孤高の氷壁~トビィ・サング・レジョン~
文字数 13,337文字
しかし徐々に森から飛び出してくるその魔物に、勇者達は言葉を失う。
というのも。
「ア、アサギちゃん。私は……無理」
顔面蒼白のユキは馬車の中で眩暈を起こし、その場で倒れこむ。口元を押さえたトモハル、唖然と魔物を見続けるケンイチ、絶叫するミノル。
「野犬の成れの果てです、闇の力で甦った為に腐敗したまま。そうですね……火炎系の魔法が効果的です」
ミシアが淡々と、隣に居たダイキにそう教えた。
辛うじて頷いたダイキであるが、放心状態で言葉を聞き流しただけに過ぎない。
それらはミシアの説明通り、群れで生息していた野犬が餓えや天災で命を落とし、手っ取り早く闇の配下にと甦らせられた魔物である。魂の抜け殻であり、ただ動き回るだけの存在は最も扱いやすく大量生産が可能な為、頻繁に姿を見せる。
早い話ゾンビだ。
よく動けるものだと感心するほどに皮膚が爛れ落ちている魔物や、骨が飛び出しているもの、足が一本足りないものなど容姿は様々だ。ホラー映画のゾンビなど目ではない、CGでも作り物でもない実物が、こうして動き回っている。
勇者らは当然視線を逸らす、凝視していると見たくないものまで見えてしまう。蠢いている様に見える皮膚は、蛆の集合体である。勇者達は嘔吐しそうになった、このままでは犬がトラウマになってしまう。
姿を現した死犬の数は、約十匹。
当然腐敗臭も漂ってくる、蝿も集っている。ただひたすらに、動くものを標的として攻撃するよう使命を与えられている死犬。恐怖など感じない、こちらが叩きのめすまで彼らは攻撃を加えてくるだろう。
「勇者は無理して戦わなくてもいい! みんなは馬を護りつつ、撃退してくれ」
ライアンが剣を引き抜いて飛び降りた、アーサーが代わりに手綱を握りつつ、左手で杖を構え魔法の詠唱に入る。
続々と仲間が馬車から飛び出していく様子を、呆然と眺めている勇者達。なんとかなるよね、と視線を送る勇者の中で、やはりアサギだけが異なる行動を起こす。
剣を片手に、馬車を飛び降りた。
「ちょ、待てアサギ!」
飛び出したアサギに釣られて、トモハルも転げ落ちるように馬車から出た。伝説の剣を右手に、腐敗臭に咳き込みながらアサギの後を追う。
「トモハル、危ないっ!」
「え?」
馬車からケンイチの悲鳴に似た叫び声が発せられる、予想以上に素早い死犬の動きにトモハルの目は追いつかず、左から来た死犬に成す術もない。一直線に向かってきた死犬を唖然と見つめる、脳が身体に動くよう指示を出した時は遅かった。迫り来る恐怖に、トモハルは歯を鳴らして瞳を閉じてしまう。
悲鳴が聞こえる中でトモハルが恐る恐る瞳を開くと、クラフトが銀の杖を死犬に突き立てていた。
「恐れていては、何も始まりません。勇気は買います、ですが、無謀です。戦いの最中は瞳を閉じないでください」
ザシュッ、と間近で音がして杖が死犬から抜かれたと同時に、灰になって消えていく。一度生命を落としたモノに効果的な“聖なる銀”の武器だ、額の汗を拭いながらクラフトは微かに乱れた呼吸をしつつトモハルに振り返った。見た目通り、彼は肉弾戦が得意ではない。
大きく肩で息をしながら、手を差し伸べる。
「焦らずとも良いのです。今は敵に慣れることから始めましょう」
銀の杖を構えながらそう言うクラフトに、トモハルは悔しさで顔を赤く染めながら「ごめんなさい」と謝るより他なかった。しかし、溢れ出そうになった涙を飲み込み、歯を食い縛って前を向く。
震える手の中にある伝説の剣・セントガーディアン。トモハルは力強く、助けを求めて縋るように剣を胸に抱き締めてから、魔法の詠唱を始めた。
杖を回転させ、正面からの敵の攻撃を無効化するクラフトの後ろで、深呼吸で息を整えるとトモハルは電雷の呪文を完成させる。が、敵の動きは想像以上に速く敵に当たらない。
焦って舌打ちするトモハルを宥めながら、クラフトは防御に徹した。トモハルを護りつつ、実戦で呪文の練習をし、能力を伸ばすことにする。
