奈落の業火~トランシス~
文字数 4,420文字
運悪く二人揃って狙撃されたということになっているが、これは
捨て子だった彼を拾い、実の息子同然に育ててくれた義理の両親の死因は、トランシスだけが知っている。幸せな家庭を襲った悲劇の生き残りとして、皆は努めて優しく接していた。
『待つのだ、トランシス!』
手にしてた斧で義母を殺し、悪鬼のような顔で追ってきた義父。斧に付着していたまだ温かいねっとりとした血が勢いで飛散し、地面にポタポタと赤い滲みを幾つも作った。
この状態で、一体誰が大人しく止まるというのだろう。肉片と化すのは目に見えている。
絶命した義母の亡骸を思い出し、逆流してきた胃の中の物を吐き出しながらトランシスは懸命に逃げた。
「ぅあ、ぅっ」
過去が悪夢となり、呪縛のように付きまとう。幾度も繰り返し見る夢に、トランシスは魘されていた。身体を仰け反らせ、全身から汗を吹き出しのたうち回る。
気の毒に思った女性が、濡れた布を遠慮がちに額にあてがった。
「可哀想に」
夢の中でそんな同情の声を聞きながら、トランシスは首から上がない義父から逃げていた。これは夢だと解っているのに、反射的に身体が動く。
『愛しているわ、トランシス。“母さん”ではなく、名前で呼んで頂戴。愛しい女を呼ぶように、私の名前を』
前方では、頭部のない義母が全裸で腕を広げている。ふっくらとした艶めかしい熟した裸体で誘われても、ちっともそそられない。投げつけた果実のようにひしゃげた脳みそらしきものが、乳房に付着している。
再び、嘔吐した。
口など見当たらないのに、嬌声のような高笑いを上げながら突進してくるそれを避け、死にもの狂いで進む。けれども、義母は常に手を広げ待ち構えている。
『さぁ、抱いて頂戴! あなたの身体を思い出すだけで、下腹部が熱くなる。……おいで、私の愛するトランシス』
「誰が抱くか、この阿婆擦れっ! そもそもオレは愛してない!」
絶叫し、トランシスは走り続けた。緑の髪の美少女を脳裏に描きながら、血走った瞳であてもなく彷徨う。彼女だけを捜し続ける。
彼女に逢うことが出来れば、この悪夢から逃れられる気がした。いや、そうでなくとも逢いたい。
彼女に逢う事こそが、生きている証。生を受けた意味は、そこにある。
「何処にいる、何処に行った! アース! アリア! アニス! アイラ! アリン! アロス! アミィ!」
アサギ。
「アサギ」
名を口にして、飛び起きた。その瞳から幾つもの涙が零れ落ち、徐に拭うと鼻を啜る。荒ぶる呼吸に、胸が痛む。
目が覚めたことを知り駆け寄ってきた友人が、水を差し出した。
「大丈夫か、酷く魘されていたけれど」
数秒の間があり、トランシスは虚ろに呟く。
「オレ、今……何か言ってたか?」
「呻いていただけで、何かと聞かれると……」
困惑し、素直にそう告げた友人に力なく微笑む。トランシスは水を大人しく受け取って、一気に飲み干した。
「そっか。水、ありがとな」
トランシスは前髪をかき上げ、数回瞬きをした。心臓を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。
悩ましい苦悶の表情に、心配して駆け付けた年頃の娘らが色めき立つ。友人は引き攣った笑みを彼女らに向け、神妙な顔つきでトランシスを覗き込んだ。
「また、昔の夢を見ていたのか? ……辛いな」
「あぁ、辛い」
気の毒そうに目を伏せて隣に座った友人に真顔で淡々と答えたトランシスは、痺れている右腕を庇いながら立ち上がる。耳を研ぎ澄ますが、轟音は聞こえてこない。密やかに語る人々の声以外、他には何もない。
「上はどうなってる?」
「今は静かだよ、でも警戒中。そもそも、警報が出ていない時に親父さんたちは撃たれただろ? 油断は禁物。言い方は悪いけど、教訓になったよ」
しんみりと告げた友人に、トランシスは皮肉めいて嗤った。
「あぁ……あれは。自業自得だ」
「え?」
歩き出したトランシスを気遣い、友人は追わなかった。どのみち、壮絶な死に方で両親を亡くした彼にかける言葉など、思いつかない。
「チッ」
一人になりたいのに、まとわりつく視線が鬱陶しい。せめて話しかけるなとと思いつつ、拒絶の空気で武装する。妙な詮索も同情も、反吐が出る程鬱陶しい。
「仲睦まじい家族? 相思相愛の夫婦? ……世間ってのは身勝手だ、話を綺麗に盛る悪癖がある」
思い出したくないのに、どうしてあの二人は夢に出てくるのか。
「オレの邪魔をするなら、容赦なく殺す」
吐き捨てるように告げ、大股で歩き続ける。
孤児だったトランシスを拾い育ててくれた夫婦には、子供がいなかった。もし二人に子供がいたら、自分は拾われなかっただろうと思っている。子供がいれば生活が苦しくなることなど、誰しもが解っていることだ。
それでも種の保存の為なのか、それとも単に快楽の為か、今日も何処かで産声が上がる。
「
喉の奥で嗤ったトランシスだが、これでも生きる事に喜びを感じ、育ててくれた両親に感謝していた。
本当の両親も、どういった経緯で棄てられたのかも知らない。だが、そもそも興味はない。
荒んだこの地で、稀に見る善人だった夫婦に拾われ生き永らえた。
