ホーチミンのめくるめく妄想
文字数 4,379文字
「出来た、出来たわー! 読んで頂戴、サイゴン!」
「なんだこれ」
強引に決められたが、律儀にサイゴンは待ち合わせの場所に来ていた。烈々とした空の下、目の下にクマを作りながらも、清々しい笑顔でやって来たホーチミンを胡散臭げに見つめる。彼に突きつけられた紙の束を手にして、瞳を細めた。
「『背徳行為の愛の末』?」
期待の眼差しを一身に受けては拒否する事が出来ず、サイゴンは渋々と目を通す事にした。
*
真新しい血液の臭いが充満する、戦場。
「グッ……」
呻きながら勇者であるアサギは、後方で倒れている仲間達を唖然と見つめた。今しがたまで共に戦っていたというのに、彼らは瀕死だ。
「あ、ああ……」
絶望の声を漏らし、力が入らない右腕を恨めしく睨み付ける。握っている剣が、ガクガクと震えていた。限界を超えていたが、自分が動かなくては全滅してしまう。
「おのれ、魔王ハイ……! 許しませんっ」
威勢よく鋭利な瞳を向けたアサギだが、目の前に立っているハイは余裕の笑みを浮かべていた。
「身の程を弁えよ、小娘」
「う、うるさいですっ」
疲労から、両足は小刻みに震えていた。右腕も使い物にならないのでは、戦えない。満身創痍な中で、瞳だけが煌々としている。
「み、みんなには手を出させませんっ!」
阻止しようと、気丈に左腕を広げる。しかし、呼吸は上がっており、脆弱な娘にしか見えなかった。威嚇など、意味がない。
ハイは瞳を細めると、愉悦だとばかりに、口角に笑みを浮かべた。
「交換条件を出してやろう、勇者アサギよ」
「……え?」
冷酷な眼差しを注ぎながら、ハイは喉の奥で嗤った。
「この者達を、助けたいのであれば、私と共に魔界へ来い」
「え?」
困惑した様子のアサギは、訝し気に睨み付ける。
「二度とこの者達には手を出さない。だがしかし、そなたは魔界から出られぬ。そして、私に逆らう事も許さぬ」
アサギは、固唾を飲んだ。混乱した、罠だと言い聞かせ、条件を飲むわけにはいかないと唇を噛む。
「つまり、そなたが身を差し出せば、この者達は助けてやるということだ。どうだ、悪い話ではないだろう? 慈愛の勇者よ。それとも、我が身可愛さにこの者達を見殺しにするか?」
アサギは、呼吸を整えようと瞳を閉じ、左手をふくよかな胸に添える。暫く肩で息をしていたが、覚悟を決めて双眸をゆっくりと開いた。
「ホント、ですね? 嘘は、つきませんね? 約束、護ってくれますか?」
「あぁ、そなたが私を裏切らなければ。私に牙を向けることも、魔界から逃げる事も許さぬ。私を愉しませるだけに、傍にいるのであれば、だが。ククク、勇者のそなたには、これ以上ない屈辱だろうな」
「っ……わか、り、ました。魔王ハイ、交換条件を飲みます」
蚊の消え入りそうな声で、泣きそうになりながらそう告げたアサギの声は、ハイの勝ち誇った高笑いによって掻き消された。
仲間達が呻きながら、アサギを助けようともがいている。けれども、もうどうにもならない。
勇者アサギは、仲間達の命と引き換えに、その清純な身体を魔王ハイに渡すことにしたのだ。彼女の流した大粒の涙が、地面に吸い込まれていった。
「私一人の命で、皆が助かるのであれば」
「そうだな、私を満足させることが出来たのであれば、魔王アレクに人間共を襲わぬよう助言してやろう。上手くいけば、望んだ平和が手に入るぞ? 精々頑張るがよい、アーッハッハッハッ!」
左腕を強引に掴むと、アサギの顔が苦痛で歪む。
「では行こうか、勇者アサギよ。そなたの名は、自己犠牲の勇者として永久に語り継がれるだろう。誉れ高いことだな」
瞳を伏せたアサギは、震えながら小さく頷いた。
ハイに抱えられ魔界へ連れ去られたアサギは、何もない広い部屋に転がされた。怯えながらその大きな瞳で周囲を見渡すが、心細さに拍車がかかるほど何もない。自慢の武器は取り上げられ、戦える術は魔法のみだった。しかし、反抗すれば、皆の命が危険に曝される。
瞳を閉じ、震える腕を抱き締める。
「待たせたな、アサギ。こやつらを連れて来るのに戸惑ってな」
余裕の声音に、アサギが顔を上げる。大股でこちらに向かってくるハイの両手には、見慣れた魔物らが蠢いていた。
「スライム?」
眉間に濃く皺を寄せて、アサギはその魔物を見やった。これならば、武器がなくとも勝てると内心喜んだ。炎の魔法に弱い事は知っている、魔法ならばいつでも繰り出すことが出来る。左腕に力を籠め、いつでも発動できるように集中する。
「あぁ、そなたが何体も倒してきたであろうスライムだ」
言うなり、ハイはスライムをアサギ目がけて投げつけた。
床に勢いよく落下したスライムは、水の様に蠢きながら、這ってアサギへと近づいていく。
「クッ! 巡る鼓動、照らす紅き火、闇夜を切り裂き、灼熱の炎を絶える事無く!」
焦燥感に駆られて魔法の詠唱を始めたアサギだが、スライム達は一気に襲い掛かった。
「きゃあ!」
魔法が発動しない。
再度詠唱を試みるが、粘着液をまとわりつかせながら身体をよじ登って来たスライムに身の毛がよだち、集中できない。
