外伝4『月影の晩に』33:愛に狂った男
文字数 6,465文字
月影の晩、狂おしく愛おしくアイラを抱いていたトレベレスは行為後も手放さず、髪を撫でながら頬に口付け腕の中から逃がさなかった。
気だるそうに上半身を起こし、傍らの水で喉を潤したアイラは、哀調を含む声を漏らした。
「デズデモーナは、一体何処へ行ったのでしょう。無事でしょうか、とても心配です。賢い馬ですが……」
その憂いを帯びた瞳が、トレベレスの胸を締め付けた。
消えてしまったデズデモーナは、トレベレスが殺そうとして誤って逃がしてしまったのだが、当然そんなことをアイラが知る筈もない。
そ知らぬ振りをしてアイラの肩を優しく抱きながら、トレベレスはしんみりとした声で励ました。多少の罪悪感はあれど、過ぎたことは仕方がない。
「すまない、何かに驚き逃げてしまったとしか。こちらの落ち度だ、アイラから預かっていた大事な馬だったのに、申し訳ない事をした。しかし、利巧な馬だ、きっと無事に戻ってくるよ。だから、そんな悲痛な表情を浮かべないでくれ……」
「はい、無事であると信じています。しかし、トライ様から預かった大事な子なのです。なんとお詫びしたらよいのか」
デズデモーナは、馬だ。馬だが、雄である。今こうして抱いている男が目の前にいるにも関わらず、自分以外の名をアイラが口にすることが、非常に不愉快に思えたトレベレスは歯軋りをした。また、最も嫌悪感を抱く相手であるトライの名も出た。憤懣やるかたないとばかりに、抱いている腕に力が籠もる。無理やりアイラの唇を奪い、強引に押さえつけて再び寝台に押し倒す。
微かな抵抗はしたが、アイラはそれでも身を任せた。すっかり、トレベレスに慣れてしまった。
すぐに身体を震わせ、肌を火照らせ、喘ぎ始めたアイラに安堵し、愉快そうに耳元でそっと、トレベレスは囁いた。
「オレと居る時は、オレ以外の名を口にするな。アイラは、オレのことだけを考えればいい。そうしてくれ、そうでないと嫉妬で狂いそうになる」
「ですが、デズデモーナは」
「まだその名を口にすると? ならばこれ以上考えられないように、身体に教え込まねば」
大きく瞳を開いたアイラを押さえつけ、仕置きだとばかりに激しく抱き続ける。
「えっ、あぁっ!?」
トレベレスは、一切手加減をしなかった。欲望に身を任せ、我武者羅に自分を打ち込み続ける。誰が目の前に居て、誰のおかげで生活しているのかを再確認させるように。自分以外の存在を、全て打ち消したいばかりに。
やがて、気を失い力なく倒れ込んだアイラに、トレベレスは満足してようやく微笑んだ。
「解ったか? アイラには、オレだけ。オレにも、アイラだけ」
傲慢さを隠した甘え声で囁き、力を緩め優しく抱き締める。瞳は閉じず、腕の中にアイラを収めたまま窓を見た。
頼りない月の光を探して、窓を見やる。
トライ。トレベレスと同じ誕生日の、従兄弟である。髪も瞳も色が同じなのは、遠いとはいえ元は同じ一族の者ゆえか。一応は同盟国であり、幼い頃から競争させられるように育てられてきたが、物心ついた時から犬猿の仲だった。全てにおいてそつが無い優秀なトライに嫉妬していたが、それ以外にも腹の中に渦巻く憤怒には理由がある気がしていた。
また、あちらは自分を気にしていない様子で、その態度に癇癪を起したこともあった。
二人は極力、互いの国に招かれようとも、会わない様に勤めてきた。
