魔界イヴァン
文字数 13,829文字
「さて、無事に到着だ。先程の怪我は大丈夫か? まだ辛かろう? 横になるかね? 何か飲みたいものはあるか? 腹は減っていないか?」
腕の中のアサギを不安そうに見つめ、控え目に声をかけた。
虚ろに聞きながら、アサギは目を凝らして状況を探る。一瞬意識が飛んだが、思い出してきた。あのウサギは、死んでしまったのだろうか、と気落ちした。言葉など、出て来ない。
「大丈夫か?」
返答をしないアサギに、ハイは懸命に語り続ける。
アサギは、瞳を床に落とした。薄暗い部屋の床には、見慣れない文字で陣が描かれている。壁には蝋燭が四本設置されており、それらが部屋を多少明るくしてくれていた。様子を一通り確認すると軽く頷き、ハイを見上げる。
そんな様子にハイは穏健な笑みを浮かべ、満足そうにアサギの髪を撫でた。
アサギが身動ぎしたので、丁重に地面へと下ろすと手を引いてドアへと向う。その手はとても暖かく心地良く、ハイを安堵させる。
同時にアサギもその温もりに、僅かながら緊張を解いた。
闇と同化し、アサギの瞳では映す事が出来なかったそのドアを押して飛び出した先は。
眩しい光が瞳を襲った。激しい痛みを感じ、顔を手で覆い隠す。先程とは、別世界の場所が広がっている。
「ど、どうした、傷が痛むのか!?」
小さく呻いたアサギに顔面蒼白となったハイは、アサギを揺さ振ると心配して覗き込む。ハイはこの眩しさに慣れおり、アサギが何故手で顔を覆い隠したのか、真剣に分からない。
数分後、恐る恐る顔から手を外したアサギは、自分を覗き込んでいたハイと視線を合わせて軽く首を横に振る。ようやく痛みが引き、明るさに慣れて来た。
瞳への刺激で涙が瞳に浮かんでおり、眉を顰めたその艶っぽい表情に胸を高鳴らせたハイは、かける言葉を一瞬忘れてしまっていた。戸惑いがちに咳を一つ零し、照れながら視線を逸らして言葉を紡ぐ。
「今、アサギの部屋へと招待しよう。何か足りないものがあれば直様言うように。何でも揃えてやるからな」
足取り軽く、ハイは別のドアへとアサギの手を引き進んだ。
瞬きを幾度も繰り返し、部屋の隅々を見渡したアサギは息を飲む。窓から入り込んだ優しい光が、部屋に飾っている観葉植物達を照らしていた。先程の闇色の部屋とは、全く持って対照的な部屋だ。窓から不意に見えた外の景色は、森林が果てなく続き、河が流れ、雄大な自然の恩恵を受けている土地。燦々と照り輝く太陽の光が、それらをより一層鮮やかに彩っている。その光景を瞳に映した瞬間、堪らずアサギは空いた手でハイの衣服を思い切り握り締めて引っ張った。
振り向いたハイに、興奮して話しかける。
「あ、あの! ここは一体何処ですか?」
「ここ? 私の自室だ。結構気に入っているのだが……どうした、気に入らないか?」
余情溢れるその声に、ハイは何事かと不安そうに語る。
慌ててアサギは首を振った。そうではない、逆だ。
「いえ、部屋もとても綺麗ですし素敵だと思います、が。そうではなくて、外です。外は一体何処ですか?」
「綺麗で素敵、か! よかったー。整理整頓は大事だよな。アサギにそう言って貰えて私も嬉しいが、部屋も喜んでいる事だろう。外は魔界イヴァンのカピスという地区だよ」
流暢に語りだしたハイを驚愕の瞳で見つめたアサギは手を振り払うと、窓へと余勢にかられて走った。
「こらこら、危ないから走るのはやめなさい。転んで怪我でもしたら、どうするのかね。……まぁ、私が回復魔法の一つでも唱えれば傷一つ残らず治せるがね。何しろこれでも一応は神官の端くれ、回復魔法はお手の物」
誇らしげに語るハイを無視して、アサギは窓を開き思い切り息を吸い込んだ。
神秘的で雄大な森が眼下に広がっている、煌く紺碧の湖も美しい。ここままるで湖上に浮かぶ城だ、呆気にとられた。
「うそっ! こんな綺麗な場所が魔界!? 本当に魔界イヴァンですか!?」
動揺と懐疑心の籠もった声を発し、振り返るとハイを軽く睨みつける。
優しく微笑みながらハイは近寄ると、難なくアサギを抱き上げて窓から外を見下ろした。
