まだ見ぬ男に乞う
文字数 3,412文字
先程よりもミノルが接近しており、身体より顔が近い。反射的に床を腕で押し、どうにか後退する。距離を保とうとしたが、追うように近づいてきて縮みあがった。鋭い視線が、怖い。荒い呼吸で迫ってくる姿に鼓動が速まり、身体が震える。
焦燥感が高まり、バランスを崩したアサギは床に倒れ込んだ。
「きゃ」
「あぶねぇ!」
助けようとしたミノルが腕を伸ばす。アサギの身体の下に腕を入れたまではよかったが、支えきれずに覆い被さる形となった。
二人の身体が密着する。
赤面し焦って離れるミノルと、その下で蹲り震えるアサギ。
そこに、甘い空気はない。あるのは、湿気を含んだ重い空気。
「い、痛くなかったか? 絨毯ないから、悪い」
「だ、大丈夫」
ぎこちなく笑い、アサギは起き上がろうとした。しかし、ミノルは挑むような瞳で、再び上に覆い被さってきた。
一旦は、離れたのに。アサギの喉の奥から空気が漏れ、緊張で呼吸を忘れた。瞳を閉じ身体を縮こませ、タスケテと誰かに救いの手を求める。
この部屋に、いや、この家には他に誰もいないというのに。
「アサギ」
熱っぽく名を呼ばれ、鳥肌が立つ。粘っこい甘い声は、アサギが聞いた事のない声だった。ミノルの荒い息が、前髪を揺らす。怖くて瞳が開けられず、ただ恐怖を覚えた。
完全に、怯えている。
だが、ミノルは恥ずかしくて震えているように見えた為余計に興奮し悩ましい気分になった。優等生のアサギが未体験であるキスを、自分は知っている。それを今から教えるという優越感に高揚する。
初めて、アサギに勝った気がした。
彼女には負けたくない、褒められたい、尊敬されたい、強く思われたい、頼られたい。一人前の男に見られたい。そんな欲求が爆発する。
スッと、アサギの耳を何かが掠る。
「ひゃん」
「っ、へ、変な声出すなよっ!」
極限状態のアサギは、空気の流れに過敏になっていた。上ずった声を出したアサギは、顔を背ける。
慌てたのはミノルだ、キスをしたことはあっても、“女の声”は知らない。
アサギの艶めいた声は、
空気の流れが止まったので、アサギは怖々瞳を開いた。
「ほら、早く起き上がれ」
ミノルが手を差し伸べ、ぶっきらぼうに言った。
顔を背けていた横顔はどこかあどけなく、普段通りな気がして少し安堵した。しかしアサギは、素直に掴まってよいのか躊躇し、考え込む。
……憂美さんは、きっと嫌だと思う。私があの子の立場だったら、嫌だもの。
罪悪感に苛まれる前に立場を弁えたアサギは、自力で起き上がった。二人きりで遊ぶことすら躊躇い、悩んだ。自問自答しても答えは出ないが、これは“悪い事”だと認識した。
アサギはミノルに好意を寄せている。
恋愛感情がなければ、後ろめたい気持ちはなかったのだろう。アサギと、リョウのように。だが、一方通行でもそこに想いがある以上、これは悪い事だと自分が叫んでいる。自分が哀しいと思うことを、他人にしてはいけない。
アサギは、顏しか知らぬ“憂美”という少女の気持ちを護ろうとした。
飄々と起き上がったアサギを唖然と見つめたミノルは、瞬時に逆上した。良かれと思ってしたことを、跳ね除けられた。善意を拒絶され、胸が痛む。可愛らしく摑まってくれるものだと期待し、『憂美なら掴まっていた』と比較した。
ミノルが、大きく舌打ちをする。
気まずい空気が部屋に充満する。限界を感じたアサギは、ここにいてもお互いの為にならないと判断し、立ち上がろうとした。
「あ、あの、そろそろ……。用事を済ませないと」
「待てよ」
意を決し言葉を発したアサギの右手を強引に掴んだミノルは、乱暴に壁に押し付ける。頭に血が上っていた、全てが気に入らなくて、力でねじ伏せようとした。
後頭部を壁で打ったアサギは、低く呻く。
「っ、いっ、た……」
