魔王と勇者、出会いの先に 後編

文字数 10,296文字

 ベッドの上で低く呻きながら身悶えしているハイの顔には、苦しみがシワや歪みとして浮かんでいる。
 額に浮かぶ汗をタオルで拭うアサギの表情も、憂苦に満ちていた。
 その横では、不貞腐れたリュウが隣に座っている。嘆息を繰り返し、頭を掻きながら舌打ちをしていた。苛立っているのは、寝込んでしまったハイにではない。自分にだ。まさかハイにここまでの精神的苦痛を与えるとは思っていなかったので、軽率な行動を反省している。
 ハイがショックで倒れてから、一体どれほどの時間が経過したのか。悪戯好きのリュウではあるが、流石にこの状況が悪戯ではすまない事ぐらい理解していた。
 ハイは、悪夢に魘されていた。
 アサギに好意を寄せていることは、最早公然の秘密。嫁とまではいかなくとも、恋人になれたらな、いやそれすらも烏滸がましい、今後も懇意な間柄であればと仄かに期待していた。しかし、いきなり嫁宣言をされてしまっては、一体どのような顔をしてアサギと向かえばよいのか。

『どうして嫁なんですか、私』

 と、アサギにあの大きな瞳で問いかけられた場合、どうすれば良いのだろうか。なんと答えれば難を逃れられるのか、リュウの冗談であるにしろ、不信感の払拭は難しい。
 ハイは夢の中で懸命に弁解した。しかし、どう返答しても、アサギは自分の前から去っていく。待ってくれ、と手を伸ばしても、アサギは振り向かずに消えていく。暗闇の中、光が自分から離れて行き、静寂と暗黒が支配する世界へ取り残される。遠くなっていく光を必死で追い求めたが、どれだけ走っても追いつけない。
 魘されるハイを、懸命に水に浸した布で看病しているアサギはそんなこと露知らず。そもそも、アサギは先程のリュウの発言を全く気にしていなかった。ハイがそこまで考え込む必要など、どこにもない。
 それはそれで、ハイには気の毒だが。

「大丈夫でしょうか、ハイ様」

 甲斐甲斐しく世話をしているアサギを横目で見つめ、リュウは「役得だなぁ」とぼやく。
 アサギはこう考えていた。勇者としてここに滞在する為に、カモフラージュで嫁、という肩書きがついたのではないかと。それが自然である。
 看病するアサギの後ろで、椅子から立ち上がり困ったように何をするでもなく部屋を徘徊するリュウ。見舞いに来たものの、特に何もすることがないので立ち尽くしているアレク。
 魔王が三人、揃いも揃って駄目男っぷりを発揮している。
 時は既に、月が顔を出し、辺りを闇に覆う刻である。部屋をぐるぐると回り、たまに椅子に腰掛けて首を捻り、意味もなく部屋の中央で踊ったりもしていたリュウだが、やがて名案が浮かんだらしく嬉しそうに掌を叩いた。名案、というよりかは悪知恵、悪巧みが閃いたらしい。この状況を打破出来ることは間違いなかったが。
 きょろきょろと周囲を見渡し、わざとらしく大声で叫ぶ。

「もうこんな時間なのだぐー、起きないハイは放置して三人で夕飯食べようなのだぐ。そうしようなのだぐー、腹ぺこりだぐー」

 そうだ、そうだ! と、リュウ自身が返事をする。
 無意味にアレクに微笑みかけ、アサギの隣に立ち肩にそっと手を置く。
 しかし、アサギは申し訳なさそうに見上げ、ハイの看病を続ける為に丁重に断ろうとした。
 その時である。

「くおらぁ、リュウ! 人が倒れている間にアサギを誘うとは、なんたる非常識な事をっ! 私を置いてとか、どういう神経をしているんだ貴様はっ」

 床に臥せっていた、瀕死の状態であったハイであるが、勢い良く飛び起きた。布団を投げ飛ばし、額に添えられていた布をきつく握り締めながら、リュウを恐ろしい形相で睨み付ける。
 とても元気そうだ。
 リュウはにこやかに手を振ると、可愛らしく小首を傾げる。

