外伝3『ABHORRENCE』17:地獄の業火に似た男
文字数 5,570文字
「狼さんー、熊さんー! 助けてっ、アニスが人間に虐められてる!」
栗鼠は素早く森を駆け巡り、非常事態だと叫んでまわった。
招集され老樹の元に集まった小動物たちは、咆哮すると一斉に駆け出していった。泣き喚く椋鳥を叱咤し、一丸となって。
「僕のせいだ! アニスに酷いこと言ったから、一人で人間に遭いに行っちゃったんだよ! どうしよう、殺されちゃうよ!」
「助けに行こう、まだ間に合う!」
「ごめんなさい、どうしよう、ごめんよアニス!」
兎に栗鼠、狐に狸。鷹に鷲、山鳩や啄木鳥に椋鳥が、花畑を目指して一斉に飛び出した。仲間である大事な妖精・アニスを助ける為に。
狼に熊、猪が高らかに雄叫びを上げ、勇ましく後を追う。
森全体が、大きく揺れた。
先刻、アニスを捜していた小鹿が見た光景は悲惨なものだった。人間に取り囲まれ、怯えている姿に胸が引き裂かれそうになった。慌てて森の奥へと戻り、助けを求めたのだ。
「アニスを救いだすぞ!」
「下劣な人間どもめ、アニスは歩み寄りたいと願っていたのに!」
森中の動物が一丸となって花畑へ向かう最中、老樹は物言わずして彼らを遠見した。
「あぁ、
何処かで見た光景に、嘆く。遠い昔、同じようなことが起こった。だとすれば、結末も同じだと悲観する。
「そろそろ、今生との別れじゃ。……おや?」
けれども、花畑の方向で光が、水が、風が揺らいだのを感じ、老樹は微かに未来を望む。
「あれは、もしや」
だが、頼みの糸はあまりにも儚い。それよりも強く巨大な波動が、老樹には見えている。森中が焼け焦げるような瘴気に叫声を上げている、長くは持たないだろう。命を育む大地が苦痛に喘いでいるのは、灼熱の業火を間近に感じている為。それは、全てを飲み込み焼き尽くし、命を奪うもの。
老樹は、虚しく笑う。寿命が迫っている、抗う力は残されていない。
「折角
粛然として立つ老樹から湧き上がった青白い発光体は、か細くもゆっくりと天へと昇っていった。
「あの子を救いなされ。光と水と風の加護を受けし者」
人間の街へ、街の片隅へ、片隅にいる三人へ。
老樹は懐かしい故郷を、情景を、そして眼に焼きつかせた人物たちを思い描いた。
黒に近い深緑の髪の冷徹な瞳の奥底に隠す、孤独と絶望の中誰よりも癒しを求めた光を。
紫銀の髪の頑固なまでに想いを貫き通す、唯一人の為だけに産まれ落ち、護り抜くことを決意した水を。
黒髪の幼さの残る、誰よりも彼女を理解し共に笑い悲しみ泣き、時折叱咤することが出来る風を。
発光体は消え入りそうなままよろめき、彼らを捜して街へと向かう。
アニスは呼吸すらままならず、無抵抗のまま大人しくトカミエルの腕の中にいた。思考がまとまらず、力が抜けていく。先程『家に持って帰る』と言っていた。招かれることは嬉しいが、『部屋で飼う』とはどういうことか分からず困惑する。
しかし、言葉は通じない。問う事も、本音を告げる事も出来ない。
……苦しい、苦しいよ。トカミエル、どうか私の意思を汲み取ってください。
騒然とする中、少年が足首に痛みを感じ悲鳴を上げた。
何時の間にやら、周囲は唸り声を轟かせている小動物で溢れている。赤く光る無数の瞳は夥しく、その身体は小さくとも恐怖を覚えた。
「う、うわぁっ!」
一羽の兎が高々と飛び上がり、少年の手に歯を突き立てた。それを合図に、小動物は一斉に襲い掛かる。
「アニス、逃げて! 飛ぶんだアニス!」
小動物らは、口々にアニスの名を呼んで逃げるように促した。
呼吸が出来ないほど腕の中で押し潰されていたアニスは、彼らの声を微かに聞いた。「逃げろ、逃げろ」と切羽詰まった声は薄れながらも耳に届く。しかし、無理だ。
トカミエルは、離してくれない。
顔を動かし、トカミエルの顔を見つめる。霞む視界で訴えた。オルヴィスのように寄り添えたら、と思っていたが、まさか「離してください」と願う羽目にはるとは。
「なんだコイツら」
眉を吊り上げ、花畑に押しかけた小動物を見下したトカミエルは忌々しそうに舌打ちした。そして、手頃な石を拾い上げ素早く投げつける。
グシャリ。
柔らかな何かが潰れた音が、アニスの耳の奥に響く。
嫌な予感がした、聞きたくない音だった。それはまるで、嵐の後、落石によって押し潰されたような。
片腕が外れた為、多少楽になったアニスは大きく息を吸い込むと、首を捻じ曲げ振り返る。