硬直するアサギは、何故こうも優しく触れられるのか理解出来ずに目を白黒させる。
「魔界だ。驚くのも無理はあるまい、私もここへ訪れた当初は面食らったものだ。大概闇に包まれた陰気臭い場所だろう? 私の星もやたら空気が澱んでいたし、リュウが居た場所も暗雲立ち込めているような場所であったし。だがここは眩い自然に囲まれた、雄大な場所だよ。とても気に入っているんだ」
「気に入っている? ……自然が好きなんですか!?」
「え? あぁ、そうだが」
訝るような視線で見上げてくるアサギに、ハイはたじろいで頬を赤らめた。真剣な眼差しに背筋がゾクゾクする、下半身が妙にざわめく。
変態である。
アサギはそんな様子のハイには突っ込まず、目の前に右の人差し指を一本近づけた。
ハイは、唐突過ぎて理解が追いつかず、首を傾げて目を白黒させる。
「貴方、ハイって魔王じゃないんでしょう!? 騙されません、貴方は誰、ここは何処ですか?」
気迫負けし、反論できずにいたハイだが、暫しの後ようやく口を開く。
「い、いや、私は魔王ハイ……と呼ばれている、一応。で。ここは魔界イヴァンのカピス地区だ。間違いない」
「違うはずです! 嘘は駄目です! 私が子供だから、馬鹿にしてますか!?」
「ば、馬鹿にするだなんてそんなことは」
間入れず切り返し、強情に凝視するアサギに、ハイの心臓は破裂寸前、いや停止寸前である。
……そ、そんなに熱い眼差しで見ないでおくれ! あぁ、脳が蕩けそう。
視線を逸らしたいのに、勿体なくて、逸らせない。葛藤を繰り返していたハイは、アサギの着用しているスカートの丈が短かい事に今更気が付いた。抱き上げた拍子にスカートがめくれ、柔らかく白い太腿が露になっている。おまけに上から覗き込んでいるため、胸の谷間が見えそうだった。
あまりに美味し過ぎる光景である。
忘れようと脳裏に焼きついたその光景を振り払うように、懸命にハイは頭を振った。が、免疫のないハイにとってそれは刺激的過ぎたのだ。
罪悪感に溺れる、それでも本能で目は追ってしまう。哀しき性分だ。
「ごふっ」
欲望が燃え上がり、全身の血が滾る。身体中の血液が頭頂部に集結するようなざわめきを感じると、鼻血を吹き出しつつ、グラリ、と揺れながらハイは後方に倒れ込んだ。
「えぇ!? ちょ、ちょっと、あのっ」
何故こんな状況に陥ったのか理解が出来ないアサギは、ハイに抱きかかえられたまま同じ様に床に倒れこんだ。置き上がってハイの両腕を引っ張る、が、自分の体重の約二倍の男を引き上げられる事が出来るわけもなく。
困り果てていると不意に視線を感じ、ドアへと目を向けた。
「あ、のー。助けてください、この方、鼻血を出して倒れてしまったんです」
ハイの上にちょこん、と乗ったまま話しかけた。ここが本当に魔界だとするならば、助けてもらえるか危うい。しかし、なんとかせねばならない。流石に魔王といえども、この状態の人を放置して立ち去ることなど、アサギには出来なかった。
ゆっくりとドアが開き、そこから黒髪の男が姿を現す。
いわずとも魔王リュウである、ハイの気配を感じ取り部屋の外で様子を窺いつつ、笑いを懸命に押し殺して一部始終を見ていた。笑い出したいのを堪えている為、顔の筋肉が震えている。アサギの手前まで身体を大袈裟に震わせながら近寄ると、上品にお辞儀をする。
思わず、アサギも礼を返した。
その様子に満足したリュウは、深く頷くとアサギを軽々と持ち上げてハイの上から退かし、床に下ろす。
「年頃の娘さんが、得体の知れない男に乗ってはいけないぐーよ? 解ったかい?」
「え、あ、はい」
上擦った声で返答したアサギは、恐縮して再び頭を下げる。乗りたくて乗っていたわけではないが、あえて何も告げなかった。
軽い微笑を右の頬に浮かべ、リュウはいそいそとハイに向き直った。
「ハイ、起きるぐー」
バコン! いきなり、頬に殴りかかる。その音の大きさからして、かなりの強打だ。
隣でアサギが目を見開き、その暴行を唖然と見つめた。
「な、何しているんですか!?」
慌てて止めに入るアサギだが、リュウはお構いなしに逆の頬に殴りかかった。
