外伝4『月影の晩に』16:誘惑の裏に潜む謀
文字数 5,758文字
アイラはラスカサスからの使者へ渡す書簡を、自ら書き綴っていた。『今しばらく妹と離れたくはない為、二人でそちらにお邪魔しても良いでしょうか』といった内容だ。返答としては間違っているが、今はこれが精一杯だ。まさか自分に縁談の話が来るとは思っていなかったので、正直面食らっている。
隣では、マローがベルガーから頂いた肌に良いという花の蜜を顔につけて愉しんでいる。とても今、無防備で無邪気な彼女を置いて、一人で何処かに行くことは出来ない。アイラは、密かに溜息を吐いた。
しかし、アイラの心中など誰が汲み取るだろうか。当然、アイラをラスカサスへやるべきだとの声が出ており、すでに書簡の手配は済んでいる。
「あちらが望んだのだ、致し方あるまい。婚姻関係を結ぶことにより、あちらが破滅した場合の領土は、我らの物となるだろう」
「となると、やはり土地的にはリュイ皇子のラスカサスより、トライ王子の領土のほうが好ましいが」
「しかし、トライ王子がどう出てくるか」
「ともかく、ラスカサスよりの使者に書簡を」
アイラの嫁ぎ先は滅亡する、を前提に会議は進行している。本当に潰したい国は、ベルガーのファンアイク帝国、及びトレベレスのネーデルラント国だ。他国にとって脅威となっている侵略国である、本来ならばアイラをこの二人のどちらかに差し出す予定であった。だが、トライがアイラに付きっきりだったので、機会を作る事が出来なかった。
仮に、マローをどちらかに差し出せば、これ幸いにとこちらを属国にしてきそうな勢いである。人質は、マローだ、そうなると誰も手が出せない。そして、マローが子を授かれば、もはや邪魔するものなど何もない。
予言通りであるならば。
「今晩中にアイラ姫をトレベレス殿か、ベルガー殿の部屋に送りましょうか。幸いトライ殿が不在です。夜伽の準備ば終わっているでしょう? アイラ姫は立派に勤めるでしょう」
「それが良いかと。ただ、ベルガー殿は用心深い、そして酒を呑まない。となれば、トレベレス殿が適任かと思われます。強い酒でも持たせて、今すぐにでも」
「歳とて、ベルガー殿よりお若い。理性など先に崩れるでしょうし、あとはアイラ姫の手腕に期待致しましょう。何、呼び寄せた娼婦達からの報告によれば、それは熱心に閨事を学んでおられたとか。全く、子宮に種を貰う為とはいえ、あさましい事」
姫に、王子を誘惑させる。寝所に誘い、巧みに子を孕ませる。彼らは、それが自国の為だと思っていた。これこそが、正義なのだと盲信していた。
雲隠れした月が、物悲しい晩。
ミノリとトモハラは陰謀渦巻く城内で、緊張した面持ちで月を見上げていた。
トライの真剣な眼差しと、微かに震えていたような声の一部始終を伝えねばと、ミノリはトモハラに相談を持ちかけていた。
トモハラは、硬くなったパンを冷えたクリームシチューに浸し、口にしていた。ミノリが周囲を気にして囁いた言葉に、怪訝な表情を浮かべる。
「……何だって?」
「だから、トライ王子が。俺達に『気をつけろ』と。嫌な予感がする、ってしきりに言っていたんだ。アイツ、いけ好かないけど、腕は確かだと思うんだな」
クリームシチューに入っていた小さな鶏肉を横取りし、自分の口に運んだミノリは口元を忙しなく動かす。唖然としてそれを見ていたトモハラだが、肩を竦めて本音を吐露した。
「実は、俺も嫌な予感がして仕方がない。足元からゾクゾクとした寒気が上ってくる」
押し殺したトモハルの声に頭を掻いたミノリは、一気にパンを喉の奥に押し込んだ。二人は徐に席を立ち、倉庫へと向かう。休憩室に、ありったけの薬草や食料、それに武器を隠しておく為に。“嫌な予感”……それが具体的に何を指すのかは解らない。だが、少なくとも近いうちに起こってしまうだろうことは感じ取れる。二人は視線を交わすだけで言葉には出さず、黙々と準備を整えた。
覚悟を決めたような真剣な顔で書き綴っているアイラを見つめてから、つまらなそうにマローは立ち上がった。肌の手入れに飽きてしまったので、部屋のドアからひょこりと顔を出す。
「ねぇ。眠れないから、またあの飲み物頂戴」
しかし、そこにトモハラの姿はなかった。
騎士の一人が温めた山羊の乳を持ってきてくれたが、やはり味が違う。落胆し、不貞腐れて、マローは二口飲んだものの、カップを突き返した。
書簡をどうにか書き終えたアイラは、頬を膨らませているマローに気づき、苦笑した。
「ご機嫌斜め? いつもの美味しい山羊乳ではなかったの?」