「え?」
目の前で、栗鼠が。
常に一緒にいた栗鼠が、投げつけられた石に激突し跳ね飛ばされ、地面に落下していた。
兎は耳を掴まれ振り回され、遠くへ投げ飛ばされた。
穴熊は人間が手にしていたナイフで耳を、尻尾を、背中を切りつけられ倒れ込んだ。
血の臭いが花畑に立ち込める。
芳しい甘い香りは、吐き気をもよおす醜悪なものへと変貌した。無数の小動物の死骸に、埋め尽くされていく。いくら森の住人の数が多くとも、体格差はもちろん力の差は歴然としている。まだ息がある動物もいたが、人間たちは無慈悲に彼らを足で踏み潰した。
鋭い悲鳴が反響し、聞くに堪えない。血塗られた場景は、アニスの瞳を凍り付かせた。
「や……やめてぇ!」
無我夢中のアニスは、トカミエルの腕から抜け出そうともがいた。
こんなことになるとは、思っていなかった。だが、この惨劇は自分が引き起こしたものだと自覚していた。
「アニス、飛ぶんだ! アニス!」
それでも、小動物たちは撤退しない。アニスを逃がそうと果敢に挑む。
「トカミエル、やめて、やめさせて! 私の大事な友達なの、みんな友達なの! お願い、酷いことしないで!」
「アニス、人間に声は届かないからっ! 早く逃げて!」
トカミエルの足元までなんとか駆け抜けてきた栗鼠が、軽やかにアニスの身体をよじ登り耳元でそう叫ぶ。
「アニスっ! はや」
栗鼠と目が合った瞬間、その愛らしい姿が目の前から掻き消えた。
トカミエルが叩き落としたのだ。
地面に打ち付けられ、全身を強打しながらも懸命に起き上がろうとする栗鼠は黒い影を見た。そして声を出す間もなく、潰された。トカミエルの足に踏みつけられ、地面に擦り付けられ絶命する。
魂の断末魔が、アニスの胸を引き裂く。
「トカミエル、トカミエル! お願い、やめて!」
双方を止めなければ。
アニスは腕の中で身体を揺さぶり、トカミエルの注意を引こうともがいた。この場を収束させられるとしたら、自分だ。森へ還れば、動物たちも引き上げるだろう。
ならば、退くしかない。トカミエルといたい気持ちがあるのも事実だ、だがこんな地獄は許されない。
「あ、あぁ、あぁっ!」
人間に逢いに行くことで、こんな事態を引き起こしてしまうとは。惨状に気が狂いそうだった。
身動ぎするアニスに、トカミエルは微笑む。何か叫んでいるその唇に、指を這わせた。
「何を言っているのか、分からないよ」
顎を軽く持ち上げ、艶めいた唇を自身の唇で塞ぐ。何度も深く激しく、貪るように口付ける。
【可愛い愛しい小鳥を手に入れた。そして、腕という名の篭に閉じ込めた】
アニスは眩暈がして、全身の力が抜けるのを感じた。何をされているのか解らず、暴れる事も出来ず、呼吸をしたくとも出来ない。唇をこじ開け、トカミエルの舌が荒々しく口内を犯す。
「ンンンッ」
細い腰を押さえつけ拘束し、トカミエルは陶酔し吸い続けた。そして、アニスから力が抜けていくのを感じ嫣然と微笑む。
「ふふふ、可愛い。妖精といっても、
朦朧とする意識の中、アニスはそんな声を聞き首を横に振って否定しようとした。違う、私は人間に似て非なるものであり、貴方たちとは似ても似つかないと。
「アニス、逃げろ! アニス、早く飛ぶんだ!」
傷つきながら、尚叫び続ける動物たちの声は鮮明にこだまする。それは、罪悪感からの幻聴かもしれない。現状を打破出来るのは自分だけ、アニスは懸命に右手を天へと掲げた。
森へ、還ろう。
動物たちを避難させ、説得したらトカミエルのもとへ戻ろうと決意した。どうしても、彼から離れたくなかった。
懇親の力を込め、羽ばたく。空へ舞い上がれば、どうにかなると思った。
人間は、飛べないのだから。
「ん?」
押さえつけていた羽根が動き始めた事にトカミエルは気づいた。唾液を舌で舐めとりながら唇を離し、アニスを見つめる。羽根を死に物狂いで動かし暴れ、空へ逃れようとしている。
「何をやって……」
涙を零しながら叫び続けている様子に、トカミエルの胸が軋む。胸に刃物を突き立てられ、抉られたような激痛を感じた。腕から逃れようとしているアニスを、唖然と眺める。胸の痛みは、治まらない。
一目でこの妖精を『手に入れたい』と思った。
この妖精を『見ていたい』と思った。
この妖精と『一緒に居たい』と思った。
この妖精が『愛しい』と思った。
この妖精に『触れたい』と思った。
この妖精は『自分のモノだ』と思った。
