暫しの別れ
文字数 9,634文字
「なんじゃ、この不快な小僧は!」
「始末して参ります、私が」
淡々と告げ深々と頭を垂れたエーアに、ミラボーは苦々しく吐き棄てる。
「待て、エーア。……よい、放っておけ」
「左様で御座いますか、承知いたしました」
不愉快そうに瞳を光らせ低く呻いたミラボーは、胸を掻き毟りたい衝動に駆られていた。エーアを止めたのは他でもない、魔力が互角、いやトーマが若干上だと判断した為だ。
トーマの予想通り、トロルを放ったのは魔王ミラボーである。散り散りになった勇者達の把握をしており、その中で今後自分の存在を脅かすであろう者の目星をつけた。厄介だと判断したのは、既に勇者の武器を所持しているトモハルだった。さらに、当初の予定通り進んでいるこの一行こそが、他の勇者の武器を探していることなど明らかである。
ならば真っ先に潰す相手だ。
「人間の分際で……異様な魔力の所持者じゃな。生意気な」
瞳を細め、自身の水晶を忌々しそうに見つめミラボーは顎を擦った。突如現れ計画を台無しにした、この小僧の顔を見るだけで腸が煮え繰り返る。トロルだけで片がつくはずだった、想定外である。しかも、先手を打ってくるので、簡単に手が出せない。
「まぁよい、こうしてあちらの状況は探れるのだからのぉ」
ミラボーは、この一行の状況を完璧に把握していた。一度位置さえ掴んでしまえば、水晶に映像を映し出せる。ふんぞり返り、ワイングラスを手にしたその瞬間。
ペキ。
水晶に、亀裂が走った。
そうして、軽快な音共に真っ二つに割れた。まるで、剣で一刀両断したような切り口である。流石に、ミラボーも血相を変えて立ち上がった。
「ば、ばかな!?」
無残に崩れた水晶を震える唇で見つめると、愕然とする。水晶の映像は、消えてしまった。
水晶の代わりは幾らでもある、再度トモハルらの位置を掴まねばならないが、それも然程面倒ではない。ミラボーが額に青筋を浮かべたのは、そのようなことではない。
「に、人間の分際で、我の魔力を遮断したとでもいうのか!?」
支配しているのは、監視しているこちら側の筈だった。けれども、トーマはその状況を覆した。監視されていることを見抜き、かつ、反撃に出た。水晶を破壊するなど、普通は有り得ない。流石のミラボーも、動揺を隠せなかった。
「ありえません、ミラボー様。やはり私が偵察に」
「……いや、行くな」
憤怒の歯軋りを繰り返し、引き攣った笑顔を辛うじて浮かべてミラボーは口を開く。
「ただの時間稼ぎ、微力な抵抗。なに、また、捕らえればよいのだ。どうせ、逃げられんよ。そもそも、向かう先はここだろう、ヒェッヘッヘッヘ」
真っ赤なワインを口の端から滴らせ、嗤う。
グラスの中で、ワインが揺れている。口では余裕を見せたものの、腕が震えていた。それでも、ミラボーは冷静を保とうと必死だった。
「所詮は人の子よ……」
脳は警告音を鳴らしていた。しかし、素直に認めるわけにはいかない。大量にエルフを喰らって魔王へとのし上がった自分と人間などを、どうして並べられよう。額から流れ出る脂汗に気づかないフリをして、ミラボーはワインを煽り続ける。
味など、分からぬというのに。
静かな湖面のような瞳で、エーアはそんなミラボーを見つめていた。
まさかミラボーに目をつけられていたとは知らない一行は、順調に旅を進めていた。
トーマが共に来てくれることになった為、魔法を教えることが楽になり、マダーニは上機嫌である。そもそも、トモハルとミノルではすでに差が出来ている為、同時に教えることが困難だった。また、得意な属性も明確になって来た為、二人に合う魔法を教えたい。
ミノルの性格からして、同年代と組んだ方が、気も楽だろうと判断し、トーマに指導を依頼した。マダーニはトモハルを教える事に専念出来るので、上々である。