「うん、美味しくなかったの」
意気消沈しているマローを手招きし、二人してベッドに腰掛ける。
「作ってくれた人が違うからよ。トモハラでしょう、作ってくれていたのは。彼を呼んでみたら? あの騎士様はとても優しいから、きっとすぐに飛んできて、マローの為に作ってくれるはずよ」
「知らない! もう、寝るからいーのっ」
図星だった。アイラから単刀直入に指摘され、表情を強張らせたマローは逃げるようにシーツに潜りこむ。そのまま瞳を閉じ、嘘の寝息を立てた。
……そ、そうよ! あのヘラヘラした変な騎士じゃないと、あの味にならないのっ。ただのあったかい乳なのにっ! で、でも、アイツに頼むのは癪に障るんだものっ! 言わなくても、アイツが常に持ってくるのが普通なんだからっ。
肩を竦めたアイラは、シーツの上から丸まっているマローの頭部を撫でた。
「おやすみなさい、マロー。明日は、美味しい飲み物だといいね」
つまり、トモハラが作ってくれるといいね、という事だ。シーツの中でマローは若干頷いたらしく、もぞもぞと動いている。素直になれない妹が愛らしい、しかし、それでは伝わらない。
……貴女は、胸を張って伝えて良いのに。トモハラは拒絶しない。
アイラは、マローとトモハラが意識し合っている事に気づいていた。だからといって、自分がどうこう出来るものではない。歯痒くて、唇を真横に結ぶ。本当に寝息を立て始めたマローに胸を撫で下ろし、ドアに手をかけた。
「お出かけですか、アイラ様」
ミノリは不在である、だが騎士は他にも大勢控えている。
「どなたか、ランプを持っていますか? 指輪を捜すついでに夜風に当たりたいのです」
騎士達は一気に項垂れ、アイラの前に立ち塞がった。
「おやめください。気になるのでしたら、我らが捜しておきますから。トライ殿にも散々言われたでしょう? 気分転換の散歩でしたらいくらでも付き添いますが、捜索は諦めてください」
「ですが……」
言葉を詰まらせたアイラに、騎士達は胸を鷲掴みにされた。このように寂しそうな顔など見たくはないが、姫の言うことはあまりにも無謀である。
「騎士の言う通りだ。やめておかれるのが懸命かと、アイラ姫」
その声に弾かれたように振り返った騎士達は、微かに瞳を見開く。トレベレスが、軽く微笑んで立っていた。
背筋を正し敬礼した騎士達の脇をすり抜け、トレベレスは目を白黒させているアイラの前に立つ。そうして、悪戯っぽく耳元で囁いた。
「トライが帰宅すれば、同じ様な物を持ってきてくれますよ」
「ですから、同じ様な物では駄目なのです」
ムッとして、アイラはトレベレスを睨み返した。昨夜と同じことを繰り返され、少々勘に障った。
しかし、トレベレスはそのような視線など気にも留めず、喉の奥で笑う。そうして、肩に触れてから手を滑らせ、腰を抱き引き寄せた。
騎士らは、わなわなと身体を小刻みに震わせた。舞踏でもないのに本人の了承を得ず身体に触れるなど、無礼極まりないと憤慨する。しかも、その仕草は性的なものに見えてしまった。
「さて……。マロー姫に会いに来たのだが、妹姫はお休みで?」
「はい、申し訳ありませんが眠りについております」
「そうか、では出直すとしよう。しかし、今宵は月もなく暇。なかなか寝付けぬので……アイラ姫、話し相手になっていただけませんか」
「え? 私、ですか?」
無邪気に笑うトレベレスに、騎士達は一斉に警戒した。トライからの忠告をミノリ経由で聞いていたこともあるが、それ以前に私情も挟んでいる。今までは滑稽な程マローに媚を売っていたが、トライが消えた途端に、この豹変振りである。
アイラは戸惑いを隠せず困惑し、左右に身体を揺すっている。
「眠いですか? トライから聞きましたが、貴女は大層物知りだと。私の部屋で御伽噺でもお聞かせ願えませんかね? お歌も、そこらの歌い手より上手であられるようですし。好い酒の肴になります」
「お断りします!」
言葉を挟んだのは、息を切らせて走ってきたミノリだ。後方に、トモハラも居る。
アイラは、二人の姿を見て安堵の溜息を吐いた。どう対応してよいのか、狼狽してしまった。
トレベレスはしかめっ面で二人を睨み付けたが、すぐにアイラへと視線を戻した。嫣然とアイラに微笑み、さり気無く髪を指で摘まむと口元へ運び、咥える。
アイラは驚き後退りしようと身体を捩ったが、腰を押さえつけられていたので身動きがとれなかった。トレベレスの息が、頬に触れる。すると、身体が火照り出す。
「いかがですか、アイラ姫」
