砕けたモノ
文字数 3,006文字
「あ……」
慌てて口を押さえたミノルは、蒼褪める。
また、やってしまった。こんなことを言いにきたのではない、謝りに来たのにどうして出来ないのか。急速に喉が渇いた。掠れる声で努めて優しく振る舞い、震える手をアサギに差し伸べる。
「わ、わりぃ、言い過ぎた……その、ごめん」
「い、いえ、へっきですから」
俯き、腕で涙を拭いているアサギは滑らかに動いている。愛しく思う相手であって、人形ではない。
彼女は人間だ。
「ご、ごめん。今、ひでぇこと言った、でも……違うんだ、お、俺はさ、アサギ」
下卑た自分を擁護する声は、もう聞こえない。
「その、よ、よかったら、今度一緒に、ぷ、プールに。俺、お前と一緒に行きたいんだ、さ、さっきのはナシで、その」
肩を震わせ懸命に息を飲み込んでいるアサギは、泣き喚くのを堪えているようだ。否定し、首を横に振り続けている。肩に触れたいのに、触れたら弾けて粉々に砕けそうで出来ない。
「アサギ、悪かった。違うんだ、その」
伝えたいのは『好きなんだ。仲直りしたくて、来たんだ』なのに。言葉を忘れ、酸素不足の澱んだ水槽に漂う金魚の様に、ミノルは口をパクパクさせる。
「あの、ちが、ちがう、違う、その、あの」
ただ、アサギの反応にイラついてショックを受けて、八つ当たりをしただけ。俺を見て欲しくて駄々をこねた。あんなこと思っていない、好きなんだ、ずっと好きだったんだ。頼むから、嫌わないで。そんな想いを素直に口にできないミノルは、自身に絶望した。五体満足で産まれ、声を出し意思疎通をはかる生物だというのにそれが出来ない。
「お、おれ、俺は、アサギのことが」
数分が、数十分にも思えた。うるさいくらいの蝉の声も、聞こえなかった。ゆらり、と立ち上がったアサギを、一歩後退ったミノルが見つめる。
目の前には、心からの綺麗な笑顔を向けているアサギがいた。大きな瞳と、長い睫に涙の滴。
「ごめんなさい」
心から謝罪していることが分かるので、その笑顔に鳥肌が立つ。
それだけ告げると、笑顔は脆く崩れる。自分の腕に爪を立て、何かに耐えるように唇を噛締めると家には戻らず、勢いよくアサギは走り出した。
爽やかで甘い香りがミノルの鼻先をくすぐり、すぐ横をアサギが走り去る。
「アサギ!?」
声をかけるが、振り向かない。躊躇したが、今度こそ追う為にミノルも走り出す。右に曲がったことを確認し、足の速さなら自分が勝っている筈だと、地面を強く蹴って追いかける。
「ち、ちが! 違う、違う!」
直ぐに追いつけるだろうと思った、けれど。
「アサギ!? アサギっ、何処だ、アサギ!」
アサギの姿が忽然と消えた。
周囲を見渡し姿を探すが、何処にもいない。
「アサギ! 悪かった! 言い過ぎたんだ! 違うから、戻って来いよっ、戻って来てくれ、違うんだ! 今のは、違う! 好きなんだ、本当に好きなんだ」
おそらく。
アサギは、もうこの周囲にはいないのだろう。瞬間移動でもしたのか、それとも宙に浮いて飛んで行ってしまったのか。元魔王を召喚し、地球に呼び寄せた勇者ならば容易い事に思えた。
「アサギ!」
腹の底から叫んだミノルは、眩暈に襲われその場に座り込む。目の前で光が点滅している、吐き気がした、熱中症のような症状だがそうではない。
胸を押さえ咳込むと、吐瀉物が地面に散らばった。
それは、遠い昔のこと。
「俺、あのアサギの表情を以前も見た気がする」
強い衝撃に襲われた脳からの伝達で、悲鳴を上げた。通行人が慌ててミノルに駆け寄って揺さぶるが、瞳は焦点が合っていない。