近寄った瞬間に、抱き締めた瞬間に、温もりを感じた瞬間に。想いは徐々に深く強く独占欲を剥き出しにして、凶悪なほどに暴力的で絶対的な愛しさへと変わる。
瞳に狂気が浮かび、血走った瞳はアニスしか映さない。強張った笑みを浮かべるトカミエルは、逃げようとするものを捕える方法を知っていた。
……妖精を閉じ込めよう、誰の目にも触れないところへ。自分と同じようにこの妖精を欲しいと思う輩が現れたら、目障りだから。盗られないように、隠す。
手に入れた途端失うのが怖くなったトカミエルは、二人を引き離す全ての要因を排除しなければならないと痛感した。
居なくなっては困る、酷く心細いから。傍にいて欲しい、苦しいから。
捜し求め続けようやく見つけた、最も渇望する
自我を壊してでも、狂気の沙汰で愛し抜く。
キィィ、カトン。
耳元で、何かが聞こえた。そして、誰かが加勢するように囁いた。
――手に入れた妖精は、今、何をしている? 羽根を動かし、空へと舞い戻ろうとしていないか? 阻止しないと。
「当たり前だ、冗談じゃない」
身震いする。
空中へ逃げられたら、追うことが出来ない。消えていくのを指を咥えて見ていることしか出来ないだなんて、有り得ない。アニスの一連の行動で焦燥感に駆られたトカミエルは、左腕に力を込め再び押さえつけた。右手で腰に下げていた愛用のナイフを迷う事無く手にすると、正確に羽根の付け根に添える。
一寸の狂いもなく、確実に羽根を斬り落とす為に。
【飛び立つ前に、その羽根を切り落とす。羽根さえなければ、小鳥は腕という名の篭から逃げ出さない】
「痛いかもしれないけれど。逃げようとするからいけないんだよ? オレは悪くない、君が悪い」
それは、とても穏やかな微笑だった。甘い言葉を囁くように、耳元で告げる。
……オレのモノになったのだから、勝手に消えてはいけない。絶対に逃がさない、君なしでは生きていけないほどオレは君を愛しているのだから。だから、君は責任持ってオレの傍でオレだけを見て、愛し続ける義務がある。
「オレは、何も悪くない」
ナイフはおろか、鋼鉄を知らないアニスは何か解らず困惑し、首を傾げる。ただ、酷く付け根が冷たいと感じていた。
『ねぇ、羽根って抜けないかな? 羽根がなければ、私も人間と同じなのに』
うっすらと恍惚の笑みを浮かべ、右手に力を集中させると羽根に添えていたナイフを躊躇することなく一気に振り下ろす。
アニスの願いは残酷な形で叶えられた。
「ふ……う、うぁ、あああぁぁぁぁぁぁっ!」
アニスの絶叫が、動物たちの耳に響き渡る。
大きな瞳を見開き、腰が折れるほどに仰け反った。背中が焼ける様に熱く、そこからじわじわと痛みが侵食する。血が逆流し目がまわった、内臓をぶちまけそうなほど腹から声が飛び出した。
けれども、それはトカミエルには聞こえない。
全てを切り裂く刃となったアニスの絶叫に、動物たちは顔を背け瞳を閉じる。
「あ、あ、あ、ぁ……ぐぅっ」
ボタボタと、まるで枯れた花弁のように血液が滴り落ちる。地面にはえていた白詰草が、赤く染まる。
トカミエルの腕にも、血液が滴った。温かな血は、人間と同じで真紅だ。
ただ。
トカミエルは斬り落とした羽根をうっとりと見下ろし安堵の溜息を漏らすと、鼻を引くつかせる。甘い香りがする。夢の世界へ誘うような、その立ち込めた甘い香りの元を探した。触れてはならない禁断の果実には、抗えない。一度知ったらやめられない快楽を求め、何度も罪を犯す。アニスの身体、いや正確には吹き出した血液が芳香していることに気づいた。
耐え難い激痛に痙攣するアニスを支えながら、ナイフで切り裂いた傷口に引き寄せられるかのように舌を這わせる。そして、熟した果実を齧るように、その血肉に歯を立てた。
口の中に広がる甘美な花の蜜に似たそれは、一度口にすれば止まらない。極上の白ワインにも似ていて、法悦に浸る。
「は、あはっ! なんだこれ、うまっ」
トカミエルは瀕死のアニスを気にも留めず、ひたすらその血を嘗めて飲み続け享楽にふけた。
閑散とした花畑に、地獄絵図が浮かび上がる。
少年たちは、この世のものとは思えない悪魔と対峙したような恐怖に駆られた。仲間が、妖精の生き血をすすっている。衝撃的な光景に胃の中の物を吐き出す者や、鮮血に染まり続けながらも行為をやめようとしないトカミエルに悲鳴を上げ失禁する者もいた。
「あ、悪魔だ……」