プライドが高く、今まで勝ち組だったトモハルにとっては先程といい今回といい、屈辱的なことばかりである。上手くいかなくて当然だ、しかし本人は納得がいかない。馬車で見ている他の勇者に比べれば、トモハルの動きは大したものだが。現状を認められないトモハルは、自身への怒りで身体を震わせる。目の前の事に集中する、気持ちを落ち着かせる。そうすることで、冷静さを取り戻し本来の自分に戻るのだ。
完璧な自分に、戻る。そうすれば、上手く出来るはずだ、自信が湧くはずだ。
トモハルはゆっくりと剣を構えた、それに気づきクラフトが横に避ける。
「瞳を、開いて」
トモハルが低く、呟いた。
……恐れるな、敵を見極めろ、大丈夫だ、頑張れ俺。
トモハルは、全速力で駆けて来た一匹の死犬を見つめる。確かに怖いが、落ち着いて剣を突き立てることが出来たならば、こちらが勝つ筈だ。
「行くぞっ!」
気合を入れて叫ぶトモハルの隣で、クラフトが万が一に備え魔法詠唱に入った。
死体にしては力強い強脚力で跳ね上がった死犬に、トモハルは掛け声と共に剣を振り被り、そのまま一直線に叩き落した。ピリピリと痺れる感覚が腕に襲い掛かる、が、歯を食いしばってそれに耐え、反動で犬を押し返す。
骨に剣がゴリッ、と当たる。聴き慣れない音がしてから死犬は勢いよく地面に跳ね飛ばされ、そのまま灰化していく。トモハルの所持する剣は、光の属性だ。こういった魔物にはめっぽう強い。
目の前の情景に、全ての神経を弛緩させたトモハルは、掠れた声で呟いた。
「たお、した?」
「はい。一匹撃破ですね」
唖然と風に流されていく灰を見つつ、歓喜とは似つかぬ声を発する。実感は湧いてこないが、確かに倒した。クラフトに肩を叩かれ、身体を大きく跳ね上がらせる。
「この調子で頑張りましょう。トモハル殿は冷静になれば事が上手く運べそうです、先程の呼吸を整える方法はよかったと思いますよ」
「あり、ありがとうございますっ」
伝説の剣が微かに震えている、クラフトは微笑すると杖を再度構え直した。
残る死犬は六匹であった、が、気配に気づき集まってきたのか、先程より多くの死犬に囲まれている。「面倒ですね」小さく呟き、クラフトは他の仲間達の状況を把握する為視線を流した。
道幅が狭いこの場所では、森の木々を配慮し弱点である火の魔法を使うことが好ましくない。馬を護りながらの戦闘は皆不慣れで戸惑っている、という状態だ。クラフトとて、トモハルに細心の注意を張りながらの行動だ、思うように攻撃が出来ない。
「アサギ、アサギは!?」
トモハルが不意にアサギの名を呼ぶ、クラフトも我に返ると周囲に目を走らせた。飛び出した勇者は一人ではなかった。
しかし、それは杞憂である。
マダーニに背を預け、魔法の詠唱をしている姿が目に飛び込んで来た。
馬車の勇者達が固唾を飲んでアサギを見つめる、仲間達も同様に見つめていた。
「闇に打ち勝つ光よ来たれ、慈愛の光を天より降り注ぎ浄化せよ」
気丈な瞳で右手を掲げ、集まってきた死犬達に魔法を詠唱するその姿に釘付けになる。
「あれは!」
クラフトが驚嘆する、その魔法は『邪悪なものにのみ有効な光の魔法』であり、今相手にしている死犬にとっては最大の効果がある。
響き渡る声は心地よく歌うように滑らかだ、何年も前から会得していたようにしか思えない度胸と自信と確信に満ちたその声に、皆が聞き惚れる。
その魔法によって降り注がれた光で、死犬達は一斉に灰化していった。完璧な、光の魔法詠唱である。
しん、と静まり返ったその場の沈黙を破ったのは背後にいたマダーニであり、戸惑いがちにアサギの頭を撫でて笑った。
「よく……完璧に出来たわ。凄い、冗談抜きで」
「良かったです、ちゃんと発動しました。さっき、本で読んでいたから」
無邪気に笑うアサギに、ほっとマダーニは胸を撫で下ろした。愛嬌よくマダーニに飛びついて笑っているアサギを、皆緊張を解き見つめている。
けれど。