「男の子が倒れているぞ! 誰か、救急車を!」
人だかりが出来る中、ミノルの意識は朦朧としていた。
汚れた姫君が佇んでいる。彼女は身を挺して護った国民に蔑まれ、投石され、流血しながらも立っていた。それを知っているのに、自分を助け、頼って来てくれた姫君を放置し、愚かな彼らと一緒になって攻撃した。
言葉の刃で、彼女を斬った。
『迷惑かけてごめんなさい! 大丈夫です、私、一人で出来ますから! 今まで、ありがとうございました』
凛とした、美しい声で緑の髪の姫君は謝罪してその場を去った。
先程、アサギが浮かべた笑顔と重なる。全く同じ光景だ、二度と同じ過ちを犯したくなかったのに、
チャンスはもう二度と巡ってこないだろうと痛感し、時間を戻したいと願う。
あの時、自分はなんと告げただろう。記憶が曖昧になる、誰かの言葉を代弁したかのような気もしてきた。頭痛が止まらない、額が割れて何か異形が飛び出てきそうだった。ミノルは道路に拳を叩きつけ錯乱する。皮膚が切れ、流血した。
「アサギっ!」
幾ら叫んでも、ミノルの声はアサギに届かない。
彼女は何処にもいない。
発狂したミノルのもとに、救急隊員が駆け付ける。
「あ、あぁ、ぅわあああああぁっ! ち、違う違う違う違う! こんなことがしたかったわけじゃ、違うんだーっ! 次に会えたら、次に会えたら」
『貴女に、守護を。穢されない麗しき花で居られるように、守護を』
キィィィィィ、カトン。
絶叫したミノルは、ここで意識を手放した。人々に見守られる中、数分経過し救急車が走り出す。
訝るほどに大袈裟な笑顔で、アサギは戻ってきた。
「遅くなっちゃったね、みーちゃん。はい、ジュース」
ペットボトルを四本抱えて戻ってきたアサギを、リョウがじっと見つめる。
「……おかえり」
ゲームをしていたリョウと弟達に配ると、何気なく座って蓋を開けた。しかし、アサギはそのまま脇に置いてじっと床を見つめている。
「ありがとう」
受け取り溜息を吐いたリョウはコントローラを弟に投げると、アサギの額にクッションを押し付けた。
「無理するな」
聞こえるように優しく囁く。
アサギは、ずるずると身体を崩した。そしてクッションを抱きかかえると、声を押し殺して泣き出す。
リョウは、何も言わずにじっとアサギを見つめる。すると、呼吸を躊躇うように開き出した口が、頼りない声を発した。
「私、嫌われてた。……知ってたけど、ううん、
「気にすんな、人間なんてそんなもんだよ。世界は広い、全員に好かれる人間なんていないさ。アイドルだってアンチが絶対いるじゃん? でも、僕はアサギを絶対に嫌わない」
「う、うぅっ、でも、でも! どぉしよぉ、私、取り返しのつかないこと、してったっ」
「したことは、仕方ない。過去には戻れない、過去に捕らわれちゃ駄目だ。二度と過ちを起こさないように、頑張るしかない」
「どぉしよぉ、酷いこと、いっぱいしてた、のっ。わた、私が浮かれていた、だけ、でっ。どおして
クッションで顔を隠し泣き続けるアサギを、励ますようにリョウはぎこちなく撫でる。
「大丈夫だよ。どんなにアサギが嫌われても、僕は友達だから。そう、
泣いている姉を心配そうに見ている弟達に気づいたリョウは、苦笑した。ゲームを続けるように促し、「大丈夫だから」と口を動かす。
賢い弟達は、当惑しつつもゲームに戻る。それが最善だと気づいたのだろう。
リョウは唇を噛み締めながら、いつまでもアサギを撫でていた。
「僕が、君を護る。僕の大事な、友達のアサギを」