微笑む。
……あぁ、見つけたよ、“アース”。間違いなく、君だ。
アリアの美しく艶やかな髪を撫でながら、トバエは溜息を零した。
「トバエ。オレは、トバエだ。……アリア、今日からオレはここに住むからずっと一緒にいられるよ」
「とばえ? トバエおにぃちゃん!」
アリアは名前を復唱すると、あどけなく笑いながらトバエに抱きついた。
黙ってトバエはアリアをそっと抱き締め、腕の温もりに喉を鳴らす。そして、躊躇しつつも敬意をもって、髪に口付けた。懐かしい大地の香りがした、それは、全てを慈し育む愛情と恩恵を連想させる。
苦しかったのか、軽く身動ぎしたアリアに慌てて力を緩めると、瞳が交差する。見ているだけで吸い込まれそうな大きな美しい緑の瞳は、珠玉。直向で優しさの浮かぶ光。
王位を放棄した美貌の王子、トバエ=カミュ=ラファシ、十四歳。
名も無き村の美しき少女、アリア=ブラウン、九歳。
涙を堪え、むせ返るような歓喜を押し殺しつつ、トバエは安らぐ笑顔を浮かべたままのアリアを見つめた。
固い絆で結ばれている二人は“この時代で”こうして出逢ったのだ。
※ 2020.09.02
ほたる恵様にご依頼して描いて頂いたアリアのイラストを挿入しました(*´▽`*)
きゃわいい!
いつもありがとうございます!