「こんの、出来損ない! 何度言ったら解るんだよ大馬鹿勇者! こうだって言ってるだろ!?」
「うっるせーな! もっと解りやすく教えろよ!」
トーマとミノルの罵り合いが始まるが、苦笑いしつつもマダーニは二人のやり取りを口出しせず見守った。一見仲が悪いように見えるが、相性は良さそうだ。数日の内に格段にミノルの魔力は上がった、いや、神経を集中する事に慣れた。すんなりと魔力を操作することが出来始めており、目まぐるしい成長を遂げている。
元々ミノルの能力は高かったようで、トーマは上手に引き出した。
「俺達の世界では、魔法なんて存在しないんだよね」
魔道書を片手に、トモハルが不意に口にする。二人の喧騒など全く気にも留めずに、真面目に勤勉に励む姿に好感がもてる。利巧そうな顔立ちは、裏切らなかった。
「そうなの?」
「うん。もしかしたら……出来る人もいるのかもしれないけれど、大概がインチキ。本物は身を潜めていると俺は思ってる、馴染めないし他人から中傷を受けるから隠れていると思うんだよね」
「なのに、トモハルちゃん達は魔法が使えるようになったわね」
右手に回復魔法の光を灯しながら、トモハルが神妙に頷いた。
「うん……。思うんだけど、こっちの世界と俺達の世界の違いって、自分の能力を発揮できる環境か、そうではないか、だと思うんだ。こっちは知らないけど、俺達の……地球では、人は自分の能力の僅かしか発揮せずに人生を過ごすらしい。開花しやすい状況にあるんじゃないかな、こっちの世界は。だから魔法が使えるって俺は考えたんだけど。俺達だけじゃなくて、誰しもがもしかしたらこの世界なら魔法を使えるのかもしれない」
「トモハルちゃんは、難しい事を考えるのね」
「んー、この間、寝込んでたし。その時に、なんでかな、って。あと、地球に戻ってからも、この能力は使えるのかな、って考えてた。もし使えるなら、この回復魔法があれば多くの人が助けられる。……どうなんだろう」
恥ずかしそうに苦笑いしたトモハルの頭部を、マダーニは優しく撫でた。アサギの次に頭の回転が速いのは、間違いなく彼だと思っている。また、妙に威厳を感じる時があるが、それが勇者の片鱗なのかとも。
トモハルは、回復係が欠落していると踏んで、自ら主力となることを決めた。ほぼ独断で勤勉に励み、成果も出ている。
火炎魔法を得意とするトーマは、ミノルに火炎系の魔法を伝授していた。何時まで同行してくれるのか先が見えないが、育成に関しては乗り気に見える。マダーニは、願わくば魔界にまでついてきて欲しいと思っている。
「そう上手くはいかないだろうけどねぇ」
暫く旅を続け、ジョアン行きの古びた看板がようやく目に飛び込んできた。
瞳に入った瞬間、歓声が上がる。先が見えたことに、安堵した。
『この先分かれ道あり』
立札にはそう書かれていた。真っ直ぐ進めば、ジョアン。左へ進めば、ジョリロシャへと辿り着く。
「ジョリロシャって、ライアンさんの故郷だろ? 寄らなくてもいいの?」
看板の文字は読めないがマダーニが読み上げたことで、トモハルが気遣ってライアンに語りかけた。
トモハルの問いに、ライアンは豪快に笑った。
「故郷と言っても、第二の、な。俺の生まれた村はジョリロシャ近辺の山中だ。魔族に滅ぼされたから、今はもう、何処にもないよ」
一瞬、馬車内に沈黙が訪れる。それは初耳だった、上手く言葉をかけられず、皆は口篭る。マダーニはなんとなく察していたので驚きはしなかったが、それでもやはり口を噤んだ。
沈黙を破ったのは、トーマだ。
「よくある話だよ。小さな村は見向きもされずに助かる場合と、運悪く襲撃を受けて、対抗できる者もおらず、滅ぼされるかの大体どっちかだよ」