不可解だった。何故こうも簡単に敵と対峙できるのか、失敗も恐れもなく行動できるのか。そして、完璧に成功してしまうのか。確かに地球にいた時からアサギは優秀だった、才色兼備だったことは認めよう。
それでも。
「絶対、おかしい。何かある」
ミノルは馬車の隅で膝を抱え、小さく呟き続ける。得心できない、あのトモハルでさえ失敗しているのに、だ。馬車に乗り込んできたアサギを、畏怖の念を籠めて見つめる。見た目の愛らしさも手伝って、何か秘密がある気がしてならなかったが、それも含めてアサギの魅力なのだろうなどと思ってしまう。歓声を上げて褒め称える他の勇者達に混じることも出来ず、一人で唯膝を抱えて蹲る。
褒めたもののマダーニですらも驚愕の出来栄えだった、あまりのことに、背筋が寒くなった。数匹消滅なら理解出来るが、まさかあの場に居た全てを消し去ってしまうとは。よほど、先程の死犬が貧弱だったのか、それとも、アサギの光属性の魔法が強力すぎたのか。
勇者の片鱗がこれほどまでとは、思いもよらない。歓ぶより前に、うすら寒くも感じる。
「さぁ、ようやく洞窟の入口だ」
ライアンの励ますような声に、一行は馬車から顔を出した。
目に飛び込んできたのは看板である。『ここより先ジェノヴァ』弾んだ声で読み上げたアリナに、一先ずの安堵を憶える一行達であった。
最初の目的地に到達出来た為、伸びをしながら馬車を降りる。山一つ分掘ってあるこの洞窟は、看板にツル草が巻きつき、長年からそこに立っている古めかしい雰囲気を醸し出していた。
「ここを抜ければ大都市・ジェノヴァ。そこに着いて今後の方針を再確認する予定だ、あと少し頑張ろうか。洞窟はゆっくり進んでも一時間もあれば通り抜けられる」
馬車二台が擦れ違えるだけの余裕のあるその洞窟は、通行量も多い為道も頑丈に出来ている。神聖城クリストヴァルへの手段が陸路でしかない為、必然的にここを通過せねばならない。無論、ライアンやマダーニ達とて、ここを通過してクリストヴァルへ来た。
「洞窟内は空気も薄い、閉鎖された空間でもあるから今のうちに休息を取る。食事も済ませておこう」
洞窟を前に湧き水で喉を潤し、焚き火を起こして鍋でスープを作る。持ってきた簡単なスパイスに、ライアンが調達してきたキノコ、山菜を投げ込んでから干し肉を入れてコクを出した。
これと小麦粉を水で練って火の中に放り込んでいた石で焼いた、簡素なパンのようなものを腹に入れて、多少はまともな食事にありつくことが出来た勇者達は皆で笑い合う。緊張が解れ、腹が満たされ笑顔が戻って来た。
食事の効果は、絶大だ。
「後はお風呂に入りたいね」
「うん」
「ジェノヴァに到着したら温泉へ行きましょうね。それまでの辛抱よ」
一日は風呂を我慢できるが流石に三日目である、ユキとアサギは不慣れなその環境に簡単に順応出来なかった。全裸で飛び込み、今すぐにでも川で水浴びしたいくらいだ。
しかし、僅かな休憩後、整備された洞窟に足を踏み入れる。興奮気味の勇者達を尻目に、ブジャタがしかめっ面で髭を撫でながら低く呻いた。
「どうしました? 勇者達に合わせましょうよ、あんなに楽しそうですし」
クラフトに声をかけられても、ブジャタは低く呻いたままだった。
洞窟、という響きに子供の冒険心が暴れだす、足を踏み入れて歓喜の声を上げている勇者達を一瞥する。
「腑に落ちん。道中の結界が破られていたのじゃ、この洞窟とて」
「やめてくださいよ」
「行くも帰るも、人間を見ておらん。魔物には二回も出くわしたが、な」
眉間に皺を寄せながら苦虫を潰した様な顔をしてブジャタに同意し、クラフトは最後尾で緊張を走らせる。思ってはいたが、口には出したくなかったのだ。
「洞窟内部も気が抜けない、ということですね」
「無論」
洞窟内部には古来からの魔法のランプが壁に一定間隔で吊るされているので、適度に明るかった。燃料が入っていないランプに、半永久的に火が灯っている代物で非常に便利だ。実は定期的にジェノヴァにクリストヴァルの神官が依頼をして、名の知れた魔法使いがランプに魔力を注入している。
