土曜日は誘惑の血の色
文字数 3,670文字
それは、今までに口にしたどんなものよりも美味だった。
この世界では、“贅沢”が出来る人間が限られる。
どんなものでも喉を通って胃の中に入り、生きていく為の活力になるならば馳走だった。優しかった義母が作ってくれた質素な食事よりも、飢えていた際に支給されたごく僅かなカビが生えたパンよりも、脱水症状寸前だった時に口に流し込まれた水よりも、アサギが作ってくれた異世界の食べ物よりも。
アサギを感じる事ができ、体内に取り入れただけで繋がりを、溶け合う事を感じられる素晴らしいモノ。その血液は、それほどまでに美味なものだった。
甘いのに、しつこくない。さらりとしているのにどこか柔らかで、飲み続けていたい。飲んでいるだけで、不思議と腹の底から力が湧き上がってくる気がした。
身体中の血が沸騰して、高笑いしたくなるほど愉快な気分になってくる。神経が過敏になり、研ぎ澄まされた感覚が身体中を襲う。興奮状態になり、今日一日の疲労感や胸が痛んだ出来事に嫉妬心も消えた気がした。
身体も軽くなったような気がする、今ならば何でも出来る。
「あはは、なんだろ、これ」
トランシスは恍惚した様子で、ひたすらアサギの指を吸い続けた。血の味が無くなれば、別の指を斬りそこを舐め始める。
アサギの手の指十本は、全て傷が出来た。それでもまだ足りない。
「血が美味しいってコトは、
吸い続ける音が、部屋に響き渡る。それは淫靡でもあり狂気的な音。下半身は熱を帯び、明らかに性欲も高まっている。
血を吸っただけなのに。
蒼褪めて気を失ったままのアサギの姿も確かにそそられたが、一番の要因は血だ。
「血が美味しいなんて、聞いたことがないケド。そういうもんだったのかなぁ? それとも、産まれた時から美味しいものを食べて育つとこうなるのかなぁ?」
自分が異常だとは考えず、教えて貰えなかった常識だったと勝手に思い込んだ。
食い入るようにアサギを見つめ、そっと唇を合わせる。唇を湿らせるように、ぬっとりと舐め上げた。
「アサギのモノは、オレのモノ。アサギは、オレのモノ。アサギの血は、勿論オレのモノ。アサギの全ては、オレのモノ。そのうち、身体も全部食べてしまおう」
食べる、という単語には二つの意味が込められていた。
純潔を奪う、という意味の食べる。
もう一つは、文字通り食料として体内に取り込む意味の食べる。
トランシスはこの時点で本気だった。どちらの意味でも、アサギを食べてしまいたかった。血がこれほど美味しいのだから、肉はもっと美味いものなのだろうと。
乳が出なくなったヤギの肉を食べる、肉を食べる為に育てているウサギもいる。ならば人間の肉も食べられる筈だ。血が美味しいのだから、肉はもっと美味かもしれない。
「もしかしてこの世の贅沢な食事って、愛する女を食べることなのかもね。神を名乗ってやがる奴も、そういうことなのかも」
愛おしそうにアサギの頬に触れ、眠っているのを良い事に、額を、瞼を、頬を、鼻を、耳を、唇を、顎を、首筋を、指を、手首を、二の腕を、露出している部分は全て舐め上げた。
「あぁ、やっぱり。血よりは劣るケド、こうして身体を舐めていても美味しい。つまり、アサギの“蜜”は、どれほど美味しいんだろう」
含み笑いをして破顔したトランシスは、考えさえ口にしなければ爽やかで礼儀正しい青年に見える。
けれども、何処かに毒を秘める。陰鬱な影は、時折男にとって優位なもの。その危険な香りは、多感期の少女にとって刺激的で魅力的。否応なしに惹かれてしまう要因となる。
トランシスはアサギに出逢い、その危うい魅了をさらに開花させてしまった。
アサギが目を醒ました時、トランシスはまだその指を舐めていた。とうに血は出なくなっていたが、一心不乱に吸っていた。
まるで、乳飲み子が母乳を強請るように。
ソファに深く腰掛けたトランシスの膝の上にいたアサギは、その態勢に軽く赤面をした。とくん、と胸が高鳴る。指を吸われていたのを差し引いたとしても、好きな男の部屋の膝の上でずっと抱かれていたというのは、少女の心を揺さぶるのに十分だった。
知らない世界が、日々増えていく。有り触れたロマンティックで少しだけ過激な少女漫画を、アサギも友達と交換して読んだりしている。そういった内容の中に自分が入ってしまったようで、妙な興奮状態を覚えた。
「おはよう、よく眠っていたね」