「あは、おはよーなのだぐ」
「おはよー、ではない! 大体貴様はっ」

 しかし、その勢いは何処へやら、脇にいたアサギを視界に入れた途端にハイは床に落ちた布団を拾い上げて再びベッドに潜りこんでいった。つつかれて殻に戻った、蝸牛のごとく。

「ハイ様! 大丈夫ですか? 何処か痛いですか?」

 再び布団人間と化したハイをアサギは揺さ振るが、返事はない。
 けれども、「私はアサギに会わせる顔がないんだ……」と、低く、くぐもった涙声のハイの声が布団から聴こえてきた。先程の悪夢が、甦る。不安で仕方がない、こんなおぞましく陰鬱な気持ちは初めてだ。 
 確かに、無理やり連れてきて嫁ともなれば、普通は激怒するだろう。そう、普通の娘であったならば。しかし、相手はアサギだ。
 ハイの心臓は爆発寸前、イヴァン全土を巻き込むほどの凄まじい威力。先程のハイの声は弱々しく季節外れの蚊のようだが、心臓の音だけは大きい。我が物顔で生きてきた彼が痛感した、生まれて初めての底なしの孤独感と絶望。
 遥か遠い上空に瞬時に移動し、そこから真っ逆様に落下しつつ、世界は地震と火山の噴火、隕石の衝突で崩壊し、その様を見つめながら自分は空中分解……というような感覚。大袈裟だが、本人はいたって真面目だ。アサギに何か口を開かれたら人生が終わる気がしていた。ハイは、布団を被ったまま断固、出ない姿勢である。
 非常に脆弱な魔王である。臆病だという事は理解したが、度を越えている。「軽い冗談だ」で済ませば良い。だが、ハイの性分からするとそれが出来なかった。
 部屋が沈黙に包まれ、気まずい空気が流れる。

「あの、ハイ様。私、何かしましたか?」
「アサギは何も悪い事などしていない、私が全ての原因の発端だ、元凶なのだ……あああああああああああああああああああああああああああああ」

 わけが解らず、アサギは俯いて布団を擦っている。まさかそんなことで悩んでいるとは知らないので、自分に会いたがらないハイに、不安になってきた。
 リュウとアレクは互いに顔を見合わせて小さな溜息を漏らす、客観的に見ている二人には、ハイとアサギの考えが手に取るように解った。
 無表情で、アレクはそんな二人を見つめていた。感情が全く読み取る事ができない、その表情の奥に隠されたアレクの思いを今はまだ、この場の誰も知らず。
 緊迫感のない欠伸を一つしたリュウは本当に空腹だったので、勝手に焼き菓子を貪っている。
 それでも律儀に部屋を出ていかない二人の魔王。
 ハイは、布団の中で猫のように丸くなりながら「嫌われたらどうしよう、自殺しよう」と、そればかりを考えている。しかし、このまま布団の中で一生を過ごすわけにもいかない、当たって砕けろ、意を決して飛び出すべきだ。しかし、行動に移すことが出来ない。震える身体、次々に浮かんでは消える最悪な映像。繰り返し、繰り返し、同じものを観ている。眠っているような、醒めているような、不思議な感覚。深い闇に堕ちて行く、ふわっと、突如浮かび上がりながら、どこまでも底がない闇を落下していく感覚。
 それを幾度も、繰り返し。

 暫くして、ハイは瞳を擦りながら暗い布団の中で目を覚ました。どうやら、本当に眠ってしまったようだ、考え疲れたのだろう。麻痺していた腕で上半身を辛うじて起し、布団から這い出る。深い溜息を一つ零し、カーテンに遮断され月の光すら届かない室内を見渡す。
 間近で、寝息が聞こえる。
 恐る恐る腰を折って顔を寄せ、必死に瞳を擦って凝視すれば。
 すーすーすー……。
 こんな可憐な寝息を立てる人物など、ハイの周囲に一人しかいない。間違ってもリュウではない、アサギである。
 看病していたアサギは、いつしか眠気に襲われて、あのドレス姿のまま眠っていた。今宵は普段よりも気温が低く、露出した肩が寒そうである。
 戸惑いがちに触れたハイは、その冷たさに息を飲んだ。暗闇に慣れて来た瞳でアサギを優しく抱き抱えると、そっとベッドに寝かせ布団をかけてやる。
 アサギが微かに笑って、唇を動かす。