低く呻き、ハイが瞳を擦りながら起き上がる。
「やぁ、お目覚めかい、ハイ。おはよう、お久し振りでお帰りなさい、おめでとうだぐー」
「またわけのわからんことを、お前はっ。……はっ!? そんなことよりアサギは何処だ!?」
頬を擦りながら起き上がったハイは、傍らで心配そうに見ていたアサギを視界に入れた途端、強引に引き寄せて抱き締める。
「あぁよかった、夢ではなかった! 間違いなくここにいるではないか!」
再び力任せに押し付けられて苦しそうにもがくアサギに、哀れみの視線を向けたリュウは、露骨に溜息を吐き二人を引き離した。「何をするんだ」と目くじら立てて怒鳴るハイの傍らで、アサギが苦しそうに咳き込んでいる。危うく、再び窒息するところだった。原因はハイだが、全く悪びれた様子がない。
「ともかく、ハイ。鼻血を拭くのだ、鼻血を」
リュウがハンカチを差し出すと、渋々と受け取りそれで鼻血を拭き始める。鼻の下に違和感があったことには気づいていた。
そんな二人の様子を唖然と見つめていたアサギは、交互に見比べリュウへと視線を移す。リュウのほうが話が通じそうだと判断した、五十歩百歩な気がするが。
「あの、私はアサギといいます。ここは何処ですか?」
清々しいまでの笑顔を浮かべアサギの肩を軽く叩くリュウに、鼻血を拭きながらハイが「触るな!」と睨みつける。
「やぁ、はじめまして、おぜうさん。私は惑星ネロの魔王リュウだぐ。ここは惑星クレオの南半球に位置する魔界イヴァンの中心地、カピスに存在する魔王アレクの居城の一室、三階ハイの部屋だぐーよ。理解して貰えたぐか?」
不安が募る口調だが、非常に解りやすい説明ではあった。しかし、アサギはリュウに詰め寄ると訝しみながら首を傾げた。信用しても良いのだろうか、いや、良いはずがない。
「嘘ですよね? 魔界ってもっと、こう……闇に包まれて光の届かない、自然も何も存在しない世界ですよね? 魔王ハイにしても、非常に悪い人だと聞きました、が、そうは見えませんし。ここ、何処ですか?」
怯えず、堂々と発言する怜悧そうな雰囲気のアサギに、思わず感嘆の溜息を漏らすリュウ。たった一人で魔王二人を相手に、大した度胸だと感嘆の笑みを漏らした。魔王だと信用していないせいもあるだろうが、何故か心地よい勝気っぷりだと思った。
愉快そうに笑い出したリュウに、些か眉を吊り上げたアサギは、真面目に言っているのだが、全く聞き入れてもらえない様子に憤慨している。
「ここは間違いなくイヴァンだぐ。魔界らしくない、というのなら文句はアレクに直々にいうと良いのだぐ。私達は部屋を借りているだけなのだぐーよ。うーん、どうしたら魔王だと認めて貰えるのだぐーな」
納得できず、目の前の二人を睨みつけるアサギだが、突如騒がしくドアが開いたかと思うと緑色の丸っぽい物体が部屋へと侵入してきた。反射的に悲鳴を上げた、入ってきたのは蛙が巨大化したような物体である。
「ミラボー! 何やってるんだ、アサギを驚かせないでくれ。おぉ、可哀想に」
ハイは子供をあやす様にアサギを抱き込むと、落ち着かせるように背中を撫でる。
その様子が堪えたのだろう、冷遇にミラボーは絹の袋を一つ取り出し、リュウに手渡す。
「いや、驚かせてすまんかったー。これはわしからの、せめてもの祝いの品だ。宝石が入っておる、よかったらその子に」
手短にそれだけ告げると、ミラボーは再度雑音を立てながら、部屋から立ち去っていった。
ハイとリュウはアサギを見つめる、ようやく我に返ったアサギは、恐る恐る二人に振り返ると。
「や、やっぱりここは……魔界イヴァンですか? 今のが、魔王ミラボー?」
どう見ても人間ではない、魔物にしか見えない。
二人の魔王は顔を見合わせると、「うん」と冷静な声で返答した。
アサギは頭を抱え、乾いた笑い声を出す。勇者になって数日、早々に魔界へ到着してしまった。おまけに、目の前には人の良さそうな魔王が二人いる。急展開についていけない、魔界へ来たら成すべきことは唯一つ、魔王討伐ではないのか? それで召喚されたのではなかったのか?
