勇者と魔王の思い
文字数 5,713文字
「うぐっ」
差し出された華奢な腕に気づいたハイは、力なく首を横に振って制する。
「すま、ない……」
堰を切ったように、ハイは号泣した。羞恥心と罪悪感に押し潰され、今にも自害したい衝動に駆られる。
「あ、の」
戸惑いながら声をかけたアサギに、ようやくハイは顔を上げた。
二人の視線が、交差する。
「申し訳ない! 本当に申し訳ない! 心の底から申し訳ない!」
森に響き渡る大声に鳥達が驚いて飛び立ち、木々が揺れる。
ハイは謝罪の言葉を連呼し、地面に額を擦りつけた。
呆気にとられたアサギは、何も言えずその様子を見ている。どう対応してよいのやら解らずに、眉を寄せる。気怠い身体を起こして大木に座り直すと、軽く溜息を吐いた。時折咽ながらも一向に謝罪を止めないハイを、憐れに思う。
「勇者に謝る、魔王様。子供に謝る、大人の男の人」
ぽつり、とアサギは呟く。
ハイは、叫ぶように精一杯謝罪をし続ける。止めなければ永遠に続くと思われた、例え喉が切れても、腹が減っても、夜になっても、ここから微動だしないだろう。アサギから、赦しを与えられない限り。
冷静な心で注意深く見ていたアサギは、ハイは正気だと判断した。豹変した原因は分からないものの、先程の違和感は微塵も感じない。
震えが意味をなさない声となって、ハイの口から漏れている。
今し方、襲われかけていた少女であれども、これは気の毒だ。そもそも、未遂。恐怖を感じたものの、今は呼吸に乱れもない。
……あのくらい、慣れているもの。
ふと、そんなことが脳裏を過り、アサギは首を傾げ唇を尖らせる。そのような経験はないのに、どうしてそう思ってしまったのか。少し大人な少女漫画の読み過ぎだろうか、と肩を竦める。
「ふぅっ」
アサギはわざとらしく溜息を吐くと、勢い良く立ち上がりハイを両手で掴んで引っ張り上げた。
「はわわ!」
妙に可愛らしい声を漏らし、ハイは慌てて顔を背ける。そして、立ち上がるまいと力を籠め、地面に足を縫い留めた。
頬を膨らませたアサギはしゃがみ込むと、ハイの背中を抱きかかえ、懸命に力を籠めた。
「立ってください!」
「す、すまない! あ、合わせる顔がなく。その……申し訳ない!」
「あ、あの、もういいです。立ってください、その」
「い、いや! それは駄目だ! 謝らせてくれ!」
ハイは、パシッ、と音が成程強く手を払い除け、再び地面に突っ伏した。そして、我に返る。顔面蒼白で見上げれば、アサギの右手が微かに赤くなっている。
「あああああああああ、私は何という事を! その華奢で可憐な腕を叩くだなどと、万死に値する! す、すまない! い、痛かったろう!? い、今、回復の魔法を。あぁ、あああああ私は一体何をやっているんだ!」
「えっと、魔法使うほどではないですし、大丈夫です」
「す、すまない、すまない! 本当に申し訳ない! あぁ、私はどうしたら良いのかっ」
「あ、あの、ホントに気にしないでください。そのほうが楽です」
「そうだ、責任を取って、今から首を吊って死のう」
「それは絶対に止めてください!」
暫くの間、呼吸が乱れる程の激しい口論が続いた。
耐え切れなくなったのか、ハイは突然アサギの両足に思い切りしがみ付いた。
別れ話を告げられた軟弱男と女の構図が出来上がる。二十代後半の男と十二歳の美少女なところが、また卑猥でいかがわしい。
これでもハイは真面目で必死。アサギの生脚にすがり付いているが、意図的ではない。
「アサギ!」
「は、はいっ」
「私はどうかしていた……意識がなかったような気もするが、それは言い訳にすぎない。先程の愚行は事実、偽ることなど出来ぬ! ……怖かったろう? 嫌だったろう? だから私に、アサギも同じことをするが良い!」
「…………」
ハイは真剣であり、下心など一切ない。
衝撃な発言に、アサギは面食らった。赤面して勢いよく首を横に振り、絶叫する。
「む、無理です、出来ませんっ」
「いや、出来る! 頑張れ! 私がそこに横になるから、上に覆い被さり首筋に舌を這わせて嘗めて吸うだけだ!」
「…………」
ハイが悦ぶだけで、アサギにはなんの得にもならない。眩暈がして、項垂れる。
「では、私を思う存分殴るとよい! アサギにならば殴られても本望、どちらかというと大歓迎。さぁ、先程の怒りを振り払うように! さぁ、さぁ!」
「え、えぇ!?」
「蹴っても良し、脚で踏みつけても構わない! 好きにするがよい!」
奇怪な事になってきた、アサギの脳内処理が追いつかず、目が回る。ハイが別の意味で怖くなり、顔をあからさまに引き攣らせた。
「む、無理」
ふくらはぎに額を寄せて頬ずりしているハイを見下ろし、アサギは項垂れた。これでは一向に話が進まない。覚悟を決めた様に両の拳に力を入れると、凛とした声を出す。