「そうだな、運が悪かったんだ。俺だけが、生き残った。ジョリロシャに出向き、どうにか騎士になれたが」
「苦労人だね、ご愁傷様」
「昔のことだ、実際記憶も曖昧でね」
遠慮なくライアンに言葉をかけるトーマは、まだ幼いからなのか、気遣っても過ぎた事実は変わらないと知っているからなのか。
不意に、小雨が振り出した。
トーマが素早く馬車に熱を帯びさせた。小雨程度なら、この魔法で弾くことが出来る。負担がかからないように馬の上部にも張り巡らせているので、順調に進む事が出来た。もし、彼が不在であれば、旅はもっと長引いていただろう。
「本当に、見事ね……」
「褒めて戴けて、光栄です」
「貴方一体、何処で習ったの?」
「おっと、質問には対価が必要だよ?」
これはただの結界魔法ではない。マダーニは低く唸り、雨などもろともしない馬車の中で感嘆した。
トーマは薄く笑い、苦笑しているマダーニを見返す。
雨が、魔法の熱で蒸発していく。ほんわりと暑い馬車内で、マダーニは仮眠をする為横になった。心地良く耳に届く雨音が子守唄の様で、すぐに深い眠りに誘われる。
懸命に魔道書を読み耽っているトモハルとミノルは、干し肉を齧りながら火炎の魔法の復習をしていた。
荷物を整理していたトーマは、先程からトモハルを気にしていた。落ち着きなく身体を小刻みに揺らし、話しかけようか迷っている。荷物を全て床に広げ、片付けては取り出す、を繰り返す。無意味な行動に、頭を掻き毟った。何度か口を開きかけ、舌打ちしては、右手を硬く握り締める。
「あの、さ……」
ようやく、トーマは声を絞り出した。
話しかけられているとは思わず、トモハルは魔道書から目を離さない。ミノルに話しかけているのだと思っていた、顔を上げれば、視線で気づけたが。
「おい、トモハル。トーマが呼んでる」
「え?」
自分が呼ばれたと思い顔を上げたミノルが、トーマの視線の先にトモハルが居たことで気づいた。
きょとんとして顔を上げたトモハルに、トーマは引き攣った笑みを浮かべる。
「……あんたの好きな女の子って、どんな子?」
「ん?」
「なっ!?」
小声だったが、控え目なトーマの声は二人の耳に届いた。
首を傾げたトモハルの隣で、ミノルが赤面する。何を言い出したのかと慌てふためき、結果顔を伏せた。恋愛話は、苦手だった。
そんなミノルを他所にトモハルは腕を組み、真剣に悩むと低く唸って返答する。
「んー、どうかな。アサギみたいな子はイイな、って思うけど。とにかく見た目が可愛いし、性格だって優しいし、頭も良い。欠点が見つからないし、そもそも魅力的」
「アサギ……」
名を呼んだトーマに、トモハルが微笑みながら付け加える。
「そっか、知らないよね。離れ離れになってる、女の子の勇者だよ。とても、可愛い子なんだ」
「説明しなくても、トーマはアサギを知ってんだよ」
魔道書で顔を隠していたが、アサギのこととなると参加せざるを得ない。ミノルは、不貞腐れたように頬を膨らませて苛々し始める。
「え? なんで?」
トモハルの唇から、アサギのことが形容されるのが嫌だった。ミノルは弾かれたように顔を上げると、思わず殴るような勢いで睨みつける。
無論、売られた喧嘩の意味が解らず、トモハルは首を傾げる。
「見たことはないよ、僕は名前を知っているだけだよ」
肩を竦め苛立つミノルを見ながら、トーマはそう言って天井を見上げた。「だから、なんで知ってるの?」と訊き続けるトモハルには答えない。
「……トモハルとアサギは、仲が良いんだ」
ミノルは大きく肩を落とすとそれだけ告げて、ライアンと話す為立ち上がろうとした。こんなことが言いたいわけではない、本当のことだが言いたいことが違う。