しかし、この二人と戦うなど、現時点では考えられない。
……魔王って、一体何なの!?
混乱する思考回路で眩暈を起こしそうなアサギを他所に、ハイはいそいそと浮き足立つ。半ば引き摺る様にしてアサギの手を引き、ハイは部屋を出た。ついてきたリュウを一喝し、目的地へと足を向ける。
どれだけ罵声を浴びさせられても、睨まれても、リュウは気にする様子もなく後をつける。これ以上愉快な事など、他にない。共に行かずしてなんとしよう。
用意しておいたアサギの部屋は、ハイの隣である。
「今から行く部屋が、アサギの部屋となる。私の見立てなので気に入らなかったら申し訳ないが、似合いそうな衣服を集めておいた。装飾品にもこだわったつもりだ。若い娘の心情など解らぬが、その、可愛らしいものでまとめてみたのだが……」
そう説明を受けているアサギは、困惑して瞳を泳がすばかりである。何故、魔王が自分の為にここまでしてくれるのか。人質でもなく、殺害するわけでもなく、丁重にもてなされている。
勇者と魔王は、敵対しているのではないのか。
不気味なほどに親切過ぎる魔王達の本音が分からない、アサギは警戒心を強める。
二人の様子を窺いつつ、後方でリュウはにんまり、とほくそ笑んでいる。諧謔に富む図柄だよなぁ、と小声で呟きつつ。
「さぁ、ここがアサギの部屋だ。気に入って貰えると嬉しいのだが……どうだ?」
緊張した面持ちでハイがドアを開くと、アサギの鼻に良い香りが届いた。些か上ずった声のハイは気にせず、興味に駆られて小走りにアサギは部屋に飛び込むと、歓声を上げた。
「す、すごい!」
圧巻だった、これはまるでスイートルームだ。植物が置かれている日当たりの良い部屋で、品よく可愛らしい家具が揃えられている。
「服も用意した、サイズは大丈夫だと思うが、念のため後で着用して欲しい」
照れながら、ハイはクローゼットを開く。ずらり、と処狭しと並んだ衣服が飛び出してきた。色取り取りの美しい布地に目がチカチカする、もうアサギは脱帽するしかない。
「え、これ。みんな私のなんですか?」
地球の自室にある衣服よりも、こちらのほうが量が多そうだ。ここまで来ると罠としか思えなかった。殺す前に一時の贅沢を与えてくれるのだろうか、全く嬉しくない配慮である。
「もちろん、好きに使ってくれ。アサギの為に用意したのだから」
流暢に言われ、より一層疑心難儀の念に駆られる。
そんな様子に気づいていないのか、ハイはそっと額に口付けた。
この時ばかりはリュウもからかう事をやめて、そっと静かに部屋の外へと出て行く。
「上手くやるのだぐ、折角この私が気を遣ってあげたのだから」
自然に本音が流露された。壁にもたれ、一人天井を見上げるリュウは懐旧の情に駆られる。そして悔恨の情にとらわれた、何処か遠くを見つめ続ける。自嘲気味に鼻で笑うと、それでも、その“想い出”に浸る。もう、戻れない遠い日の風景、もう、たどり着けない彼の地。
部屋を出ていったリュウには気づくことなく、ハイは優しく正面からアサギを抱き締めた。力の加減が出来たらしく、今回はアサギも苦しくなさそうである。
アサギは困惑気味に少し距離を置くように、一歩後退した。流石に魔王だろうが誰だろうがいきなり抱き締められても、大人しくしてはいられない。しかし、何故か心地良い。胸が、微かに高鳴る。
暖かな温もりは、安堵の溜息が零れてしまう陽の香り。一息つく為、美味しいお茶を飲んだ時の様な、ささやかな至福の時間に似ている。
暫し、ハイは口を開かなかった。何か言おうと躊躇しているわけでもなく、ただ、アサギの温もりを確かめる為に。
「えーっと……ハイ、さ、ま?」
アサギが名前を、戸惑いがちに呼んだ。
それが嬉しくて、思わず身体を跳ね上がらせる。人に名前を呼んでもらえることが、これほどまでに嬉しいことだなんて、ハイは知らなかった。