「……解りました、では、手を離してください。瞳をよーく瞑って、歯を食い縛ってください。一撃で終わらせます」
観念したようなアサギの声に、ハイは何度も頷くとそっと脚から手を離す。
「解ってくれてありがとう! さぁ、遠慮なく!」
本気の一撃を覚悟し、ハイは顔を突き出した。これで先程の事が赦して貰えるのならば、お安いものである。寧ろ、光栄だ。
「いいですか? いきますよ? ……せーのっ」
微力な風が、ハイの顔を撫でる。身を硬くしていると、耳に届いたのは“ぺちん”という、なんとも可愛らしい音だった。怖々と、瞳を開く。
「え、あ?」
アサギが微笑み、じっと見つめている。小さな手でハイの頬を包み込み、目の前に居た。その慈愛に満ちた表情に、固唾を飲んだ。
「これで、終わりです。お腹空きましたね、ご飯食べましょう」
掌をそっと離すと、アサギはにっこりとハイに微笑み頭を二回、撫でた。弁当が入っている籠を両手で持ち上げ、大木に腰掛ける。
唖然と見守っていたハイは、未だに残るくすぐったい頭部の感覚に顔を赤らめた。柔らかで暖かな掌は、遠い昔の記憶として微かに残っていた。子供の頃、両親に撫でられた時を久し振りに思い出す。懐かしくも、恥ずかしく、それでいて心がじんわりする。
「あ、アサギ? 先程のあれでは……」
すっかり冷静さを取り戻したアサギは、ハイを無視し籠の中身を覗き込むと、パンを取り上げる。肉の燻製と生野菜がはさんであり、香辛料の良い香りが空腹を刺激する。
「いただきます」
食べ始めたアサギを見て焦ったハイは隣に腰掛け、身振り手振りで弁解を開始した。
「あ、アサギ。怒っているのは承知している、しかし、私の話を聞いておくれ」
横目で蒼褪めているハイを見たアサギは、その口に挽肉を練って丸め、素揚げした様なものを放り込んだ。
驚いたものの、ハイは口を動かして咀嚼する。そして、素直に感想を漏らした。
「あ、美味い。いやしかし、これはそれとして」
急かす様に、アサギは次にパンを押し付けた。そして、少し気の立った目つきで声を荒げる。
「もう終わりです! これ以上まだ何か言うなら私、ホントに怒りますからね!?」
予想だにしなかった剣幕に硬直したハイは、悵然として項垂れる。
気落ちしているハイに、まるで自分に非があるように感じたアサギは心が痛んだ。くぐもった声で、少しだけ顔を赤らめると、そっぽを向く。
「……私、恥ずかしかったです。もう、思い出したくないんですっ。忘れましょう」
ハイは、驚異の目を見張った。傷ついたのは、アサギ。自分は不謹慎だが、悔恨の念に苛まれつつも、心の奥底では満たされた快楽を噛み締めていた。自分も“雄”だと自覚した、やはり隠しようすが無い性欲があったのだろう。今も、頬を赤く染めて恥らい、憂いを帯びた表情で瞳を伏せるアサギに、胸が締め上げられると同時に、それが扇情的に見えて喉が鳴る。
「アサギは私を軽蔑しないのか?」
「……していません、様子がおかしかったですし。それよりも、忘れて欲しいです」
怖かっただろう、だが、アサギは今まで通りに接してくれる。その事実に、ハイは感極まって涙を流した。だが、一つだけ。忘れられては困ることもある。
「わ、解った、解ったから最後に聞いてくれ! 私が言いかけたことだけは、忘れないでくれ!」
目じりを上げて怒りかけたアサギの表情が、ハイの真剣な眼差しを受けて緩んだ。小さく頷くと、口を真横に結ぶ。
「ありがとう」
胸を撫で下ろし、ハイは躊躇いがちにアサギの髪を撫でる。
「私は、アサギの事を心の底から大切に想っている。傍に居たい、居て欲しい、護りたい。だが、アサギの気持ちを無視することはできない、よって、無理強いはしない。強引に攫ってきてしまったのだ、帰りたいだろう? あの時は、アサギに逢うことしか考えていなかった、後先考えずに行動した結果がこれだ。私は愚劣な独善家だが、アサギが嫌ならば、魔王とて辞める。それくらい、容易い事だ。だから……」
「私、護って頂かなくても大丈夫です。自分の身は、自分で護れます。ハイ様の事は好きだから傍に居たいし、魔界の皆さんも楽しいから好きです、ここに居るのは苦痛ではないです。でも、離れてしまった仲間の事はとても心配です。私は勇者で、ハイ様は魔王」
二人の視線が交差した、時が止まったような、奇妙な錯覚を起こす。
引き寄せられるように、二人は見つめ合う。
それは、ハイにとっては願ってもない時間だった。楽園に相応しい森の中で、愛しい娘と二人きりこうして互いに見つめ合う。このまま時が永久に止まってしまえば良いとさえ思えた。
しかし、それはそれとして。
ぐーきゅるるるるるるる!
