外伝2『始まりの唄』12:火の海
文字数 5,627文字
「あの馬鹿」
民に悪気はない、しかし前方を塞がれると焦燥感から苛立つ。「退いてくれ!」と叫んだところで意味がない、少しでも安全な場所へ行こうとする人々で埋め尽くされている。
この騒ぎに便乗し窃盗を行う者達も居たが、咎める余裕などなかった。
親とはぐれた子供らが、路の脇で泣いている。アリアは蒼褪めトバエに訴えたが、無駄であった。
街は、トダシリアたった一人の力によって、火の海と化した。
そのおぞましい魔力に対抗できるのはトバエだが、この状態で人々を救いながら誘導することは不可能だ。人々を犠牲にしてでも、迫り来る魔の手から逃れる他ない。
城に居た頃は同等の能力だった、しかし、今の自分ではトダシリアの火炎を相殺できないと痛感した。今日ほど、双子の兄に恐怖したことはない。背を冷たい汗が伝う、身体が小刻みに震える。
……何故、あそこまで凶悪な力をっ。王になった以上、お前の敵などいないだろう。
考えても仕方が無い事だが、尋常ではない兄の増幅した力に戦慄し考えてしまう。気持ちを切り替えようと、トバエは頭を振って馬を走らせた。
「トバエ、お兄さんって」
「喋るなアリア、舌を噛む!」
頭越しに怒鳴られ、アリアは口を噤んだ。訊きたいことは多々あるが、今は大人しくしていようと決め、唇を真横に結ぶ。夫の邪魔をしてはいけない。だが、助けを乞う人々を見殺しにしてまでも自分達が助かってよいのか、不安ではあった。
逃げ切れたとしても、心は晴れるだろうか。確実に、後悔する。
後方で、爆発音が響く。耳を裂く様な悲鳴が数多も響き渡り、目に染みる黒煙が周囲を覆う。
アリアは強く瞳を閉じた、本当ならば耳も塞ぎたかった。助けを求める人々の声を聞いていられなくて眩暈がする。無力な自分に、馬上で項垂れた。
やがて混雑から馬で進む事が難しくなると、仕方なく降りた。街を出てからの移動手段だったが、仕方がない。
「楽器を」
アリアは小さく呟いた。
「私が楽器を欲しなければ、この街は助かったのでは」
「悪い方へ考えるな」
「で、でも、私達が村から出なければ、お兄さんに遭うこともなく、誰も傷つかずに」
「アリアッ! 悔いたところで状況は変わらない、どんなことがあろうとも最善を尽くすまで」
トバエは、判断を迫られた。ここで足止めを喰らっていたら、トダシリアに追いつかれる。袋の鼠だ。
「どうすればいいっ」
弾力を失っている心では、善き案が出せない。
人に押されながら、ニ人は身を寄せ合った。長身のトバエがアリアを気遣い、腕で囲みながら抜け道を探す。冷静になれ、落ち着け、と言い聞かせるが呼吸は、浅くなるばかり。
この街は、至る所に強固な門が建っており、外に出る事が困難だ。過去に盗賊から護るべくして造られたらしいが、内部の災害に非常に脆いという事態を引き起こした。どうにか門を越えようとよじ登る人々もいたが、無残にも落下し絶命している者達が数名いる。
街を流れる河に飛び込む人々もいた、確かに流れていけば街の外に出る事が出来る。だが、そこすら入り込む余地がない。
「アリア、こちらへ」
「は、はい!」
トバエは人目のつかぬ路地裏に身を隠し、トダシリアに見つからぬ様息を潜めた。街を出たと思わせ、この場に残ることを選んだ。喧騒から離れ、多少は呼吸がしやすくなる。ようやく、アリアに微笑し、髪を撫でる余裕が出来た。
「熱くないか」
「私は大丈夫」
トバエは、水の粒子をアリアの身体に纏わせる。
夫のこの能力を初めて目の当たりにし、多少目を丸くしたものの、アリアは何も言わなかった。無事に逃げ切れたら、色々訊けばよいのだと。
「地下室を所有している家があれば……そこに身を隠せる」
「私達の勤め先の斜め向かい、あのお店は地下にお酒の貯蔵庫があるって聞いたことが」
「成程、行ってみよう」
警戒しながら、そっと歩き出す。火の手が上がっているものの、どうにか場所は把握出来そうだった。
『頼む……もうお前しか』
突如声が聞こえ、トバエは大きく瞳を開く。立ち止まり様子を窺うが、人気はない。気のせいかとも思ったが、瞳を細めると右前方に妙に燃え盛っている何かがある。
「トバエ?」
アリアが咳込みながら声をかけると、舌打ちして額に吹き出た汗を拭った。
黒煙を払うかのように風が一瞬吹き、太陽の光が降り注ぐ。
『どうか、彼女を』
やはり声が聞こえた気がして、トバエは振り返った。胸がざわめく、懐かしい声だったが、誰か解らない。しかし、炎の中で二人の男がこちらを見つめているような気がした。名を呼ぼうとしたのに、出て来ない。