「ごめんなさい、えっと」
ようやく指から口を離したトランシスは、悪びれた様子もなく笑顔を向ける。
戸惑うアサギは、記憶を失う前の状況がうろ覚えだった。まだ完全に目が覚めていないこともあったのだが、脳に靄がかかったように記憶がブレている。
「寝顔が可愛かったから、ずっと見てた。だから退屈しなかった。オレは愉しかったよ、幸せだった」
「え、えええええ! 恥ずかしいからそういうのは見ちゃ、ダメなんだよ!?」
顔を真っ赤にして眉を吊り上げたアサギが愛おしく、トランシスは思い切り吹き出すと胸に押し付けて抱きしめる。
「かーわいい! 好きだなぁ、大好きだなぁ、ずっと、一緒にいたいなぁ、このまま、こうしていたいなぁ。誰にも会わず、二人きりで過ごしたいなぁ」
トランシスの形良い唇から漏れる心地よい声は、満ち潮で埋められてしまう海岸のようにアサギの思考を消していく。正常な思考は、波に浚われ海に沈む。
泡となり、水に飲まれ、荒々しく揉まれてパチン、と掻き消える。
「ぁ……ぅ」
何も言えないアサギの髪を撫でながら、上機嫌のトランシスは瞳を閉じた。指同士を絡ませ擦りつければ、まだ唾液の粘着が乾かずに残っていた。
か細い糸が、二人を繋ぐ。
「ふふ、愉しい」
耳元でそう囁いたトランシスは、意味が解らず軽く顔を上げたアサギに至福の笑みを向ける。
「愛しているよ、アサギ」
愛している、という小学生では聞き慣れない単語に再び赤面したアサギは視線を逸らした。自分も返して良いのか解らず口籠っていると、含み笑いしながらの要求が耳元で告げられる。
それは、軽々しい口約束程度のものだった。
しかし、内容は重苦しかった。
「だからまた、血を飲ませてね。とても美味しかったんだ」
その一言で、アサギは記憶を鮮明に取り戻した。
凍り付いたアサギを不思議そうにトランシスは一瞥し、抱き締めて背中を擦る。
腕の中で震えることも出来ず、瞬きするのも忘れたアサギはどうにか頷く。
「は、い」
掠れた声で、受け入れた。
怖かった、痛かった、血を吸うなんて有り得ないと思った。けれども、大好きなトランシスが望むのならば、それは応えなければならないと思った。拒否したら、嫌われてしまうのではないかと。
彼は喜んでいた。その笑顔を見ることが出来るのであれば、少しくらい自分が痛い思いをしても大丈夫だと、アサギはそう思い込んだ。言われた通り、自分は回復魔法を扱うことができる。
ならば、問題はない。痛みは、一瞬だ。
「ありがとう、アサギ! 大好きだよ」
「は、い」
無邪気に微笑み頬に何度も口付けてくるトランシスに、アサギは『自分の行動は間違っていなかった』と安堵した。
この笑顔を見ることが出来るのならば、言うことを聞いておこう。言うことを聞いていたら、きっと嫌われない筈だ。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
トランシスは、まだ、好きだと、大好きだと、愛していると言ってくれるから、大丈夫。
ミノルとは違うから、大丈夫。
嫌われないようにしないといけない、この想いを手放したくないから、一緒にいたいから、自分に出来ることはやらねばならない。
……どうか、嫌われませんように。
アサギは、そんなことをぼんやりと考えていた。
トランシスと会っていられる時間は、神クレロによって制限されている。地球時間で二十四時間が経過してしまえば、引き離される。
時間が来る、その時まで。時間が二人を容赦なく別つ、その時まで。二人は、互いを抱き締めてソファで眠っていた。
『アサギ、時間が過ぎている。戻りなさい』
転寝していると、クレロの声が脳内で響き渡る。
うっすらと瞳を開き、アサギは気落ちした。そして、気づかず眠っているトランシスの頬にそっと触れる。解っていたことだが、帰らなければならない。こうして監視されているので、忘れていたでは済まないようだ。
トランシスを起こさないように、アサギは静かに抱きしめてくれていた腕を外していく。思いのほか強い力で動かすことに苦労した。
アサギは、それが嬉しかった。離さないでいてくれたことに、ひどく胸を打たれた。
「ありがとう、トランシス。また、来るからね」
ごめんね。
アサギはそういうと、躊躇することなく唇を合わせる。
身動ぎしたトランシスから力任せにすり抜け、トボトボと帰路についた。