「えと……ですが、そ、その、夜も遅いですし……。マローが、一人では寂しがりますし……」
アイラは、言葉をもつれさせた。強い力で引き寄せられ、互いの体温がはっきりと感じられるほどに、密着している。
「駄目ですか? 指輪を失くされたあの夜、歌っていたでしょう? 途中で止まってしまい、とても残念でした。続きが聴きたい、貴女の声はどのような楽器よりも甘美な音を出す。どうか今宵、部屋で啼いてください」
鼻が触れるか触れないかまで、顔が接近した。アイラは、呼吸する事すらままならず、懸命に視線を逸らす。トライと始終共に居たとはいえ、このような接し方ではなかった。そもそも、アイラは舞踏すら行ったことがない。他人の熱に、怯えた。俯き、顔を真っ赤にしながらどうにか逃げようともがく。
しかし、トレベレスは静かな水が流れるような旋律で、激した下品なものとも思える会話を繰り広げる。自らの下腹部をアイラに押し付け、まるでのそのカタチを分からせようとしているようにも見えた。
逆上したミノリは、剣を引き抜きそうになった。しかし、トモハラに止められた。非難するように凄まじい剣幕で睨んだが、トモハラの手と瞳も怒りで震えている事を知り、どうにか耐える。
騎士達は、この品性のカケラもないようなトレベレスを、憎憎しげに睨み付けた。よもや、誰かが何かの弾みで剣を引き抜くのではないか、というほどの緊迫した空気が漂う。
そんな中で、アイラの頬が紅潮し、瞳が潤んでいる事に誰か気づけただろう。それは、嫌悪感ではない。心の昂揚が表面化している。
騎士達が動かないので、トレベレスは勝ち誇ったように笑った。さらに挑発するように壁にアイラを押付け、髪を撫で、顎に指をかけて上を向かせる。騎士達の視線から隠す様に身体で包み込み、耳元で甘い蜜の様な言葉を囁く。
「さぁ、どうでしょう。アイラ姫? 貴女は妹姫を気遣い過ぎた……たまには羽根を伸ばしてみては」
「っ、そ、の」
「嫌ではないのでしょう? ほら、この唇は今にも囀りを始めそうに開きかけている」
騎士達は、トレベレスへの嫉妬と憤慨に、気を取られ過ぎてしまった。
その頃、水面下で侵略は始まっていたというのに。トレベレスの行動は、ただの時間稼ぎである。
城内においてベルガーが真っ先に目をつけたのが、アイラ付きの騎士達である。危機感がないとしか思えない城内の者達だが、彼らだけは若干違うと踏んでいた。マロー付きの騎士達は取るに足らない存在だと把握していたが、彼らは軽視してはならないと第六感が働いた。何より、トライ王子がアイラに剣を教える際に、騎士の誰かにも手ほどきしたと耳にしていた。短期間であるとはいえ、厄介この上ない。
トライ王子とアイラ、この二人は容易く欺けないと思っていたベルガーは慎重に計画を進めた。そして、トライ王子さえ消えてしまえば、崩れることも解っていた。アイラ姫がいかに頭の回転の速い利口な娘であれど、脆弱な無力な存在。そして、騎士らを足止めするのにもってこいな方法が、アイラへの横槍である。
まんまとアイラ付きの騎士達は、ベルガーの策略に嵌められてしまった。アイラへの忠誠心は見て取れたので、簡単にコマは動いたのである。アイラを護る事のみに徹した騎士達は、城内の不穏な気配に気づくことが出来なかった。
トレベレスがアイラに接近している間に、ベルガーの手の者達は城内を徘徊した。睡眠中の者達の口には毒薬を垂らし、起きている者達には毒薬を酒に混ぜて振舞った。殺戮は、密やかに行われた。
この城の騎士はアイラかマローの傍に控えている存在だ、彼らさえ一箇所に固まっているのであれば、あとは容易い。まして、もはやベルガーやその家臣達は城内の者達と溶け込み、気軽に会話さえ交わせる存在となっている。
ベルガーとトレベレスが必要なのは、妹のマロー姫唯一人。それ以外の人物は、不要だ。不要であるならば、消したほうが都合が良い。警戒心など見せなかった城内の者達は、毒薬によって瞬く間に命を奪われていったのである。
それは、とても静かな夜だった。
皆、一瞬身体を引き攣らせたが、眠るように息を引き取っていく。毒薬が不足することも考慮し、睡眠薬で眠らせてから心臓を一突きにする方法も取られた。物音を立てることなく、確実に死に至らしめていく。ベルガーは冷めた瞳で随時状況を聞きながら、紅茶を啜っていた。トレベレスは上手く動いているだろうかと、思案しながら。ミイラ取りがミイラにならねば良いが、と薄く哂いながら。
彼ら他国の王子が、まさか堂々と殺戮に及ぶとは、予期せぬ事だった。