こそばゆい感覚だ、ハイは目頭が熱くなり、必死で堪えつつ口を開く。声が、震える。
「無理を言ってしまって、すまないとは思う。だが、私はアサギと共に居たいのだ。絶対にアサギを傷つけないし、何からも護り抜く。一緒に居てくれるだけで良い、それ以上は望まないから、こんな私の我侭を聞いてもらえないだろうか」
「えーっと、魔王と勇者が一緒にいると、良い事ありますか?」
「魔王と勇者、ではなくて。私とアサギ、と考えてみてはくれないだろうか」
「えーっと」
アサギは、面食らって当惑した。いきなり連れてこられた魔界で共に過ごしてくれ、と言われてもはた迷惑な話である。
それはハイとて、理解している。けれども、まさか「一目惚れしました、好きです、付き合ってください」とは言えない。
「そのうち、順を追って話すから。今はその、なんだ。あー……ゆっくりしてくれ。旅の疲れもあるだろう」
「はぃ……?」
勇者アサギは、魔王ハイの腕の中で首を傾げた。見上げれば、頬を赤く染めた魔王が微笑んでいる。
こうして。
勇者として異世界に召喚されたアサギは、成り行きで魔界イヴァンで過ごす事になった。
勇者の隣に居るのは魔王ハイ、どうしても受け入れがたい事実である。けれども、優しい瞳と柔らかな声が、とても魔王には思えない。
勇者として、やるべきこととは何か。
目的は、世界を救うことで間違いないとするならば。
世界を救うということで、魔王の存在を聞いた、魔王を倒せば世界に平和が訪れる……はずだった。
魔王なら、目の前に居る。世界を破滅に導く、劣悪な者“魔王”。
本当にそうだろうか。
そもそも、城を破壊され、仲間を殺されたというサマルトとムーンとて、魔王ハイの姿すら知らなかった。本当にそれを行ったのは、ハイなのだろうか、何かの間違いではないのか。
アサギは唇を噛み締める。とても、魔王には思えない。魔王なら、勇者を抱き締めたりはしないだろう。先程まで共に居た仲間達と同じで、優しいし、暖かい。
躊躇いがちに、アサギはそっと、ハイに重心を預けた。
「もしかして……私達は大きな間違いをしてる?」
小さく零した言葉。心に住み着いた疑問を、消すことが出来ない。解決するには、時間がかかりそうな疑問である。
『勇者としての、私の目的は何なのですか?』
心で、誰かに問いかけてみた。
その答えを、自分で見つけようと思った。
悪行を働いているのは、もっと別の何かであって、魔王はひょっとしてただの偶像ではないかと思った。
とりあえず、今は。
「えーと、ハイ様。少しお時間を下さい、です。ちょっと混乱してます」
「だろうな。疲れただろう、休むと良い」
気まずそうにハイはそっとアサギの身体を離し、部屋のドアへと向った。離れたくはないが、若い乙女は一人になりたい時もあるだろう。
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」
「わかりました」
「夕食の時間になったら、また来る。おやすみ、アサギ」
「おやすみなさい……?」
軽く手を振って挨拶を死、離れる二人。
アサギはドアが閉じた音を聴いた後、首を傾げた。
……何故、魔王と挨拶を?
混乱しつつ、更に首を傾げる。これ以上考えると知恵熱が出そうだ、アサギは一人くぐもった声を出しながらベッドに倒れ込んだ。考えても解らない、何をすべきなのかが、解らない。ぽつり、ぽつり。声に出す。
「私は、勇者。魔王ハイと、魔王リュウが近くにいる。みんなとは、離れ離れ。ここは、魔界。すべきことは、何?」
『魔王を倒す事』
……魔王を倒す? 悪い人達には見えないけれど、倒さなきゃいけないの?
『魔王を、倒す』
……でも、私には。
『魔王は、まだ存在する。貴女が倒すべき相手は、別の魔王。倒すべきは、全てに災厄をもたらす元凶』
……別の、魔王? 元凶?