「ハイ様」

 聞き取るために唇に耳を寄せたハイは、呼ばれた自分の名に耳を疑った。起こさぬ様細心の注意を払って、震える手でアサギの髪を撫でる。
 不意にドアをノックする音が、ハイの耳に届いた。控え目な音は、気遣いの証拠。徐に立ち上がりドアに歩み寄ると、ハイは一瞬表情を曇らせた。恐らく、ドアの向こうに居るのは“あの男”だろう。しかし、油断は出来ない。アサギの存在が魔族の多くに知られてしまった、あの場にいたのは勇者を敵視していない魔族達のみだった。だが、そんなものは信用出来ない。“勇者抹殺を目論む者”ならば、躊躇せずにこの部屋に来るだろう。例えこうして、魔王が護衛についていようとも。あのリュウの傍迷惑な召集のお蔭で、アサギは危険な状態に曝されてしまった。
 アサギは魔族ではない、人間だ。
 ハイとて人間だが惑星ハンニバルにて魔族や魔物を統治し、悪霊を使役し破壊と虐殺を行い、破滅の象徴として君臨していた。絶対的な権力、畏怖の念を抱かせる威圧感。残酷無慈悲で、冷酷非道。
 だからこそ、人間でありながら魔族達と肩を並べてこうして優雅に暮らしているのである。
 人間でありながら、魔王なのだから。
 しかし、アサギは人間であり、勇者だ。
 ここは魔界、魔族の住まう土地。勇者とは、敵対関係にある場所である。命を狙われないほうが、おかしいというものだ。そもそもハイとてほんの数週間前は勇者を探し出し、抹殺するつもりだった。
 狼の群れに放たれた、生まれたての子羊のごとく。餓えたライオンの折の中に投げ込まれた、ウサギのごとく。勇者といえども、まさか全ての魔族達を相手に、一人で立ち回りが出来るとは思えない。
 億劫なまま、再び叩かれたドアに怪訝に目を向ける。現時点で何者かがアサギを狙ってきたのであるならば、自分が返り討ちに出来る。仮にも魔王なのだから、どんな相手が来ようとも、退けられる自信は当然ある。ただ、アサギを起したくなかった。
 ハイは躊躇いつつ、ドアを多少開いた。ドアから、強烈なランプの光が差し込んできた。瞳が痛く、瞑りかけたが、敵だとすると非常に危険だ。ハイは抉られるような光の痛みを堪えつつ、大きく瞼を開いて相手を見た。

「リュウか」

 予想通りの顔が、そこに浮かび上がる。その後ろにアレクも控えていたので、ハイはドアを半分ほど開いた。ランプの明かりで、アサギが起きてしまわない様に、という配慮である。

「ハイ……落ち着いたようだな」

 アレクの柔らかな声に、素直にハイは頷く。
 リュウも微笑んだ、何時ものような悪巧みの厭らしい笑いではなく、純粋に穏やかに。しー、と指先を口元に当てて、アサギを見つめながら語る。

「あのね、ハイ。アサギは何も食べずに、ずっとハイの傍に居てくれたのだぐー。食事に誘ったんだけど、ここにいる、って。私たちはさ、先に少し食べさせてもらったのだぐ」
「なんと、アサギが……」

 申し訳なさそうに顔を歪めて振り返ったハイは、寝息を立てて眠っているアサギを眺めた。

「ごめんなのだぐ、ちょっと調子に乗りすぎたのだぐー。謝るぐ」

 と、頭を下げようとしたリュウを、ハイが制する。
 代わりにハイが、深々と頭を二人に下げた。
 その態度に、微かにアレクは眉を顰めたが、それも一瞬だ。再びそんな素振りなど見せぬように、ハイを見つめる。