『急いで、あちらに!』
二つの影は、同じ方向を指差した。
トバエは神妙に頷くと、きょとんとしているアリアの手を握り締め進む。今の二人が誰かは解らない、だが、味方であると信じた。
「アリア。……今、何か見えたか?」
「いいえ、何も。全てを燃やし破壊する恐ろしい炎があっただけ」
「そうか、ならいい」
トダシリアの禍々しい気配なら、接近すれば気づけるだろう。今のところ、この場は安全な様だ。
「あぁ、なんてこと」
遠くに、燃えている楽器屋が見えた。店主は無事だろうか、黒煙の隙間から橙色の炎が見え隠れしている。涙を流すアリアを抱き締め、トバエは兄への憎悪を募らせる。
トダシリアの目的がアリアだと知った以上、逃げるほかない。
「さぁ行こう、もうすぐ店だ」
「は、はい」
路地裏から大通りに出なければ、店には辿り着けない。立ち込めた黒煙が身体に纏わりついてくる気色悪さと戦いながら、二人は突破口を探す。
『そちらは駄目だ!』
脳内で、誰かが叫ぶ。
途端、すぐ傍で起こった爆音にアリアが悲鳴を上げた。
目的の店から、ゆらりと影が躍り出る。右手には、ワインの瓶を抱えていた。
「祝盃用に、よいワインを見つけた。流石トバエだ、連れてきてくれてありがとう」
「お、おまえ」
身を潜める予定だった建物が、爆発した。高笑いしたトダシリアは炎を身に纏い、宙に浮かんでいる。身体から、幾つもの火の玉を放出させながら満足そうに二人を見下ろす。唇を噛締め、敗北寸前のトバエに優越感を抱いた。そして直様手に入れられるだろう、弟の最も大事な女に恍惚の笑みを向ける。
「鬼ごっこは飽きた、終わりにしよう。オレがまどろっこしいことが嫌いなこと、トバエだって覚えているだろ?」
舌舐めずりしながら、震えているアリアに視線を移す。トバエの腕の中で縮こまっているその唇は青褪め、立っているのも辛いのかトバエに身体を預けていた。
「っ! お前は、どうしていつもそうやってっ。あさましい売女がっ」
憤怒の色が瞳に宿ると、両腕を大きく広げ地中から火柱を出現させる。ニ人を囲み逃げ場を失くすようなそれは、檻に見えた。驚愕の瞳で見つめてくるトバエに、トダシリアは意外そうに首を傾げ哂う。
「アリア、オレから離れるな!」
もう、隠れることなど出来ない。ならば、戦うのみ。言うが早いか、宙に浮いているトダシリアを突き刺す勢いで、地中から巨大な氷柱が何本も出現させる。標的を狙いながらも、火柱の一角を相殺すべく全力を注いだ。街を焼き尽くす勢いで魔力を放出したトダシリアに勝てるとしたら、持久戦に持ち込むこと。真っ向から相手に挑む事が、無駄な場合もある。トバエは隙をついて逃亡する事を、まだ諦めていない。
けれど、万が一失敗した場合。
トダシリアの能力が、トバエの想定外だった場合。
「……アリア」
「はい」
妙に落ち着き払ったトバエの声に、アリアが顔を上げる。そこには、覚悟を決めた男の顔があった。微塵も迷いはない、うっすらと穏やかな笑みを浮かべている。
「オレは、アリアを置いて死にたくはない。これからも、傍で護りたい。けれど」
「私は、トバエがいないとどうしてよいのか解りません。無知な私に様々な事を教えてくれた、そして、いつも護ってくれた。離れたくない」
もし、足搔いても無駄だった場合。
その時は共に、死のう。
死がニ人を別つまで共に居たいと願ったが、共に旅立つという選択肢がある。どんな最期であろうとも、本望。一人、この世に遺されるくらいならば。
「私は、何処へでもついていきます。“この世で、私の願いは成就されました”」
同じ想いだった事に、トバエはこの状況下ながら目頭が熱くなった。生きることも、死ぬ時も一緒でありたいと願う人物に出逢えた事、そして相手も同じ想いを抱いてくれていた事に感謝した。
どんな終末を迎えようとも、それでもトバエは神に感謝した。
神という偶像など、信じていなかったが。
「アリア、愛している。アリアの笑顔を、護れなくてすまない。楽器を与えてやれなくて、悪かった」
「いいえ、トバエは何時も傍にいてくれて、私はとても幸せでした。それに、今も、護ってくれてます。これから旅立っても、護ってくれるのでしょう?」
「勿論、いつまでも護り続ける」
嬉しそうに瞳を細め、柔らかな笑みを浮かべているアリアを見つめた。顔が煤だらけであっても、目の前の妻は美しい。あの日、村で出逢った時と同じようにトバエを魅了する。