いつしか、夢の中へと入っていたアサギは、夢で誰かと対話していた。誰かは解らないが、知っている声だった。つい最近聞いた気がする声だが、その時も誰だか解らなかった。
分からない、いや、思い出せない。
夢に、堕ちる。
「アサギ、アサギ? 大丈夫か? 夕食だぞ」
揺さ振られて、重たい瞼をゆっくりと開く。見慣れない男の人に、高すぎる天井、ここが何処か把握するのに時間がかかった。気だるい身体で、寝返りするように身体を横に向ける。そのまま、何度か瞬きをして柔らかなシーツをそっと掴んだ。
「大丈夫か? 魘されていたが」
「だい、じょうぶです」
優しく抱き起こされて、額に手を当てて考える。徐々に思い出した記憶、ここは魔界で、魔王の城の一室。どうも深い眠りに入っていたらしく、上手く考えがまとまらなかった。
うつろなアサギはハイに抱きかかえられて、城を歩き回り、庭へと到着した。紫陽花が咲き乱れる庭園が、幾つものランプの淡い光に照らされて、幻想的な場所を作り上げていた。
幻想的な風景に一気に目が醒めた、アサギは歓声を上げ、その美しい光景に目が釘付けになる、見れば蛍も舞っている様だ。激しく、胸を打たれた。
すでに食事は並んでいる、しかし、まだ冷めてはいない。
ハイが果実から育てて作ったというジャムをパンのお供に。羊の臓物を煮込んだものやら、ジャガイモやニンジンの塩茹でも、パンに良く合う。
先に来ていたリュウが既に着席していたので、慌ててアサギも行儀良く席に着いた。黙々と食事をする中、控え目にアサギが口を開く。
「魔王も普通に食事するんですね……」
「うん。お腹空くぐも。魔王といえども、本質はアサギと何も変わらないぐ」
「……ですよね」
目の前で食べ続ける二人の魔王を見つつ、アサギは軽く溜息を吐いた。申し分ない料理だ、大変美味しい。非常に場景も美しく、リゾート地に来たような錯覚を起こす。
けれども。
何故、魔王と優雅に食事をしているのかが疑問である。
二人は全く気にする様子もなく、余程空腹だったのか、我先にと食べていた。
料理がなくなる前に、アサギも夢中で食べ始める。緊張していても、腹は減るようだ。
「美味しいですね、この料理」
「気に入ってもらえたか? よかった、料理人を叱咤した甲斐があったものだ」
得体の知れない生物の料理が出てきたらどうしようか、と思っていたのだが、その心配はなさそうだ。食後になると、ハイがこれまたお手製の茶を煎れてくれたので、星空を見上げつつまったりとした時間を過ごす。
……ここは、何処だっけ? ……魔界だよね。
考えるのも馬鹿らしくなってきたのだが、真面目なアサギはひたすら今の状況を考え続ける。魔王と、お茶をしている。この状況を、誰かに説明してもらいたい。
「あの。このふくよかな味がするお茶も、さっきのジャムも、ハイ様が作られたとか?」
「うむ。趣味で」
「しゅ、趣味ですか」
魔王の趣味に、ジャムや茶葉作りなど。
首を捻って低く唸るアサギに、気にする様子もなくリュウが口を開く。
「私も苺が大好きでねー、自家栽培してるのだぐー。今度、自慢の苺畑に連れて行ってあげるのだぐーよ」
「じ、自家栽培の、苺畑……」
美味しい茶を飲みつつ、納得できない、とアサギは不貞腐れた。随分と魔王のイメージが変わってしまった、これでは倒せそうにない。もじもじ、と脚を動かす。意を決して固唾を飲み込み口を開いた。
「あのー、訊いて良いのか分かりませんが、質問してもいいですか?」
「いいぞ、いいぞ、どんどん訊いておくれ! 私に興味をもってくれるとはなんと嬉しきことか!」
控え目に言ったアサギだが、妙に乗り気なハイに、たじろいだ。咳を一つす、唇を湿らせて緊張した面持ちで、アサギは魔王と会話を始めた。
「普段は何をされているんですか? 魔王のお仕事ってなんですか?」
「普段?」
ハイとリュウは顔を見合わせる、軽く首を傾げて日常を思い出しているようだが。
「朝起きて、畑に水をやりに行ったり、果物を収穫したり」
「木陰でお昼寝して、水遊びとかぐーか?」