「いや……私も悪い。恐れず、きちんとアサギに説明すべきだった。嫌われてしまったのではないかと、杞憂していた。久しく“怖れる”という感覚を忘れていたよ、面目ない」

 リュウとアレクは顔を見合わせ互いに頷き、小さく笑うと肩を竦める。

「食事、作らせておいたぐーよ。夜更けだけど何か腹には入れたほうが良いと思ったのだぐ。アサギも起してあげるぐ、皆で庭で待ってるから後から来るんだぐ」

 耳元で「しっかり、なのだぐー」そう付け加えると、リュウとアレクは静かに去っていった。残らなかったのは、ハイへの配慮だ。二人きりのほうが説明もしやすかろう、と判断した。
 ハイは頷き、二人を見送ると手馴れた動作で自室のランプを燈す。息を大きく飲み込んでから、やや躊躇してアサギを揺さ振った。光で目を痛めるといけないので、ランプは遠ざけた。
 熟睡しているのに起すのも可哀想な気がしたが、今ならば今日の魔族会議でのこと、そして先程の自分の態度を素直に謝罪し、説明出来そうだった。明日には、その勇気がなくなってしまいそうな気がした。
 やがて、ゆっくりと重い瞼を何度か動かし、アサギは瞳を開く。

「ハイ……さ、ま?」

 寝ぼけ眼で瞳を擦りながら、アサギは小さく伸びをして起き上がる。

「あぁ、そうだよ。おはよう」

 軽く頭を撫でながらそう告げたハイの声は、柔らかだ。
 安心したアサギはようやく会話が出来た事に喜び、嬉しそうにハイの胸にもたれて再び目を閉じる。
 微かに赤面したハイだが、ぎこちなく頭を撫でる。どうやら嫌われているわけではないらしいことに気づき、静かに、それでいて晴れ渡る空の澄み切った明るい声で語る。

「心配を、かけてしまったな」

 その言葉だけで、アサギには十分だった。
 見上げて笑うと、謝罪しようとしたハイの唇をそっと指で押さえる。驚いて微かに赤面したハイに、くすくす、とアサギは明るく笑うとお腹を擦った。お腹が空いた、と言いたいのだろう。
 稀に、突如として色香のある仕草をする子だ、とハイは思わず跳ね上がった胸を紛らわすように慌てて言葉を発する。

「行こうか、リュウとアレクが食事を用意してくれたそうだよ」
「私、お腹ぺこぺこです!」

 くすぐったそうに笑う二人の間を、風が吹き抜ける。空気の入れ替えで開いた窓から入り込んだ風は、憂鬱な空気を消し去ってくれる。雲隠れしていた月が顔を出し、部屋に光を届ける。星々も、夜の空に燦然と輝いていた。
 庭への階段を下りながら、ハイは心地良い空気の中に混じっている胡蝶蘭の香りを嗅いだ。恐ろしいほど、至福の時だ。アサギに出逢ってから、不愉快な事がない。辛い事も逆転してしまう。無理やり攫い魔界に閉じ込めてしまったが、アサギは全て知っていたかのように受け入れ、皆に同じ様に優しく振舞っている。勇者とは、誰にでも同じように接するものなのだな、とハイは小さなアサギを見下ろし感嘆した。

 それは、違う。そうでは、ない。だが、ハイには解らない。解かる筈もない。

 庭に辿り着くと、簡易だが歓迎会場が設置されていた。目に入った瞬間にアサギは歓声を上げてハイの手を引いて走り出していた、この辺りの無邪気さはやはり子供だ。庭の大きな木に、丸い虹色の光が幾つも瞬いており、純白のテーブルクロスの上には水に浮かべた蝋燭と共に食事が並べられていた。リュウ、そしてアレクが手を振っている。
 アサギが手を振り返すと、控えていた他の者達が一斉に頭を下げた。

「初めまして、アサギ様」

 見慣れない四人の魔族がいたので、アサギは微かに戸惑ったが慌てて礼を返す。
 スリザ、アイセル、ホーチミン、サイゴンの四人は、人は多いほうが賑わって良いだろうと、リュウがアレクに選抜してもらった。彼らは眠りに就いていたが、叩き起こしたのである。
 熟睡していた四人だが、目覚めは爽快だ。魔王直々の命令でもあり、断れないことは確かだが、何より興味対象の勇者アサギに会えるのだから当然だ。
 すらりとした女性が一歩前に出て、会釈をする。凛々しく、軽快な短髪の黒髪が良く似合う美女である。どことなく中性的な雰囲気は、海外のトップモデルを彷彿とさせ、アサギはどぎまぎした。