からくりなどはどうでもよく、物珍しそうにランプを見つめつつ馬車に乗って進む者、降りて洞窟内部を胸弾ませ散策している者、様々な行動を取る。はしゃいでいるのは勇者くらいだが。
一方通行であるが故に迷子になる可能性はない、ので安心して勇者達もわらわらと洞窟を走り回った。
アサギとユキは、マダーニにこの世界の話をしてもらっている。
「クレオの神の名は、“クレロ”というの」
「クレロ? ややこしいですね。惑星がクレオですよね?」
「でしょ、ややこしいのよ。クレロが絶対神ね。例外で魔王アレクを崇拝している人間もいるみたいだけど」
顔を顰めたマダーニに、二人が気づくことはない。
マダーニは魔王に傾いだ人間を知っていた。特に親しい間柄ではなかったが、魔王側につけば殺されずに済むと思った人物が突如魔王に忠誠を誓い始めたのだ。街を追放されたため、何処へ行ったのかは不明だが。
「それも、考え方によっては仕方の無いことですよね。生きたかったのだと思います。苦しまない方法がそれしか見つけられなかったんだと思うのです。考え方って十人十色ですし」
アサギが淡々と語る。
時折この子は大人びたことを言うな、とは思っていたがマダーニは一つの行動を悪い、と最初から判断するのではなくどうしてそうなったのかを発言したアサギに衝撃を覚えた。
思想の自由とでもいうのだろうか。
「ところで、クレロってどんなカタチをしているのですか?」
「むかーしの勇者の発言によると、巨大な鳥? みたいな感じ? とかなんとか」
鳥の神様素敵、を連呼し始めるユキを苦笑いしつつマダーニは見つめる。
「鳥っていうか、背中に羽が生えてて。飛び回って私達を見下ろしているんだって。天空にはクレロの城があるんだそーよ。ホントかどうかは知らないけどね」
「きゃー、素敵素敵っ! 空飛ぶお城なんて、感動!」
髪を掻きあげながら、気怠くマダーニは歩き続ける、ユキは変わらず「素敵」を連呼していた。
「まぁ、実際それを見たって人もいないわけで。ただの幻想かもよ」
「……もし。本当に神様がいるのなら、どうして助けてくれないのかな」
ぽつり、とアサギが呟いた。
同感だ、と聞いていた他の勇者達も頷く。
「ボクらもそう思うよ。神のしたことといえば、こうしてアサギ達を勇者としてこの世界へ連れてこられたっていう現実だけ。それも神が行ったことではなく、神が作ったとされている石のおかげ。実際姿を現してもいないし、魔王に対抗出来る人間なんて普通いないっしょ。クラフト曰く、『人間の危機は、人間によって回避すべきだ』ってことらしいけどさー。出来ないことだってあるよねー」
アリナが加わり、アサギの隣に寄り添うと肩に手をまわして歩く。ミシアとムーンも会話に参加しようと、集まってきた。洞窟内は平らなので歩くのも楽だし、このまま喋り続けていればあっという間に出られてしまいそうな気さえしてくる。
「神が直接手を下し魔王をねじ伏せるのではなく、その使途として勇者を遣わしているのでしょうね。やはり私達の世界は、私達人間の手で護るべきものだと思いますから」
「ミシアさんの意見に同意です。人間は恥ずかしいですけれど何かに縋って生きていかなくてはいけない存在です。けれども頼り続けると堕落していくのも事実。神の手で魔王を倒してしまえば人間は神に全部を預けて生活し、堕落してしまうのでしょう。これは神からの試練なのかもしれません」
ふーん、と気のない返答をするアリナは、面白くなさそうな表情をしていた。
「ムーンの星の神はなんて名前?」
「エアリー様です。精霊神・エアリー様。女性神で才色兼備な非の打ち所の無いお方です」
「でも、誰も見たことないんだろー? 誰がそんなこと言い始めたんだろーね」
穏やかに話していたムーンの表情が、アリナの挑発的な意地の悪い台詞に強張った。
「そうですけど、私は信じていますから」
「別にいいけど。ボクはさ、目に見えるものしか信じないから。神に祈って何かイイことあった? 疑いたくならない?」
「有体に言えばそうなりますがっ。私は」