ラファ―ガ国で顔を合わせてしまったのは、本当に偶然だった。しかも、到着の日取りまで同じとは夢にも思わなかった。それが偶然なのか、ラファーガ国の策略だったのかは今となっては不明だが。
「本当に、忌々しい男だ。いつも、オレの邪魔をする」
吐き棄てる様にそう言うと、アイラを抱く腕に力が籠ってしまう。
ラファーガ国でトライとアイラが寄り添う姿を見かける度に、幾度も嫉妬の念に押し潰されそうになった。だが、こうしてアイラは手に入れた。当然、アイラは処女だった。
「オレが、初めての男。そして無論、最後の男」
それが自分であると知ると、歓喜に打ち震える。腕の中のアイラは、初めて教えられた快楽の虜になっている様子だ。トライに勝ったという優越感も混じり、トレベレスは非常に高揚していた。ここまで他人を愛おしく思う事が出来たのか、と歓喜するほどの相手である。身体の相性も良いのだが、もどかしい甘ったるい感情が心地良い。
初めて知った、これが恋なのだと。その相手がアイラでよかったと、心の奥底から打ち震えた。
……恋など血迷いごとで、オレとは無縁だと思っていたが違ったらしい。
会心の笑顔を見せ、アイラの頬に口付けを落とす。けれども自分が穏やかな生活を欲している事に気づくと、表情が途端に翳る。
こうして、欲しいものは手に入れた。しかし、最大の問題であるマローについて先延ばしにしていては未来に陰りが見える。早急に、策を練らねばならなかった。アイラに疑われず、納得して妹の存在を消さねばならない。
「今となっては、マローが子を孕まなかったことだけが幸いだな」
自嘲気味に、引き攣った笑みを浮かべる。
筋の通った話を作り上げなければならない、トレベレスは幾度もアイラの頬に口付けながら、夜通し思案していた。
翌朝、朝食後にアイラと庭の花畑で横になりながら、トレベレスは語り出した。寝不足故に、顔が腫れぼったく、欠伸を幾度も繰り返してしまう。こうしてアイラに寄り添っていると、面倒事はやはり後回しにして瞳を閉じてしまいたいが、それでは何の解決にもならない。
「本当に、申し訳ないことをしたと悔いている」
「え? ……いかがいたしましたか?」
唐突な謝罪に、アイラは不思議そうに首を傾げてトレベレスを覗き込んだ。昨夜の、寝台での強引な行為についてだろうかと思い出し、赤面する。それくらいしか思いつかなかった。
アイラの頬を撫で、トレベレスは辛そうに語り出す。
「ファンアイク国は、知っての通り強国。そしてマロー姫を気に入り欲したベルガー殿は、傲慢で強欲だった。マロー姫さえ手に入ればよかったのだが、何れ取り返されることを恐れ、あのように卑怯な破壊行動を。オレ達をもてなしてくれた国へ対しての非道な振る舞いは、到底許される事ではない。だが、オレの国はまだまだ弱小。協力要請を拒否していれば、我国が潰された。……仕方なしに苦渋の決断で手を取ったが、騎士達を始めとし罪のない大勢の人の命を奪い、アイラにも苦痛を与えてしまった。謝って済む問題ではないが、心から詫びたい。今更、と思うだろう? 謝罪せねばと毎日悩まされていた、しかし、臆病で卑屈なオレは、アイラに嫌われてしまうのではないかと怯え、躊躇していた。悪かった」
「トレベレス様……」
哀しい鼻声のトレベレスを見つめ、アイラは唇を噛み締める。皆が死んでいく様を、目の前で見てきた。崩落した城の惨劇や、やり場のない怒りを溜め込んだ民達、それらの全てはベルガーとトレベレスが起こした騒乱の為だ。許せない仇である、だが、マローさえ戻れば許そうとアイラは思っていた。