「私はスリザと申します。魔族らを率いて、アレク様にお仕えしております。宜しくお願い致します」

 濃紺の長髪に、緑の肌、漆黒の瞳の長身の男が次にアサギの前に出る。

「俺はサイゴンと申します。スリザ隊長の部下として、アレク様にお仕えしております。剣士です、ご用命があれば、なんなりと」

 見事な金髪、濃藍の瞳に細身の長身、ハリウッド女優のような美女が穏やかに微笑んで会釈をする。

「私は、ホーチミンです。魔術師なの、宜しくお願いしますね」

 そして、魔族会議で視線が交差した黄緑の肩までの髪に、額に角を象った飾りをつけた濃緑の瞳の青年だ。

「アイセルと申します。武術師です、サイゴンとは親友です。宜しくお願いします」

 二人の視線が交差した、アサギは穏やかに微笑んでいたが、アイセルは瞬間地面に突っ伏してしまう。血液が逆流した気がした、鳥肌が止まらない。驚いた周囲に我に返ったアイセルは、一瞬の間の後、豪快に笑いながら頭を掻いて起き上がる。

「いやーすみません、丁寧な言葉は苦手でしてー。何より、あまりの美しさに身体がついつい反応を。思わず平伏してしまいました。目が潰れる様な美しさですね!」

 豪快に馬鹿笑いをしつつ、ボリボリと音を立てながら頭を掻くアイセルに、スリザの肘鉄が容赦なく叩き込まれる。低く呻いてよろけたアイセルは、ふらついた足取りでアサギの前へと辿り着くとにこやかに笑った。きょとん、としているアサギに右手を差し出す。
 アサギが不思議そうにその手を見ると、その瞬間手品の様に深紅の薔薇の花が一輪飛び出してきた。
 感嘆の声を上げたアサギに、アイセルは薔薇をその黒髪に挿して微笑む。

「棘は抜いてあるから大丈夫ですよ、でないとオレが怪我しますから。……あぁ、その艶めかしい黒髪に良くお似合いだ」
「わぁ、ありがとうございます」

 拍手して零れ落ちるほどの笑顔を浮かべたアサギに、アイセルはつられて微笑んだ。けれども、一瞬瞳を細めて鋭い眼光で挑むように見つめる。
 気付いた者は、アレクだけ。しかし、そ知らぬ振りをして静かに視線を外した。
 部下達の自己紹介が終わったので、ようやく佇んでいた魔王アレクがアサギへと近寄る。皆に、緊張が走った。
 スリザは、固く拳を握り締める。
 サイゴンは、背筋を伝う冷や汗に唇を噛締める。
 ホーチミンは、手から吹き出る汗を衣服でそっと拭った。
 見事なまでの銀髪、神秘的な月を連想させるその長い髪に、紅玉の様な眩く光を放つ怜悧な瞳。整った顔立ちの魔王アレクは、静かに目の前の小さな勇者を見下ろした。
 途轍もなく綺麗な男の人だ、とアサギは思った。トビィも美形だがまた違った凄みがある。ハイとリュウも整った顔立ちだが、二人よりも更に気高く秀麗な雰囲気である。“魔王”という肩書きが最も似合う方だと、思った。

「初めまして……私は、アレク。名前くらいならば聞いたことがあるだろうか、惑星クレオの勇者よ」

 風の様に澄み切った空気に良く通る声で、アレクは告げる。思ったより高音だ。
 アサギは小さく頷くと、口元に笑みを浮かべてこう答えた。

「初めまして、アサギです。魔王アレク様……私の、敵ですよね。恐らく、召喚された元凶」

 深くお辞儀をしたアサギは、顔を上げると真っ直ぐにアレクを見つめ続けている。
 まさか、“敵”だなんて言うとは思わなかったと、リュウは思わず口笛を吹いた。
 ハイがリュウを殴りつけ、唇を噛締めると二人を見守る。
 正統なる魔王アレクと、正統なる勇者アサギが対峙している。互いに、敵である。……一般論ならば、だが。
 沈黙しているアレクに、アサギは続けた。