口ごもったムーンに、微かにアリナは反省の色を見せるように苦笑いをした。
沈黙。
見かねて、洞窟内に拍手の音が響き渡る。
「はい、はーい。話題を変えましょ。これから行く街の情報でも話そうかしら」
話を逸らしたのはマダーニだ、緊張の糸が解れた為、互いに顔を見合わせるアサギとユキは胸を撫で下ろす。この緊迫した空気は居心地が悪い、当の本人であるムーンも気まずそうに壁を見つめて歩いている。
「何も出てこないし、この洞窟内は結界が正常に動いているみたいね」
大きく伸びをして、豪快に笑うマダーニにつられて皆も欠伸をしたり伸びをしたりする。
どれくらい歩いたのだろうか、中間地点にまでは到達したのだろうか。
不穏な気配を感じなかった為、不覚にも油断をしていた。
「アサギちゃん、あれ何だろ? 光ってるよ」
不意にユキが右前方に何やら赤く発光する物体を発見し、それが単独ではなく複数であった為に興味を示す。
ユキの手をとってそれを見ようと駆け出すアサギに、馬を連れて歩いていたライアンが首を傾げた。
「そんなもの、来た時あったか?」
隣に居たマダーニにそう問いかけた。
「さぁ? 気にも留めずに歩いてたし。ミシア、記憶ある?」
「急に振らないでよ。私も知らない」
ここまで会話してから顔を見合わせ、不用意に近づくな、と言おうと三人が同時に口を開いた。
が、時既に遅し、である。
目の前を走っていたアサギとユキの姿がふっ、と、まるでシャボン玉が消えるように瞬間的に掻き消えた。呆気にとられ口を開いたまま硬直していた三人に、アーサーが怪訝そうに後ろから声をかけた。
ようやくそこで我に返る。
「ちょっ!? アサギちゃん、ユキちゃん!?」
緊急事態に気づいたアリナとムーン、それに目撃者のミシアが慌てて後を追うかのように走り出したが、やはり皆の目の前で忽然と掻き消えた。
何事かと集まってきた他の一行は、目を白黒し微動だすることが出来なかった。人間が消えるなど、有り得ない。顔を引くつかせながら、マダーニはゆっくりと瞬きを繰り返す。
静寂。
皆の足音が反響しない、聞こえない。
のだが。
「……なんか聞こえる」
ケンイチが隣のダイキを引っ張って耳を澄ませる、何処からか大量の羽音が聞こえてくる。沈黙を破って、徐々に大きくなる羽音は不快だ。
「アサギー!」
大声で喚きだしたトモハルの声を諸共せず、接近してくる羽音に皆は無言で武器を手に取ると攻撃態勢をとった。
「やな雰囲気」
ミノルが頭を掻きながら、初めて戦闘に参加しなければいけないこの状況を呪う。そして、トモハルのようにアサギの身を案じて名を呼べない自分の性格を呪う。
増加していく羽音を聞きながら、消えたメンバーを心配しつつすぐに救出に迎えないこの事態。まるで用意されていたかのような、そんな状況に苦笑いした。「嵌められた、のかな」マダーニが小さく呟いた。
その頃、忽然と姿を消した五人は一緒になって純白の部屋で呆けて座り込んでいた。お互いの顔を見ながら、それでも首を傾げたまま立てない。
状況把握ができていなかった。
沈黙を破ったのはミシアだ、とにかくここで助けを待ちましょう、と一言。
しかしアリナが頭を無造作に掻きつつ、反対する。
「あのさ、ミシア。悪いけどこの洞窟一方通行じゃんね。待ってても来なくね?」
「そうですね、では移動します?」
二人のやり取りを聞き終えたムーンが金切り声で叫ぶ、スカートの裾を掴んでアリナを睨み付けた。
「ここは何処ですの!? 洞窟とは思えないこの風景、私には部屋にしか思えませんがっ」
「落下した感覚があるんだけど。落とし穴に落ちたら部屋があった、みたいなー」
「地下の秘密部屋みたいな、そんな感じかな」
アサギの発言に深く頷いた、アリナとユキ。
「一刻も早く、ここから脱出する方法を考えましょうっ。嫌な予感がします」
それを見ていたムーンが、両手を振り上げて苛立ちながら床に手を叩きつけようとした。
「いてっ」
沈黙。
事態は確実に悪化しつつある、皆暗黙の了解で顔を見合わせる。
今の声、誰のものでもない。