わざと、トモハルの口から聞きたくない言葉が出るように仕向けてしまった。
「へぇ、仲良いんだ?」
意外そうにトーマは身を乗り出し、瞳をキラキラさせる。
「うん、まぁ……」
軽く頷いたトモハルだが、首を傾げたままだ。自分の疑問には答えてもらっていない、トーマが何故アサギを知っているのかが、最も重要だというのに。それでも、乞う様な瞳を向けられて、渋々口を開く。
「可愛いよ、すっごくね。頭もいいし、気配りも出来る。存在感があるから、何処へ行っても目立つ。俺とは確かに仲が良いけど、人見知りしないし、交友関係は幅広いよ、人気者だし。あんな子が彼女だったら、って思うよ」
「……案外、両思いなんじゃねーの」
聞きたくないのに、言いたくないのに。ミノルはつい、口を出した。
妙に絡むミノルに、トーマは気付いた。「あぁ、ミノルはアサギに想いを寄せているのか」と。先程からの行動は、トモハルへの嫉妬だろう。なんとなく人間関係が読み解けてきたが、聞きたかったことは違う。そしてミノルの恋心を応援したくとも、鼻で笑ってしまった。“器が違う、無理だ”と。
「好きって、なんだろう?」
魔道書を床に置き、足と腕を組み、トモハルは首を傾げる。怪訝に振り返ったミノルと、視線が交差した。しげしげと幼馴染を眺め、口を開く。
「ミノルは、好きな子いる?」
「は、はぁ?! お、俺はそーいうの関係ないし! 女って好きじゃねーし!」
突如振られ慌てふためくミノルだが、然程興味なさそうにトモハルはすぐに横を向いた。
一人だけ裏返った声で弁解していた事に気づき、赤面したミノルは頭をかいてその場に座り込む。そのような話を、今までトモハルとしたことがない。
「アサギは……確かに可愛いよ。すっごく可愛くて、魅力的だ。でも」
優しい声色に、ミノルが蒼褪める。口内に溜まった唾を、音を立てて飲み込む。
「でも、好きか、と問われると……俺はアサギが好きなのかな。違うと思うんだ」
「は、はぁ!?」
「価値観とか似てるし、一緒に居ると安らぐし、性格も合うけどさ。けど、好きなのかって問われると答えられない」
「ふ、深く考えすぎじゃねーのか、お前……」
二人のやり取りを観察していたトーマは、挑むような目つきでトモハルを凝視した。トモハルの、“向こう側”を観つめる。
……潮時だ。
小さく呟き、肩を竦める。
「だからさ、トーマ。好きな子って、どんな子、って訊かれても……今答えられないかも」
「それは、つまり今好きな子がいないって事でいいの? 好きが解らない?」
「どうだろう……」
黙ってしまったトモハルを、右往左往しつつミノルは見ていた。ミノルは、アサギが好きだった。トモハルも、同じ様にアサギの事を好きだと思っていた。けれど、何故、言わないのか。解らないって、何だろうか。嬉しいのか憎らしいのか、はっきり言わないトモハルに苛立つ。
だが、トモハルには身に覚えのないことだった。
思案している様子のトモハルに、トーマは静かに語りかける。訊きたいことは、アサギの事ではない。
「じゃあ、聞き直すけど。どんな子が好き?」
「どんな子って……可愛い子、かな」
「じゃあ、アサギじゃねーかよ」
ミノルが間入れず、口を挟んだ。自分で『アサギは可愛い』と断言したことに気付いていない。普段なら突っ込むトモハルだが、上の空だ。
「アサギは、可愛いよ。でも、俺……好きなの、かな。ミノルはアサギとどうしたいわけ? 付き合って何がしたい?」
「俺は……手を繋いでぶらぶらしたりとか、一緒にゲームしてぇけど。料理も上手いって聞いたから手料理作ってもらったりとか、さ……って、な、何言わせんだーっ!?」
素直に、口にしてから青褪めて告白まがいの事をした事実に狼狽するミノルだったが、トモハルはやはり聞いていない。わめいている親友を放置し、馬車の布を見つめたまま虚ろな瞳で呟く。