「夜はこうして、まったりと星の鑑賞」
聞かなければ良かった、とアサギは撃沈した。嬉々として語る二人を、恨めしそうに見つめる。魔王のイメージが、崩壊した。確かに、人間殺戮よりは良い。しかし、どうしてもギャップの違いに狼狽する。
茶を飲み干すと、アサギは多少乱暴にカップをテーブルに置いた。
その音に二人が軽く瞳を開き、アサギを見つめる。
「あのっ! 私は一応勇者です」
「うん、知ってるのだぐー。可愛い勇者だぐーよね」
「っか、可愛い!? 馬鹿にしてます!? 敵対してますよね!?」
「馬鹿にするだなんて、滅相もない! 魔王と勇者だからなぁ、一応は敵対しているんだろうけど、そう言われても……」
「何故寛いで、こんなふうに、星空の下でお茶を飲んでいるんですか!?」
「いやだって、一緒に飲みたいし。……魔王と勇者が共に過ごしてはいけないという決まりでもあるのかね?」
「う、うぐぅっ」
そう突っ込まれると、返答できない。
慌てふためき立ち上がったアサギは、右手に魔力を集中させた。魔法を発動させるつもりだ。
しかし、驚いた素振りを見せない二人の魔王は、苦笑してアサギを見つめる。
アサギとて非常に遣り辛い、これでは自分が悪者の様だ。
「こ、こうやって、私が攻撃したらどうするんですか!?」
「どうしようかな、でも、アサギは攻撃しないと思うのだぐーよ」
リュウの言葉に、アサギの力は一気に抜けた。そんなこと、言われるとは思わなかった。しかし、図星だ。全て、見抜かれている。
「敵意のない人物には、自分から攻撃出来ないぐーよね、アサギは。それにおそらく君は、我らを訝しみつつも、馴染んでしまう。親密な相手にも攻撃出来なかろう? だから、恐れている。この先、敵対したところで先手を打つことが出来なくなるから」
リュウの声には、勝ち誇ったような落ち着きがあった。
一瞬呆けたアサギだが、すぐに赤面すると両手を天に掲げた。
「出来ます、私、勇者ですからっ」
「いいよ、やってごらん。でも、アサギには、出来ないのだぐ」
「出来ますっ」
「出来ないぐ」
リュウはゆっくりと立ち上がり、冷笑して芝生を踏みながら、アサギへと前進する。
気迫負けして一歩づつ後退するアサギに、リュウは止めを刺す様に微笑んだ。
「やってみるぐ。至近距離に入ってあげるのだ。魔法、思い切りぶつけていいのだよー?」
「っ!」
「ほら、勇者の敵である、魔王はここに」
目の前まで来られて、視線を合わせるように屈まれて、リュウが一言告げた。その瞳には、悪戯っぽい光が灯っている。
「さぁ、可愛い勇者様。魔王ハイでも、魔王リュウでも、どちらでも。攻撃してみてごらん」
後方でハイが深い溜息を吐いた「からかい過ぎだ」と呟き、止める為に重たい腰を上げる。
アサギは身体を小刻みに震わせながら、懸命に魔法を発動しようとした、けれど。
「……で、出来ません」
ゆっくりと、力なく腕を下ろし、涙目でリュウを見つめた。
「悪い人に、思えないので。攻撃出来ません……」
「でしょー。そうだと思ったのだぐー」
あはは、と軽く笑ったリュウは、ぽんぽん、とリズミカルに肩を叩いた。
無邪気に微笑まれると、アサギは何も反論できない。そのまま手を引かれ、席へと戻る。二人の声と言葉は、相手の心を撫でるように温和だ。
「この際、勇者と魔王を忘れるのだぐ。そのほうが気も楽なのだぐーよー?」
「では、こちらが質問しよう。アサギのこと、教えてくれないだろうか」
「はぁ……」
二人の魔王が、子供のように瞳を輝かせて身を乗り出してきたので、アサギは苦笑いしつつも小さく頷いた。
「ご趣味は?」
「趣味、ですか? お菓子を作ったりとか」
「ほぅ、家庭的なのだ! 男性の好みが知りたいぐー」
「えーっと、笑うと可愛い人で、一緒に居ると楽しくて……」
「よし、ハイ、笑うのだ! 可愛くない笑顔なのだぐー、これでは駄目だぐー」
「あの、すみません。この質問、何か意味が?」
「気にしなくていいのだ、アサギ。んー、恋人となる相手の年齢は気にしますか?」