何故ならばそれは、男の声だったからだ。
誰が言うでもなく腕を恐る恐る伸ばすと五人は手を繋ぐ、アサギ、ユキ、アリナ、ムーン、ミシアの順で繋いだ手。ミシアとアサギは繋がない、繋いだら円になってしまう。
「い、今の声出した人っ、返事して」
半ばヤケクソ気味にアリナがそう叫んだ、案の定誰も声を発しない。静寂が訪れるが、遅れて頭上から妙に軽快な声で返答があった。
「俺でーす」
その声を聴いた途端、五人は一斉に立ち上がると全力で走り出した。しっかりと手を繋ぎ、横一列で猛然と駆け出す。純白の中、ひたすら走る。風景が変わらないため走っているのか進んでいるのか、どうなっているのか解らず気味が悪い。身体が動いていないような錯覚すら起こす。
苛立ったアリナは急に立ち止まると、振り返って手を離しその場で構えた。
「逃げても無駄みたいだね、ついてきてるよ」
威嚇するように鋭い気を四方へ向ける、唯々諸々、五人が背をあわせ円になる。
震えるユキを、アサギが励ました。
残念なことに誰一人として武器を所持していなかった、戦闘態勢をとってもあまりにも無防備。身の安泰が保障されていた洞窟だ、馬車の中に置いて来てしまったのだ。アリナだけが武器がなくとも優位に戦うことができる、魔法を発動出来る者が多いが、ムーンは愛用の杖がないと不安定だった。それに守らねばならない勇者が二人いる、体力に自信があるものが、アリナしかいない。
圧倒的に不利な状況だ。
息詰る中、憤りを感じたムーンが叫んだ。
「姿を現しなさい、何者ですか!」
「はーい、ここにいまーす。ちなみに吸血鬼でーす」
拍子抜けするような脱力感のある声、けれども頭上に感じた気配に気がつき、アリナが見上げる。他のメンバーもつられて天井を見た。
自分達の上に覆い被さる形で全身を広げ、にっこりと微笑んでいる男が一人居た。人懐っこそうに見えるのだが、それは余裕の笑みだ。
その男は勝気に鼻で笑うと、アサギの目の前へと降り立ち、満足そうに頷いている。
「こんにちは、若くて可愛いお嬢さん方。お腹が空いたので食べさせてください」
それだけ言うと紫のマントを大きく広げて、目の前のアサギを覆い隠す。
金の髪に、青い瞳、口元から除く光る八重歯、紫のマントに首に赤いリボン。
アリナがアサギの名を呼んだ、がアサギは激痛を伴う耳鳴りに襲われて思わず両手で耳を塞ぐ。反射的に瞳を閉じ、丸くなるように体を縮こませその痛みに耐えた。耳鳴りが徐々に引いていく、五分ほど痛みに堪えていたような気がするのだが、薄れた耳鳴りに小さな溜息を吐き、瞳をゆっくりと開いた。
鼻につく甘い香りに、数回瞬きを繰り返す。洞窟内部には似つかわしくない香りだ、そして明るい室内に目が慣れない。
「大丈夫?」
どこかで聴いた声にアサギは弾かれて顔を上げた、虚ろな瞳でその声の主を見つめる。
知っている人物だった、腑に落ちないが。
「ミノル? なんで? どうしてここにいるの?」
呆然と見つめるアサギの脳内は混乱している、目の前ではミノルが心配そうに自分を覗き込んでいた。先程一瞬見た吸血鬼を名乗る男と同じ服装で、紫のマントを羽織っているが、顔はミノルで間違いない。
ミノルを知っている者が見たら、あまりにも不釣合いな衣装で思わず吹き出すのだろうが、今のアサギはそれどころではなかった。
甘い香りは、ミノルの後方で立ち上っている煙が原因だと分かったのだが、脳が溶けて行くような疲労感と重い感覚に意識が朦朧とする。
思考能力、ほぼ停止である。
「うん、ミノルなんだよ」
指でアサギの髪を弄びながら、間近で悪戯っぽく笑う“ミノルもどき”。面白がるように、優しく魅惑的な声で耳元でそう囁いた。
焦点の合わない瞳のアサギをそっと部屋のソファに座らせると、爪先から全身をくまなく見つめる。うっとりとミノルもどきは八重歯を見せて満足そうに微笑んだ。というより、厭らしい下卑た笑いを見せた。
アサギは、全くミノルもどきの声が耳に入ってこなかった。若干身体が火照っている気すらする、微熱がある様な、寝起きの様な。身体を沈めてしまいたくなる、重力に身を任せる。