「俺の、好きな……子」
トーマの額が、ぴくり、と引き攣る。囁いたトモハルの様子を見つめながら、そっと荷物に触れた。
「俺の、好きな子は……まだ。いない、よ」
トモハルは薄く微笑み、そう答えを出した。
ミノルは未だに一人で弁解をしていた、誰も聴いていなかったが。
……それが、答えか。
トーマは大きく溜息を吐いた、見当違いだった気もするが、あながち外れていなくもない。
「ただ」
急に、トモハルの口調が変わった。明確な声は、何処か決意を秘めているように思える。
驚いて目を見開いたトーマの前で、トモハルはどこか懐かしそうに愛おしそうに、優しく笑みを絶やさずに語り出す。
「ふわふわの、髪で。気紛れな仔猫みたいな大きな瞳で魅惑的な華奢な身体で、お姫様みたいな女の子。その子が、その子らしくいる為に、傍にいたくて護りたい……。そんな子が、オレの好きな女の子って……あれ? お、俺、何言ってるんだろ」
乾いた声で笑ったトモハルだったが、トーマは今の言葉を待っていた。照れたように苦笑いしているが、何故か懐かしそうに唇に指をあてて何かを思い出すように、静かに微笑む。
『マ』
唇の形がそう動いたのを、トーマは見逃さなかった。
「まぁ、誉めすぎだけど」
喉の奥で笑い、小さくそう呟いたトーマは、瞳を軽く閉じ息を吐いた。瞬きを三回ほどして、一呼吸置いてからさらりと告げる。
「僕、次の分かれ道でバイバイするね」
唐突に言ったので、すっとんきょうな声を出したミノルとトモハル。
その騒々しい声に、マダーニがゆっくりと目を醒ました。
「目的の場所が違うんだ、僕はジョリロシャに行くよ。残念だけど、さ」
手際よく、あれほど散らかしていた荷物を片付ける。そろそろ潮時だと判断した、そもそも、追手ももう来ないだろう。
「そ、そっか……寂しくなるな」
ミノルのあからさまな落胆の声に、トーマはからかうように笑った。
「頑張りなよ、僕が直々に教えたんだ。格段に腕は上がったはずだよ。あ、そうだこれ、あげる」
トーマは徐に、掌サイズの珠をミノルに手渡した。
受け取ったミノルは、しげしげとそれを見つめる。さほど重くはない、綺麗な紅で高価な宝石にも見える。
トーマはマダーニの傍に近寄りながら、不思議そうに眺めていたミノルに声をかけた。
「それは、簡易な魔法球だよ。僕の火炎の魔法が閉じ込めてある。威力的には中の上、危機を感じたら使いなよね」
聴き終える前に、ミノルが歓声を上げる。
「すっげー!」
「一度きりだから、ここぞって時にね。対象物にぶつけると発動するよ、間違えないでよね?」
説明しながら、マダーニにもトーマは手渡した。
「非力なおねーさんには、これを。接近戦になると危ないからさ、一度きりだけど豪腕の加護が付加できる。大男でも投げ飛ばすことが出来るから、敵に攻撃を当てられればこちらの勝ちだろうね」
葉に包まれている粘着力ある白い液体だった、香りはない。これを手に塗って使うらしい、初めて見る代物に目を白黒させるマダーニ。
「馬車のおにーさんには、これね」
これも葉に包まれている粘着力のある液体だった、色は深紅だったが。
「武器に塗ると、火炎の属性になるよ。火炎に弱い敵が出たときに使うと良いよ」
ライアンは丁重に「忝ない」と深く頭を下げ、それを受け取った。魔法が使えず物理攻撃に頼っているので、これは嬉しい代物だ。
最後に、トーマはトモハルに向き直った。
微笑んでいるトモハルに、トーマは無表情で杖を手渡す。