「えーっと、よくわかりませんが、別に考えていません」
リュウの質問に、きちんと真面目に答えるアサギだが、戸惑いを隠せない。
笑い転げながら、リュウは横目でハイを見ている。
ハイは肩にズドンと食い込むような心理的な圧迫感で肝を冷やし、アサギの声に耳を傾けている。
「では、最後に。今、好きな人はいるぐーか?」
「え」
その質問に、ハイが絶望の悲鳴を上げた。
リュウは、先程と変わらぬ笑みでアサギを見つめている。
アサギが、赤面する。
「あ、あああああ、あの、その質問の意図は何でしょう」
「細かい事は気にしちゃいけないのだぐー。で、好きな人は? 親睦会にはつきものの、恋話だぐ!」
ハイは俯き、必死に泣き出したいのを堪えた。流石に、聞きたいが聞きたくない質問だった、心の準備が出来ていない。
……私の名を告げてくれないだろうか。
無謀にも程がある願いを連呼する。
項垂れているハイを横目で見つつ、心の中で爆笑しながら、リュウはアサギに詰め寄った。聞いておきたい情報だ、今後の展開が変わるだろう、と思っていた。
「す、好きな人、というか、気になっている人ならいます」
「それは、ハイだぐか?」
「いえ、ハイ様ではないですけど」
アサギの声を聞いた途端、ハイは椅子から盛大にひっくり返って泡を吹いた。当然だ。想像以上の攻撃力に、危うく魂が口から飛び出るところだった。
だが、アサギにしてみても当然の返答だ。
「きゃー!? ハイ様!?」
「可哀想なハイ。まぁ、でも、気になっている程度だぐーしねー。割り込む余地は、十分に」
アサギは慌てて駆け寄りハイを懸命に抱き起こし、リュウはそんな二人を見つめつつ、茶を飲み干す。
「明日から、面白くなりそうだなぁ。退屈な日常に、さようなら!」
一人呟いて、にんまりと楽しそうに愛嬌が良い笑みを浮かべた。
魔界の夜は、こうして更けていく。
勇者が訪れたその地で、ゆったりと、時は流れる。
全ては“運命”、定められた、運命。
勇者に焦がれ、勇者となった異界の娘が、魔王に見初められ魔界へ来た。
そう、運命。
遠い昔に廻り始めた運命の歯車は、終焉を迎えつつある。
その時、魔界で。
魔王アレクがひっそりと自室からそんな三人を見ていた、微かに瞳に希望を燈し。
アサギに瓜二つな魔族の少女が、沸きあがる苛立ちを抑えることが出来ず、魔法をがむしゃらに連発していた。
その兄が、緊張した面持ちで親友を訪ねた。
魔王ミラボーと側近のエーアが、暗闇で笑い転げていた。
魔王ハイの側近であるテンザが、三人を見つめ歯軋りしていた。
夜空に浮かんだ星々が、唄を奏でる。煌いて、哀しく、啼く様に浮かんでいた。
全ては、ここへ来てしまった一人の小さな勇者の為に。勇者でありたいと願った、少女の為に。
廻る歯車は、指し示す。
『じかんが、ないの――』
『あなたは、まちがえないで――』
『ねがうの、おもいえがくの、いちばんあなたがしたいこと―――』
不意にアサギは顔を上げた、リュウが背負ったハイの手を握りつつ、城内で立ち止まる。誰かに呼ばれた気がしたのだ。
魔界へ来てから、何度も聞いた気がする声である。
「誰?」
問いかけにも、答えない、その声の主。
まだ、アサギには解らない。その人物を、よぉく、知っているのに、解らない。
いや、気づいていない。
あまりにも、身近な声だから。
それは遠い過去からの因縁、紡がれた魂の嘆き。
雪が降る、降って積もって凍えてしまった。
春の息吹を待ち侘びる、暖かな日差しのその季節。
健やかに全てが育つ、生命の息吹を感じて。
大樹となりし、もとはか弱きただの芽は。
実を幾つも幾つも、恩恵を受けてならせたもう。
浅葱色した、綺麗な花が咲き誇る。
焦がれて欲する私の楽園。
そこで咲きましょう、永遠に咲き誇りましょう。
勇気を下さい、そこで咲き誇れる勇気を下さい。
者は極き、臆病の者。
弱くて、強く、反した者達の楽園を。
運命の歯車が、音をたてて廻り続ける。
全ては回帰する、“願い”へと。
※挿入イラストは同人誌用に戴いたものです(*´▽`*)
ハイとアサギ。