ミノルなわけがないのだが、抵抗する意識が消えていく。
「いやー、今日は上玉が手に入った。この子が一番美味しそうかな。俺は好物を先に食べるから、やっぱり今日の馳走はこの子にしよう。……にしても、この子は男の趣味が悪いなぁ」
鼻の下を伸ばしながらアサギを見ていたミノルもどきは、全身鏡に映った自分を見て怪訝に眉を顰める。映った自分の姿に、納得がいかないらしい。
アサギの額に手を置き軽く瞳を閉じると、掌に神経を集中させた。ミノルもどきの顔が、ミノルからトモハル、アーサーへと変化していく。
「どうせ化けるなら美形の男に化けたいよなっ、このアーサーって奴はなかなかの美形だけど。この子はミノルとやらが好きなんだな。趣味悪いなぁ。何がいいんだろ」
このアサギが連れて来られた部屋。
中央にソファ、壁際に巨大なベッド、反対側の壁に銅製のドアが一つ、テーブルには野花が一輪挿ししてあり、食器棚まで置いてある。
浮き立つ足取りでミノルもどきは棚から紅茶の葉を取り出し、お茶の時間を愉しむための用意を始めた。ソファのアサギを締まりない口元で笑みを浮かべて視姦すると、マントを颯爽と脱ぎ去る。木製の紅茶入れに葉は半分ほど入っており、予め用意してあった薪に向けて火の魔法を唱えた。この部屋で吸血鬼は生活していた、湯を沸かすのは日常だ。
落ち着かない雰囲気で、眠っているアサギの髪を撫でる。
「早く紅茶飲みたいなー」
湧き出る唾液を必死に喉に押し込みながら、ミノルもどきはアサギと火にくべられた鍋を交互に見比べる。
と、鼻をヒクつかせる。アサギの左腕は、先程の戦闘でケガをしたのか肌が切れて血が出ていた。固まりつつあるのだが、血の香りにミノルもどきは目を釘付けにしてそこを見つめる。流石吸血鬼だ、反応が過敏である。高鳴る胸の鼓動に理性が保てなくなる、ミノルもどきの大好物の香りが一気に加速を増した。気づいてしまったので、無視できない。
「おいしそー。ちょっと味見を」
ミノルもどきは、ひょいっと、アサギの左腕を丁重に取ると、そっと、傷口に舌を這わせた。舌先を器用に動かし、傷口を確かめるようにゆるゆると動かす。ピクリ、とアサギの身体が動いたが、そのままゆっくりとほぼ凝固している血液を味わう。
このミノルもどき、正体は変身能力のある吸血鬼だった。しかも、変態的な。血走った瞳で少女の腕を咥えている姿は、嫌悪感を抱かずにはいられない。
口に含んでから、驚愕の眼でアサギの顔を見つめる。
「な、なんて美味しいんだ!? 五本、いや、三本の指に入る美味さ! いやいや、一番美味しい、楽園になるという禁断果実の甘味と旨みを凝縮した血液! 素晴らしいっ! 最高級だぞこれはっ」
再度、傷口を嘗め上げる。恍惚の笑みを浮かべ、夢中で傷口を開く勢いで嘗め続ける。
アサギの顔が痛みの為、微かに歪んだ。
「しかし、はて? 何処かで味わったことがある血の味だな。この子、人間だよな? これ、人間の血じゃないような」
ミノルもどき、もとい変態吸血鬼のクーバーは、腑に落ちない様子で顔を上げる。鍋から水蒸気が出ていた、慌てて沸騰した湯を取りに行く。湧いた湯で紅茶を煎れると、ソファに腰掛け紅茶を飲みながらアサギを見つめた。
記憶を辿って、血の味を思い出す。
「……エルフ? あぁ、エルフの血に似てる気がするー。人間の血にしては妙に甘いんだよな、この子」
紅茶の香りと、血の香り、クーバーの脳を刺激する二つの香りに、満足そうに至福の笑みを浮かべる。目の前の獲物は、動かない。逃げることはない、お楽しみはこれからだとばかりに、身体を震わせて喜んだ。
血が美味なことは理解出来たが、それだけではない。見た目も申し分ないほどの極上品だ、クーバーの好みだった。美しい肌からは、花のような香りがする、細長い健康そうな手足がまた素晴らしい。
「血も美味しいけど、身体も美味しそうだよね。我慢できないから、食べちゃおうっ」