「……回復の杖だよ、一度僕が使ったから残る回数はあと四回くらいだと思う。神経を集中して使うと、人を結界に入れて治癒出来るよ。威力はトモハル次第、詠唱なしでも使えるから危機的状況に陥った時用にね。ちなみに四回使うとどうなるのか知らないけど、とりあえず効果がなくなるだろうから数、忘れないでよ。砕けたり折れたり破裂してくれれば、流石に解るけどさ。爆発はしないと思うけど。瀕死の時に使ったら使えませんでしたーって、ならないようにね」
「へぇ、解った。助かるなぁ、魔王戦には欠かせないだろうね。ありがとう。それにしても、不思議なものを沢山持ってるんだなぁ」
さり気無く、渡す瞬間にトモハルの手にトーマは触れた。
ピイン……。
途端トモハルとトーマは眉を顰めた、静電気が走った。いや、静電気にしては、妙に強い。
「あはは、空気が乾燥してるんだね」
手を引っ込めて苦笑いするトモハルだが、トーマには承知の上だった。痺れた指先を何度か上下に動かし、口角を上げる。
「……じゃ。僕はそろそろ行くよ」
「え、そっかぁ」
「うん、“またね”」
心痛な面持ちのミノル達とは裏腹に、飄々とした様子でトーマは馬車が止まらないうちに降りた。看板の前に立ち、確認する。向かう先は先程口走ってしまった通りジョリロシャだが、実際何処でもよかった。本音はこのまま共にジョアンへ行きたいが“潮時”である。このまま居ては、情が移ってしまう。一緒に、魔界へ行って魔王に挑んでしまう。
恐らく、それは望まれてはいないことだと知っていた。
失墜した様子のミノルが、慌てて馬車から顔を出した。
「ありがとな、色々」
「ん、気にしないでよ。まぁ、また何処かで会えるからさ。多分、数年先くらいになるだろうけど」
軽々しく言ったトーマだが、ミノルは苦笑いしざるを得ない。
「……俺達、この世界の住人じゃないんだ。だから、会えな」
「そんなこと、知ってるってば。でも会えるよ、数年後に」
ミノルの言葉を上から被せ、トーマは断言した。
お前では魔王を倒す旅が数年立っても終わっていない、ということかと、自然にそう捉えてミノルは鼻で笑ったが、トーマは真剣だった。
「その時は、敵かもしれないけど」
真顔でトーマはそう告げる。
本気に取らず、ミノルは笑った。
しかし、トモハルは神妙にトーマを見ている。
その視線に気付いたトーマは肩を竦めると、溜息混じりにトモハルにも告げた。
「……あんたの仔猫は手強いよ、すぐに爪をたてて牙を剥くよ。可愛いとは思うけど、僕は好きじゃないなぁ。正直、物好きだなぁって思う」
「え」
「じゃ! 無事、魔王を討伐できることを願って。まぁ、余裕でしょ」
トーマは笑いながら、それだけ告げると早々に宙に浮かぶ。数週間前会った時の様に、不意に忽然と姿を消した。闇夜の月ではなく、眩しく痛い陽射しの太陽に照らされて。雨は止んでいた、天候が変わりやすい地区なのか晴れ渡った空だった。
別れの挨拶もままならず、トーマは消えた。
馬車から慌てて降りた四人は、唖然と周囲を見渡すが、気配はない。
「俺の……仔猫?」
謎めいた言葉を残されて、トモハルは首を傾げる。先程受け取った杖をしげしげと見つめつつ、「仔猫」と幾度も復唱した。
「ほんっと、謎な子よね」
「でも、悪い奴じゃねーよ」
明らかに落胆しているミノルの肩に手を添えたマダーニは、励ます様に軽く叩いて馬車に乗せた。感傷に浸っている場合ではない、ジョアンは目と鼻の先だ。
馬車の中で、トーマがくれた数々の貴重な品を見つめながらマダーニは瞳を細める。これらの品を所持している人物を、軽く見てはいけない。
「彼の言うこと全てが真実だとしたならば、厄介よね。この先」
嘘はついていないように思える、となると、全面的に味方なのは今回だけだ。身体中から汗が吹き出す、あんな相手とやりあう自信などない。
「夢でも見ていたのかしら」
受け取った品を手にし、マダーニは自嘲気味に笑う。