マローは、今も戻っていない。だが目の前の自分より大きな男が、辛そうに俯き、震えながら告白する姿に心を痛めてしまう。大事なミノリとトモハラに傷を負わせたのは、間違いなくトレベレスであることはこの目で観ていた。憎悪を抱いた、あの日を憶えている。決して忘れることは無いだろう。
けれども。
アイラは困惑気味にトレベレスを見つめていたが、恐る恐る問う。
「断っていたら、トレベレス様のお国が、私達と同じ様に?」
「あぁ。……憶測だが、ベルガー殿は全ての国を支配されたいのだろう。現在ですら十分過ぎる大国であるのに、今以上の土地と権力を欲していらっしゃる。だから、マロー姫を取り戻したくとも、上手く事を運べない。最近はオレすらも警戒しており、信頼を失いつつある。本当にアイラ姫にはなんと詫びてよいのか」
「それは、私がトレベレス様を頼り、マローを調べていただいているからですか? 裏切られたかもしれないと、疑心されているのでしょうか」
「それもあるだろう……いや、最初からオレすらも眼中になかったのかもしれない。確かに、マロー姫さえ手に入ってしまえば、オレは用済みだろうから」
重々しく深く頷いたトレベレスに、アイラは顔色を変えてぎゅっと自分の腕を掴んだ。
「あぁ、どうしましょう! 私、ベルガー様がそんなにも恐ろしい方だなんて思いもしなかったのです。トレベレス様の立場が危うくなっているだなんてっ。も、申し訳ございません」
アイラは、悲鳴に近い声を上げて泣きそうな程瞳を潤ませた。迷惑がかかっているなど、微塵も考えなかった。マローの事だけを思った為だ、自分の愚行に茫然として虚脱の状態となる。
俯いて震えているアイラの髪に指を通し弄ぶトレベレスは、酷薄な笑みを浮かべた。
……オレの演技も、満更ではないな。
まんまと、騙されたアイラを見下ろす。だが、いつまでもふやけた表情ではいられない。唇を真横に結び直し、口角を下げて険しい表情に戻す。演技せねばならなかった。 切なそうに眉間に皺を寄せ、正面から抱き締める。驚いて顔を上げたアイラを、花畑に押し倒した。
「オレのことを、嫌いになったか? 卑屈で小さな男だと?」
唇に指を這わせ、軽く身動ぎし赤面したアイラに顔を近づける。
「嫌いになるな、オレはアイラがいないと生きていけない。必ずマロー姫を救出してみせるから、離れないでくれ。こんなオレを赦してくれとは言えないが、愛したままでいてくれ。身勝手な願いだが、今一度愛していると言ってくれないか」
熱っぽいトレベレスの吐息と視線の前では、アイラは抗う事などできなかった。
「私はトレベレス様を……その、愛しております」
アイラはそう告げ、瞳を閉じて頷いた。安堵の溜息が頬に触れるのを感じると、胸を撫で下ろす。どんな理由が有れども、トレベレスを嫌いになどなれるわけがない。王子として、自国を思っての断腸の決断であったと信じ、あの日の愚行を心に止めようと誓った。仇であれども、今は国よりもこの男が愛しいと思ってしまう。アイラは姫であり、トレベレスは王子である。国を護りたい気持ちは、痛い程解る。誰が死んで、誰が生き残れば良いという話でもない。
……私の方が、罪だわ。でも、トレベレス様がとても好きなんだもの。一緒に居たいと願ってしまうんだもの。なんて、浅ましい子!