ミノルの姿のまま、クーバーはヒョイッ、とアサギを抱えベッドに移動した。優しく寝かせて、覆い被さる。傍から見たら、アサギを襲おうとしているミノルであり、知り合いが見たら卒倒しそうだ。
色欲に溺れた瞳で、うっとりと眠っているアサギに吸い寄せられるように近づいていく。
瞬間、ひゅ、と音がしてクーバーは間抜けな悲鳴を上げた。
「ぐがっ」
「……すぴー」
アサギの右足が蹴りを放ったのだ、偶然にもクーバーの鳩尾にヒットする。夢の中で魔物と戦っているのだろうか、妙に力の入った蹴りである。
「いたたたた……フフ、困った子猫ちゃんだ、この悪戯っこめ。そんな悪い子にはお仕置きだぞ」
気色の悪い台詞を情けない顔で項垂れながら吐かれても、興醒めだ。めげずにクーバーはアサギに忍び寄る。気を取り直して鼻歌交じりに、アサギの衣服に手をかけた。
そこへ。
がちゃん、ぎいいいいいいい……。
想定外の音に、勢いよく反応して振り返る。明らかにドアが開いた音だった。首の骨が軋むほどに、物凄い曲げっぷりでそちらを凝視する。
「な、何奴っ」
部屋と外部の唯一の移動手段であるドアが開いた、ということは何者かが侵入してきたということだ。
ドアが開き、そこに立っていたのは少年と青年の境目の男。絶世の美少年、と言っても過言ではない程の美貌の持ち主だった。どのくらい美形かというと通り過ぎた女性の九割が振り返って、再度魅入ってしまうほど。見事なまでの紫銀の長髪は後ろで一つに結ってあり、濃紫の瞳は全てを見透かす様な鋭い光を放ち、長身でバランスのとれたかなりの美丈夫。額に布が巻いてあり、無表情のその男は無言で部屋を一瞥している。顔立ちは大人びているのだが、歳は十代後半だろう。
男のクーバーが見て、瞬時に敗北を悟る相手である。
更に、その男の背後の剣が妙な冷気を漂わせていた為に、身震いした。しかし、彼の風貌からしてお飾りの剣を所持しているなど有り得ない。
総じて、危険人物と反射的に脳が指令を出す。
狼狽するクーバーに対し、冷静、いや見下すように冷ややか過ぎる視線を浴びせながら訪問者は鼻で笑った。
言葉を発していないのに、威圧感を痛いほどに感じる。「落ち着こう、こいつは人間だ」呟き、唇を噛み締めたクーバーは虚勢を張る。
「な、何者だ! 何処から来たっ」
「見てたろ? このドアから来たんだが」
「ふむむむむむぬぅ!」
しれっ、と言い放たれ低く唸るクーバーに、隠然たる迫力の訪問者は呆れたように深い溜息を吐いた。再度部屋全体を見回していた訪問者は、ベッドに寝かされているアサギに気づく。
「勝手に洞窟を改造し、部屋を造り。何をしているのかと思えば女を連れ込んでいるのか? 淫靡な洞窟になったんだな。この洞窟の行き着く先が神聖城だなんて、笑わせる」
額の布を軽く持ち上げ、挑戦的に笑みを浮かべる訪問者に鳥肌が立つ。無駄の無い鍛えられた身体に、背負っている剣が妙に合っていた。何をしても様になる、悔しいが認めざるを得ない。
本能が啓発する、対峙してはならぬ相手だと。
「な、名は!? 名はなんというっ」
搾り出したクーバーの声が震えていた、目の前にいるのはたかが人間の男である筈なのに、魔族である吸血鬼・クーバーより遥か上の強さを持っている気がして、恐怖で舌が上手く動かない。
訪問者から見て、クーバーは相手にもならなかった。全く力量が感じられず、相手にするほどでもない雑魚だと判断する。関わるのが面倒であったため、肩を竦めた。名前を問われたが答えずに部屋を出ようと踵を返すが、不意に思いとどまる。
ゆっくりと唇を開くと、耳に残る流麗な声で不敵に哂った。
「トビィ。トビィ・サング・レジョン。どうぞ、よろしく?」
訪問者であるトビィは堂々と腕を組んだまま、クーバーを見下ろしていた。
それがまた、悔しいが絵になるなぁと間抜けなクーバーは一瞬思ってしまったのだ。
※2020.7.7 白無地堂安曇様から頂いたトビィのイラストを挿入致しました。
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