「惑星クレオの魔王アレク様。多分、私の敵という立場なのだと思います、というか、そう思っていました。魔王と勇者って、対立しているものだと思っていたので。なので、質問させてください。『貴方は、私の敵ですか?』」

 大きな瞳で躊躇せず訊いてきたアサギに、多少アレクは面食らった。まさか、そのような質問がくるとは思わなかった。唇を舌で湿らせ、挑むように見据える。口を開きかけたが、ふと、アサギの瞳が黒ではないことに気がついた。

「緑……新緑の、娘」

 ぼそり、と呟いたアレクに、弾かれたようにアイセルがアサギを凝視する。アサギの髪も、瞳も漆黒だ。美しい、鴉の濡れ羽色である。
 しかし。
 月と星、天上の光に照らし出されて不思議と、アサギの髪と瞳が……緑に見えた。

「お前が敵だと思うのならば、私はお前の敵なのだろう」

 静かに、アレクはそう告げた。
 瞬間、その場にいた全員の背筋を、何かが走った。ぞわり、とした感覚に、身体を引き攣らせる。皆、息を殺してアサギの返事を待つ。

「……では、敵ではないのだと思います。改めて初めまして、私はアサギです。ハイ様と仲良しのアレク様、よろしくお願いします」

 落ち着いた朗らかな、声だった。
 一瞬にして、柔らかな日差しの太陽がそこに出現したかのような空気に包まれた。まどろみを誘う暖かな陽射し、若葉の香る草原で、見事な大木の木陰で皆で一休みしているかのような。そんな空気が、間違いなくそこには出現した。アサギの、声と、笑顔、それだけで。
 唖然と、皆はアサギを見つめる。
 最大の敬意を込めて、肌で“器”を直感し、アイセルは再び平伏すかのように地面に倒れ込みそうになった。が、寸でのところでアレクに腕を捕まれる。意識が消えかけていた、我に返ったアイセルは苦笑いしてアサギを見つめる。

「い、いやぁ、腹が減ってね。何か食べませんかー、一緒に。眩暈が、うん、眩暈がね……」

 苦し紛れの声だった、が、平素から飄々とした態度をとっているアイセルなのでサイゴンとホーチミン、スリザにはそれで十分だった。三人は呆れ返って苦笑している。
 冷汗をかきながら安堵するアイセルに、アレクだけが気付いていた。アイセルが機転を利かせて、アサギに跪くことを回避したことを。
唇を噛み締め、一歩前に進み出ると、アレクは目線をアサギと同じ高さに腰を下ろす。

「では、よろしく。ハイが連れて来た人間の娘、アサギよ」

 その声は、若干震えていた。
 何故ならば、待ち焦がれていた相手に出会えたからだ、渇望していた、この瞬間を。
 惑星クレオの魔王は、勇者を待っていた。魔王の望みは、勇者と手を取り、魔族と人間の隔たりを失くす事。魔族が人間に歩み寄ろうとしても、人間側から受け入れを拒否される。それは、魔族達が高等な魔力や攻撃力を所持しており、恐怖の対象である存在だからだ。過去に植えつけられた人間達の“魔族の脅威”は簡単に拭えない。
 そして、魔族全員が共存を願っているわけでもない。
 それでも、アレクは人間と無意味な争いは避けたかったので魔王という立場ながらに暗躍してきた。
 まさか、異界の魔王が勇者を連れてくるとは思わなかった。そして、その勇者が幼い少女で、しかし“予言通りの”勇者だとは。

「酒、酒! いっただっきまーす!」

 アイセルの大声に、その場は盛り上がる。両手に大ジョッキを抱え、アイセルは注がれた酒を豪快に呑み始める。大麦から作られたそれは、地球で言うビールだろう。

「も、申し訳ありませんアレク様、このような失態を……」

 スリザが気分良く笑いながら飲み食いしているアイセルを冷ややかな視線で睨みつけながら、アレクに謝罪をする。部下ゆえに、失態は見過ごせない。
 魔王の目の前で痴態を繰り広げるわけにはいかなかったのだが、アレクは穏やかに微笑んだ。