アイラはトレベレスと同じ様に愛していた。四六時中、腕の中にいないと不安だった。体温がとても心地良く、胸が高鳴って苦しいが甘くもあって、吸い寄せられ離れられない。いつから自覚したのだろうか、おそらくはこの感情こそが“好き”なのだと、これが“恋”なのだと思っていた。
そっとアイラが瞳を開けば、唇が合わさる。眩暈がするような花の香りに包まれて、二人は今日も愛しく切なく、口付けを交わす。
アイラを騙しているトレベレスの胸が、多少は痛んだ。だが、こうでも言わないと他に手立てがない。ベルガーには申し訳ないが、悪役にまわってもらうことにした。一筋縄ではいかないが、もう後には引けない。
マローには、手っ取り早く死んで貰う事にした。アイラが悲しみに打ちひしがれることは必然だが、要は自分が支えれば良いだけのこと。トレベレス以外に頼れる人物がいなくなる為、必然的に去ろうなどとは考えなくなるだろう。
近いうちに、自殺を装ってマローを殺害するべくトレベレスは腹を括った。全ては、アイラと共に居たいが為だ。ベルガーに囲われたマローは精神を煩い、自殺してしまったと告げる手筈である。
ベルガーにも、マローは自殺をしたと思わせるしかないが、それが難関だ。火急速やかに事を運ばねば、露見してしまうやもしれない。毒など幽閉先にはないので、突き落とし、飛び降り自殺に見せかけることとした。怪しむやも知れないが、切り抜けるしかない。
トライとリュイ王子が攻めて来ることも確実だが、それは後にまわした。最悪、アイラを連れて二人で逃亡すればよいだけのことだと楽観視している。露出しているアイラの肌に舌を這わせながら、トレベレスはそんな事を考えていた。あと少しで、理想郷に辿り着ける。望んでいた未来が、手を伸ばした先で待っている。失敗しなければ、あと一歩なのだと。『頼むから間違えないでくれ』と、耳元で誰かが叫び続けている。
「誓ってくれ、アイラ」
空の下の為、極力声を抑え唇を噛締めていたアイラは、真剣なその声に力を抜いた。
「例えマロー姫が戻り、ラファーガ国へ戻らねばならなくなったとしても。アイラはオレの傍に、残ってくれ。マロー姫がアイラを愛していることとて、知っている。一緒に居たがるのも、解っている。だが、誓ってくれ。マロー姫に求められても、オレの傍から離れない、と」
「で、でも、一緒にラファーガへ戻らないと。一度くらいは、良いでしょうか? 必ずトレベレス様の元へ帰りますから」
「それでは駄目だ! この場で誓えないのなら、マロー姫を捜すことを止める!」
怒気を含んだ声でそう告げられたアイラは、驚愕の瞳でトレベレスを見つめ返した。余裕がなく、怒り狂っている姿に、唖然とする。
アイラの両腕を頭上で片手で押さえつけたトレベレスは、頬を優しく撫でながら激しい口調で叫ぶように再度脅迫をする。
「誓え」
「で、でも」
狼狽するアイラに歯を剥き出し、睨みを利かせた。
「マロー姫より、オレの方がアイラを欲している! アイラが居なくなるのなら、オレはマロー姫をベルガー殿から取り戻すなど愚かな事はしない」
こんな要求が来るとは思いもしなかった。アイラは、答えを出すことが出来ずに縮こまる。瞳を外そうとしたが、外すことなど出来なかった。確かに、国にはマローが居れば十分だ。それは重々承知している。トモハラとミノリが、戻ったマローを護り抜くだろう。となると、自分は不要であるとも解っている。民に自分は嫌われているようだった、自分の居場所など自国にはないとも知っていた。
アイラは、唇を噛締める。トレベレスの言葉に、頷いてもよい気がしている。ここにいるのが、最善であるとも思い出していた。何より、居たいと思ってしまった。
しかし、時にはマローに会いたいと思う。
「マローには、会えますよね? あの子が、私を必要だと言ったら……」
「それでも駄目だ! アイラは、オレから離れるな。でないと、マロー姫には会わせない」
「そ、それでは、約束が違うのです」
「気が変わったんだ、誓ってくれアイラ」
トレベレスに引く様子など、なかった。一向に答えを出さないアイラに痺れを切らし、歯痒くて脅すように唇を奪う。
それでも、アイラは葛藤し、涙目でトレベレスを見つめるばかりだ。女として、トレベレスをとるのか。それとも、一国の姫として一度は離れるべきなのか。
「オレは、考えを変えない。返事を、待つ。いつまでも、待つ。誓いの言葉を待つ」
低い声で、そう耳元で囁く。
どのみち、マローは殺害する。だから、アイラがマローに会うことは今後一度もない。だが、自分が手にかけたのだと思われないように、疑わないようにしなければならなかった。助ける気だった、助けに行ったら死んでいた……そう思い込ませるしかない。マローの仇をとろうとするだろうが、それは閉じ込めてでも止める。
邪魔なものは、一つずつ確実に消していく。全ては、アイラを手放さない為に。
「オレは今度こそ、欲しいものを手に入れる。立ち塞がるものは、排除する」