痛みに顔を顰め、うっすらと瞳を開く。近づいてきたミノルの顔に気づき、恐怖に引きつった悲鳴を上げた。反射的に首を大きく横に曲げ、逃げる。キスをされそうになっていると解った。嫌だった、ならば唇を死守するしかない。
アサギの瞳から、涙が零れた。哀しいのか悔しいのか怖いのか、この感情が何か解らない。
それでも、ミノルはしつこく迫った。ここまで来たら、後には引けない。血走った瞳で、獲物を捕らえ続ける。抵抗しているアサギを気遣う余裕は、彼にはなかった。
アサギは懸命にミノルの胸を押し戻し、離れようと試みた。キスをしてはいけない、だから阻止せねばと、心中で連呼する。ミノルがキスをする相手は、自分ではないと言い聞かせる。
……彼女がいる人と、キスをしてはいけない。
キィィ、カトン。
けれども、アサギの必死の抵抗はミノルの欲望に火をつけ煽ってしまった。弱者を征服したい男の本能が働く。黙らせて言うことを聞かせるにはこれが一番だと思い、我武者羅に顔を近づける。
二人の意思は、相反する。
「私、キスは彼氏としたいから、いやっ」
「お前は何言ってっ」
アサギの言葉に、怒りが湧いた。彼氏である自分がキスをして何が悪いのかと、躍起になる。
そして、二人の攻防は呆気なく終わった。
男と女、体格差からも歴然としている。ミノルはアサギの顎を持ち上げ、噛み付くようにキスをしようとした。
キスとは、互いを想い合ってする、気持ちを確かめる神聖な儀式。アサギの考える
『二人でいると、落ち着くから。それを確かめる為に口付けよう』
遠い昔、誰かにそう教えられた気がした。
その相手がミノルではないと、
『この唇は、オレのもの。オレの唇は、“ ”のもの。だから、絶対に他の誰にも触れさせないで。オレも触れさせない。解る?』
彼と、そんな約束をした。アサギは大きく瞳を開き、男の名を呼ぼうとする。しかし、おぼろげに顔は浮かぶのに名前が思い出せない。
様々な糸が絡み合い複雑になりすぎた二人の縁は、繋がっているのか、解けているのか、切られているのか。
……ト!
紫銀の髪が揺れ、意地悪そうな瞳がこちらを見ている。彼が手を伸ばした。
アサギの目の前で、光が激しくぶつかり合う。
「なんっ、だよ、お前っ」
ミノルはアサギが好きだから、キスをしようとした。何度も他の女で練習したから、上手く出来るはずだと思っていた。気紛れと優越感で他の少女と付き合ってみたが、本命はこちらのアサギだと分かっていた。
その筈だった。
けれども、久し振りに会えば妙に余所余所しく、つまらなさそうな態度に憤慨した。キスをしなければ、男が廃ると思った。キスさえしたら、覆る気がした。十二歳でも、男は男。誰に教えられたわけでもなく、太古からの男の本質が蠢く。
だがしかし、根本的に思い違いをしている。見当違いだ。
「私のこと、彼女じゃないって言ってたっ! ミノル、そう言ってたっ! わ、私は、
悲鳴に近い絶叫で、ようやくミノルは我に返った。目の前のアサギは号泣している。大事な彼女を泣かせたのは自分だと気づき、狼狽して手を離す。
胸元を乱暴に掴んだ為、アサギの着衣は乱れボタンが一つ無くなっていた。傍から見たらそれは扇情的だ、だが、
残虐性よりも喪失感が勝り、アサギの涙がミノルの心臓を締め付け、抉る。
間違った事をしたのだと青褪め、口元を押さえた。泣いているアサギなど見たくないと思っていたのに、泣いている。
「あ、その、ごめ」
「私、あの子みたいに可愛くないからっ!」
解放されたアサギは本心を叫ぶと勢いよく立ち上がり、一目散に部屋を飛び出す。階段を転がってでも逃げたいと思い、玄関を目指した。外の熱された空気に飛び込むと、安堵して力が抜けそうになった。しかし、立ち止まってはいけない。自転車に跨ると、振り返ることなく全速力で家へ帰る。
怖い、怖い、怖い。アサギは涸れたと思っていた涙を再び流した。