『最初はね、見つけた時に一旦離れたの。きちんと育ててあげられるか、不安で。でも、救いを求めて泣き叫んでいたから』
以前、義母がそう話してくれたのを、たまに思い出す。
しかし、偽りの家族は長くは続かなかった。女好きのしそうな眉目は、歳を追うごとに悩ましい魅力となる。ハッとするほどの美少年に成長してしまったトランシスに義母が欲情し、身体の関係を持ってしまった事から崩壊は始まった。
身体を重ねる回数が増えるに従い、義父が疑念を抱くことなどトランシスは解っていた。同じ男だからだ、義母は上手く隠せていると思っていたようだが無理な話だった。
言葉や態度に義父も、以前とは違う違和感を覚えただろう。赤の他人ならば気づかぬことでも、狭い家庭の中にいたら嫌でも解る。だが、妻を信じようと葛藤はしたのかもしれない。
浮気相手が義理であれ息子だなど、下劣である。
「
父から向けられる嫉妬からの殺意を感じ取ったトランシスは、“自らの手を汚すことなく”立ちふさがる壁を排除することを常に思案していた。面倒だった、こうなる前に家を出るべきだったと後悔した。
しかし、家を出たところで行く宛はなく、のたれ死ぬ確率が高い。死にたいわけではない、生きたかった。
「そう、オレは生きたい。生きなくてはならない、何をしてでも」
どんな厄介ごとも全部受けて立つ覚悟を抱き、瞳に炎が宿る。
あの日、トランシスに全裸で詰め寄った愚かな妻を斧で斬首したのは義父。それは一瞬の事で、半ば狂った義父と視線が合うと、反射的に逃げ出した。確実な殺意は、次の標的を意味する。
捕まれば、殺される。生きたいのに、痴情のもつれで殺されるなど馬鹿らしい。武器など持っていなかった。だが、未来への希望と、若さ故の体力がある。
何より、トランシスには勝算があった。
向かった先は、定期的に偵察機が徘徊している場所だった。少し歩けば、昼夜の温度差が激しい砂漠になってしまう。ゴツゴツした大きな岩と、僅かばかりの草は、風に追いやられて範囲を広げている砂にそのうち覆い隠されてしまうだろう。
この惨事を予測し、
偵察機の攻撃を受ければ、生身の人間は確実に死ぬ。義父を射殺してもらうために、トランシスは口元を歪めた。
「オレの手は、綺麗なままで。手を汚す時は、決まっているんだ」
あの時と同じ様に、左手の人差し指を見つめる。すると、爪先に火が灯った。周囲に人はいないが、念の為、見られないように掌の中に隠す。
「特異体質なんだよね、オレ」
火を操ることが出来るのは自分だけだと知ったのは、物心ついてからだった。皆も出来るものだと思い込み、自慢げに義母に見せた時に怒られ「人に見せてはいけない、秘密よ」と説かれた。
その時、自分が特別な人間だと知った。
義母は秘密を共有している、というだけで高揚感を得ていたようだが、そんな事どうでもよかった。自分は人とは違う選ばれた人間なんだと、腹の中を黒い何かが這いずりまわる優越感に興奮した。
「この力があれば」
うっとりと呟いて、怪しく揺らめく火を見つめる。
あの日、追われながらもトランシスは、操れるだけの火を義父の頭上に向かって放った。それは小さな火だったが、暗闇では光り輝く。
偵察機がそれを感知したのはすぐのことで、能力を知らなかった義父は突如現れた火に驚いていた。そうして、地面を転がったトランシスの後方で義父は射殺された。腕の良い者が操縦していたようで、彼の頭部を見事に打ち砕いてくれた。
「いやぁ、あの時は傑作だったね。火に気づいてからの偵察機の出現、あの驚愕っぷりは思い出すだけで笑いが込み上げるよ」
クックックッと喉の奥で低く笑うと、トランシスは再び火を見つめる。
何故、自分は火を操ることが出来るのだろう。そんな疑問はすぐに消え、これは、目的の為に自らが手繰り寄せた幸運の証だと解釈している。
自分が、生き続ける為に。
「この力があれば、混沌の世界を平穏に導……いや、違うね。知らない誰かの為にこの貴重な力を使うなんて、馬鹿らしい。そんなくだらない事の為に生きるつもりなど、オレにはない」
うっとりとした表情で、舌なめずりをする。
「こんな世界も、ここに生きる奴達も、どうでもいい。オレが欲しいのは」
夢で見る愛しい女。
名前を知っているハズなのに思い出せない、緑の髪の美少女。彼女に巡り逢い、華奢な身体を抱き締める為だけに生きている。
いや、その為に産まれたのだ。
「火の檻を作って閉じ込めたら、逃げないかなぁ」
無邪気な笑みを零し、トランシスは情欲にまみれた声で呟いた。
「身体の自由を奪ってこの火を近づけたら……怖がるかな。可愛いなぁ。怯えて震えてオレを見上げるの、堪らないね。興奮する」
下半身が熱くなる、想像したら一気に欲情した。揺らめく炎が、残忍な笑みを浮かべて舌なめずりする姿に影を落とす。
「早く来いよ、オレの女」
じれったそうに苛立ってそう呟くと、我慢できずにその場で手淫行為に走った。恍惚の表情を浮かべて、呼びたくても呼べない名前を呼ぶ。名前を知っているようで、知らない。
「早く来い、オレの、オレの……」
アサギ。
知らないのに、いや、憶えていないのに、身体は素直に名前を呼びたがる。
キィイィィ、カトン。