静寂と甘い雰囲気を見事に壊した腹の音に、堪え切れずアサギが吹き出した。
ハイも、照れ笑いを浮かべて自分の腹を擦った。腹の虫という生理現象は、例え甘美な時間であれとも抑えることが出来なかった。
「は、ははは……。全く、空気が読めぬ腹だな」
ハイが自身の腹を軽く殴ると、応えるように再び腹の虫がけたたましく鳴く。
笑いが止まらないアサギに、ハイも肩の荷を下ろしてあっけらかんと笑った。愛嬌がその小さな顔一杯に溢れており、見ているだけでこちらまで笑顔になってしまう。
「早く食べましょう!」
微笑んだアサギは、ハイの口元に再び挽肉の素揚げを差し出す。
歓喜したハイは、照れくさそうに口を大きく開いてそれを受け入れた。
森の片隅、静寂の帳。
二人から少し離れた場所の地面の草が、何かに踏まれた。異質な空気にハイが顔を上げたが、何もない。
それでもそこには、何かが“いた”。
「美味しいな」
「えぇ、とっても!」
二人は、夢中で手を伸ばして食べ続ける。時折、滝から零れ落ちる清冽な水を掌で掬って飲み、喉を潤した。
腹が満たされると、切り出しにくそうにハイが頭を掻く。
しかし、アサギは口元を引き締め一瞬目を細めると、その唇を開いた。
「私は、イヴァンへ来て驚いたことが沢山あります。魔王という単語だけ聞かされてましたから、みんな悪い人達ばかりだと。でも、違いました。何故、いがみ合っているのでしょう? 私達が召喚された理由が分からないのです」
興奮したアサギの口調が、きつくなる。両手の拳をきつく握り締め、微かに肩を震わせる。
「教えて、ハイ様。本当に貴方は、惑星ハンニバルの魔王ですか? ムーンの故郷を攻撃したのですか? リュウ様は何をしたのです? アレク様は? ミラボー様は? どうして皆さんは、勇者の私に優しくしてくださるのですか? 何が正しくて間違っているのか、解らないのです。ハイ様は魔王に見えません。ならば、惑星ハンニバルの魔王は何処にいるのですか」
ハイの顔が引き攣った、真っ向から質問されると答え難い。
口篭っているハイに、アサギは続ける。
「私達の世界には、本当はみんなのお手本になるべき人達が、裏で悪い事をしています。それも、大勢。人は完璧じゃないから、失敗します。それでも、これは駄目なことだと理解しているのに、悪事に手を染めてしまう人が後を絶ちません。人間は、弱いけれど、だからといって、何をしてもよいわけではなくて。どうしたらよいのかなんて、私には解らない。勿論、真面目な人だってたくさんいるけれど……。何故、世の中はいがみ合うばかりなのでしょう。何が、いけないのでしょう。でも、偉そうにそう言う私だって、きっと何処かで、誰かを傷つけたり、酷い事をしてしまっている」
キィ……カトン……。
何かが何処かで軋む音が聴こえ、アサギは怪訝に顔を上げた。耳元で誰かが何かを囁いた気がして、周囲を見渡す。
訝しげに周囲を見渡すと、不思議そうにハイが覗き込んだ。
「どうした、アサギ?」
「あ、いえ……なんでもありません。その、声が聴こえたような気がして」
「風が出てきたな。上空の葉が、こすれる音かもしれない」
「そう、ですよね」
アサギの瞳が、怯えで揺れている。暗い影が落ち、微かに肩が震える。ハイは消えてしまいそうで放っておくことが出来ず、肩に手を回して自分へ引き寄せた。
「だから……人間は嫌い」
アサギが、明確に呟いた。
声は大きくなかった、しかし、周囲が静寂に近いので通って聞こえた。
「今、今……なんと言った? 私の聞き間違いか?」
アサギは人間の希望である、勇者。
召喚され、異世界からやってきた人間の救世主。
その勇者が、人間を“嫌い”と告げた。