「い、いやぁ!」
今までは、スライム程度すぐに倒してきた。身体中を這いずり回る感覚が初めてで、小さな悲鳴を上げもがく。
「魔法の類は使えぬよ、この部屋ではな」
アサギは蒼褪め、浅はかだった自分を叱咤する。それでも諦めまいと、こちらに向かってくるハイを睨み付け、スライムを剥がそうと躍起になる。
「見縊られたものです。スライムには、敗けません!」
身体を自由自在に変えるスライムは、ナメクジの様な粘着液を出しながら薄く広がり、アサギの身体を覆い尽くしていく。
「ひゃあ!」
ハイへの憎悪で身体中を満たしたいのに、ぞわぞわとした感覚が邪魔をする。間近に迫った靴を悔しそうに見つめ、アサギは低く呻く。
「んんんっ」
スライム達が這った箇所が、熱を帯びている。奇妙な感覚に、身を捩る。
(中略 ※自主規制)
多少強引ではあったものの、一途なハイの想いに心を揺さぶられたアサギは、彼の愛を受け入れた。
こうして、魔王ハイと、勇者アサギは、魔界でいつまでも幸せに暮らしたという。
よって、魔族と人間は争いを止め、世界には、平和が訪れたのだ。
*
「……驚くほど長い妄想」
げんなりした様子で紙から目を話したサイゴンは、頭を抱えてホーチミンに突っ返した。
「ね、どうだった!?」
「どうも何も、これ、マズいだろ。絶対に誰にも見せるなよ!?」
「えー、上手に書けたと思うんだけどなぁ」
まさか一晩で妄想を書き起こすとは思ってもみなかったサイゴンは、疲れ切って座り込む。
「ホーチミン先生の次回作にご期待ください!」
瞳を爛々としているホーチミンに項垂れ、「バレたら死刑だと思うぞ」と一応忠告した。
「えー、でも、大体こんな感じじゃないの?」
「余計な詮索をするな! 大体、アサギ様がそんな淫乱だと思うか!?」
「何言っているの、愛の為せる業よ! ハイ様にだけ、乱れるのよ!」
口論を続けていると、騒ぎが気になって近寄って来た男が居た。するりとホーチミンの手から紙を抜き取り、目を通す。
「げっ!」
「あらリュウ様、ごきげんよう」
真面目な顔をして、リュウが読み耽っている。
蒼褪めたサイゴンは逃げようとしたが、ホーチミンにマントを踏まれて動けない。
「ぐーもー! 面白いぐも、私も出演したいぐも!」
突拍子もないリュウの発言に面食らったサイゴンは目を白黒させ、ホーチミンは祈る様な瞳を投げる。
笑顔のまま、リュウは紙をホーチミンに返した。
「閃いたわ! ホーチミンちゃん、絶好調よ!
『仲睦まじく魔界での生活を始めたハイとアサギ。しかし、二人を陰から見つめている者がいた。ある日、目を離した隙に、ハイの近くで花を摘んでいたアサギが消えてしまう。狼狽え、消えたアサギを捜すハイは、ある一室の前で脚を止めた。怒りに身を任せ、扉を荒々しく開く。「いやあぁ、見ないで、ハイさまぁっ」「リュウ、貴様!」「フン、なかなか良い身体をした小娘だぐもなっ」そこには、アサギを拘束し、犯し続けるリュウがいた……。「貴様、何故このような事をっ」歯を剥き出しにして怒鳴るハイに、リュウは寂し気に呟く。「……そなたの事が、好きだったんだぐ。ハイが、こんな小娘にうつつを抜かしているから、腹いせに」リュウの失恋を知ったアサギは、どうすることも出来ず、ハラハラと涙を流した。そして決意したのだ、二人の仲を修復する為に、身を引く事を』ってどうかしら!? 健気なアサギちゃんが上手く表現されていると思わない!?」
「え、意外な方向へ行ったぐもな。それは遠慮したいぐも。私の相手も、普通にアサギがいいぐも」
あからさまに怪訝な顔を見せたリュウは、意気消沈する。
本人の意見を無視し、ホーチミンはすでに浮かんだ話を紙に殴り書きしている。
「え、待つぐも、書くのは止して欲しいぐも。私にはそんな趣味はないぐも」
「止めろミン、リュウ様、語尾は変だけど一応異界から来た魔王様だぞ!?」
「軽く貶された気がするぐもな」
三人揃えば、目立つ。
約束の為やって来たハイとアサギは、談笑している様に見えた彼らを見つけると手を振った。
「おはようございます!」
太陽の様に眩い笑顔で歩み寄るアサギに、サイゴンが蒼褪める。
「やべぇ、本人だ! おい、ミン、それ隠せっ」
「え、アサギちゃんに読んで貰おうと思って持ってきたのに。ハイ様はきっと御悦びになるわよ」
「お、お前は馬鹿か! 馬鹿なんだな!? 悪い事は言わない、とにかく隠せっ」
「えー……力作なのに」
「普通の純愛小説にしろ、何故こんな官能小説を書いたっ」
「だって、最近こういう女性向け娯楽恋愛小説、流行ってるし」
小声で言い争う二人を不思議そうにハイとアサギが見つめる。
視線に気づき、ぎこちなく笑った三人は軽く溜息を吐いた。
「えー、お蔵入りなの?」
「当然だ」
「私とハイの変な小説も、書くの禁止だぐも」
尚、余談だがこの紙は。
トビィが魔界へ来た時点で、身の危険を察知したホーチミン自らの手により焼却された為、現在は遺っていない。
今となっては、幻の作品である。