トバエの氷柱では、トダシリアの火柱を消すことが出来なかった。力の差は、歴然としている。
生き延びる事は無理だと判断しざるを得ない現状で、トバエはアリアを強く抱き締め口元を緩ませる。満ち足りた人生だった、これ以上は贅沢だと思った。
トダシリアの放った火炎が四方から迫ってきたが、トバエは対抗しなかった。敗北を認めた、悔しいがアリアが傍にいる以上無茶は出来ない。一人であったならば、まだ戦えただろう。しかし、防御に徹しながら反撃することは不可能だ。
それでも、死は不思議と怖くはない。想像を絶する灼熱に襲われるだろうが、腕の中にアリアがいるというだけで心地良ささえ感じた。
しかし。
背に高温を感じ振り向く間もなく、熱く重いものが身体に突き刺さった。
鈍い、音がした。
何が起こったのか解らなかった。青褪めたアリアが自分の名を呼び、発狂している様子を朦朧として見つめる。
「馬鹿か、ニ人揃ってオレが殺すと思うか?」
呆れた声で、背後に回っていたトダシリアが呟いた。
だらり、とトバエの腕が力なく下がる。アリアの衣服が、見る見る真っ赤に染まっていく。
ようやく、トバエの唇からうめき声が漏れた。
「ゴフッ」
身体を、炎の剣が貫通している。腹部から突き出た剣先には、滴り落ちる鮮血。けれども、灼熱の件は体液すら蒸発させる。内部から焼かれる激痛に、トバエは意識を手放しそうになった。後方に回っていたトダシリアに、全く気付けなかった。
トダシリアはニ人に火炎が迫る中、俊敏にトバエに近づくと直様それを自らの剣に取り込んで背後から刺した。
「オレの目的は伝えただろ? 死体なんぞ、意味がない」
あまりに呆気ない弟の最期に落胆したトダシリアは、唾を地面に吐き捨てた。それは、怒りすら覚えるものだった。
「もっと、愉しませてくれるものだと思っていたのに、抵抗もせず死を選ぶとは情けない。いつからそんな腑抜けになった……」
身体中を抉るように剣を無造作にまわしながらゆっくりと剣を抜き取ると、辛うじて立っていたトバエの身体を蹴り落とす。
「トバエ!? トバエ!」
泣き叫びながら、その身体をアリアが抱き締める。腹に穴の空いたトバエの身体からは、肉が焦げる臭いがする。瞳の光は風前の灯火、意識があるのかないのか解らない。けれども、ヒューヒューと力なく呼吸する音は聞こえる。
まだ、生きている。
「あっれー? オレ、強くなり過ぎた?」
小さく零したトダシリアは、トバエにしがみ付いているアリアを見下ろした。死に逝く双子の弟と、その妻。面白い構図だと思った、見ていると異常な興奮が込み上げてくる。
「放っておけば直に死ぬ。さて、おいでアリア。今日からオレが、新しい夫だ。未亡人では辛かろう? お前は、寂しがり屋だものな。男に依存しないと生きてはいけまい? 拾ってやろう」
優雅に、右手をアリアに差し出した。
だが、誰がその手に縋るだろう。アリアはその手すら見ずに泣きじゃくり、懸命にトバエに呼びかけている。
「死人は、お前に何もしてくれない。こちらへおいで、アリア。まずは何をしよう、汚らわしい血痕が付着したその衣服を捨ててしまおう。流行りのドレスを買おう、どんな色が好みだ? 近くに所有している館があるから、そこへ大勢商人を呼んでやろう」
哀切を極めるアリアなど気にも留めず、トダシリアは語り続ける。その言葉を、誰が聞いているだろう。
「アリア、あのな。オレは気長なほうではない。男に従順な女だと思っていたが、違うのか? 夫の言う事を聞かない妻には、それ相応の仕置きが必要だが」
アリアの耳に、傍若無人な男の声など届かない。この世とあの世の境目にいるトバエをきつく抱き締め、ただ神に祈った。
他に、何も出来ない。
その様子を不振に思い、トダシリアは怪訝に眉を顰めた。
「アリア、お前……治癒能力が備わっていないのか」
疑念を含んだその言葉も、アリアの耳には届かない。
トダシリアはアリアの横に片膝をつき、観察するように眺める。
だが、気づかない。トバエ以外に、感心が無い。
「あぁ、ああ……。トバエ、トバエ」
もし、トバエが事切れたらば、アリアは舌を噛んで自害するつもりだった。それまでは共に居ようと、覚悟を決めた。
「いい加減、行くぞアリア。流石にここまで暴れると、オレも疲れる。一刻も早く、お前の胸の中で休みたい。今日から一つずつ、夫であるオレにお前の事を教えておくれ。欲しい物があれば、何でも与えてやろう。このオレに、用意出来ぬものなどないからな」
トダシリアは、浮足立ってそう告げた。