「構わぬ。楽しい時は笑い賑わうものだ、無礼講としよう。……さぁ、アサギ。たくさんお食べ」
「はい、ありがとうございます」

 喉を詰まらせ、スリザは深く敬礼した。春の日差しのように微笑んだアレクの表情を見たことなど、無きに等しい。胸に何か熱いものが込み上げる。それは偽りでも、演技でもないアレクの心からの笑みだった。普段、気落ちし、窓辺から暗く魔族の地を見ていたアレクだが、勇者の出現で、一瞬にして表情が変わった。

 ……これが勇者の力量?

 スリザは、アレクと共に並べられた食事に手をつけ始めるアサギを、値踏みするように見つめる。

「不思議な、娘」

 率直な意見だ。アサギの周囲の空気には、違和感を感じた。自然と、心が落ち着くような、何か楽しい気分になってしまうような。

「それが、勇者というもの? 異質すぎる、勇者とは一体」

 スリザは唖然と立ち尽くす。一人蚊帳の外、和気藹々と語る皆を見ていた。見ていると、不思議と自分も輪に入りたくなってくる。そっと脚を踏み出しワインのグラスを片手に、興味をそそられたアサギの元へと歩み寄る。

「キャベツの土瓶蒸し、うまー! 桜海老の香ばしさに、酒の香り、そして食欲をそそるこのレモンの爽やかな酸っぱさ……美味っ」

 ビールと料理を交互に、酒豪のアイセルは、ひたすらに酒を呑み続けている。と、アイセルの服が微かに引っ張られた、上機嫌でそちらを見れば。

「可及的速やかに……頼む」
「……承知致しました」

 アレクが、耳打ちをした。
 急に真顔に戻ったアイセルは、重々しい口調でそう返答をする。
 二人は、アサギを見つめる。勇者を、見つめた。

※挿絵は頂き物です(*´▽`*) スリザ。
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登場人物紹介

アサギ(田上 浅葱) 登場時:11歳(小学6年生)

 DESTINYの主人公を務めている、謎多き人物。

 才色兼備かつ人望の厚い、非の打ち所がない美少女。

 勇者に憧れており、異世界へ勇者として旅立つところから、この物語は始まった。


 正体は●●の●●●。

ユキ(松長 友紀) 登場時:11歳(小学6年生)

 アサギの親友。

 大人しくか弱い美少女だが、何故かアサギと一緒に勇者として異世界へ旅立つ羽目になった。

 トモハルに好意を抱いている。

ミノル(門脇 実) 登場時:12歳(小学6年生)

 アサギのことを嫌いだ、と豪語している少年。

 アサギ達と同じく、勇者として異界へ旅立つ羽目になったが、理不尽さに訝しんでいる。

 トモハルとは家が隣り同士の幼馴染にして悪友。

 多方面で問題児。

トモハル(松下 朋玄) 登場時:11歳(小学6年生)

 容姿端麗、成績優秀であり、アサギと対をなすともてはやされている少年。

 同じく異界へ勇者として旅立つ。

 みんなのまとめ役だが、少々態度が高慢ちきでもあったりする。

 なんだかんだでミノルと親しい幼馴染。

ダイキ(中川 大樹) 登場時:11歳(小学6年生)

 剣道が得意な、寡黙な少年。

 人づきあいが苦手なわけではないが、自分から輪の中に入っていくことに遠慮がち。

 同じく、異世界へ勇者として旅立つことになる。

 やたらと長身で目立つことがコンプレックス。

ケンイチ(大石 健一) 登場時:11歳(小学6年生)

 ミノルと親しい可愛らしい少年だが、怒らせると一番怖い。

 同じく異世界へ勇者として旅立つことになった。

 従順だが、意に反することには静かに反論する。

リョウ(三河 亮) 登場時:11歳(小学6年生)

 作品のメインである一人。アサギは「みーちゃん」と呼んでいた。

 アサギと親しく、出会ってからは常に一緒だったが、勇者に選定されず、地球に取り残されてしまった。

 常にアサギの身を案じ、地球で不思議な能力を発揮している。

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