橄欖石と幻獣
文字数 5,636文字
「何かあったのね?」
「……ホーチミンが、魔導書が並ぶ棚で奇妙な物語を読んだらしい。しかし、その本は二度目に出向いた時すでに消えていて」
アレクがぽつり、ぽつり、と話すのを、ロシファはじっと聴いていた。数日前に何者かの襲撃を受けたが、その事を今のアレクに話すのは忍びなく口を閉ざす。例の件は、乳母にすら話していない。余計な心配をかけたくなかった、聖域であるこの場所に侵入してきた事実は隠蔽したい。それは、あってはならぬこと。
万が一、性懲りもなく侵入してきたとしても、同じ様に自分が撃退すればよい。両親から引き継いだ格闘の技と膨大なる魔力に敵うものなどいないと、ロシファは自負している。それこそ、魔王アレクですら凌げると思っていた。彼女は、異様に自尊心が高い。
侵入してきたエーアは、魔王ミラボーの傀儡となる前、清らかで高貴な魔導師であった。だから侵入できた、精神を邪悪なものに操られていたとしても、心の奥底は穢れなく美しいままだ。
もし、エーアの存在をアレクに語っていたのならば。スリザを襲撃した人物と同じであると判明し、このような場所にロシファを置いておかなかっただろう。もしくは、護衛をつけただろう。
つまり、未来は“若干”変わっていたかもしれない。
「私は、毎日ロシファと過ごしたい」
「……つまり、疲れたのね。腑抜けの魔王様、今はお眠りなさい」
小さく見える魔王アレクに、優しくロシファは手を差し伸べて抱き締めた。
アレクがここで、スリザ襲撃の件を話さなかったことも禍した。
そうとも、星々が全てを掌握している。奴らは、何処からでも我々を見ていられるのだから。
禍は、足音が聞こえないように器用に忍び寄るもの。気づいた時には、遅いのだ。
アサギは日中ハイに魔法を教わり、夜になると食堂へ出向いた。そして、その場に居合わせたサイゴン達と食事をする。
リュウは大人しくなり、時折姿を垣間見せるだけで自室に引き篭もりがちになった。
エーアは甲斐甲斐しく悪魔テンザの看護し、すっかり信頼を得て名もなき孤島に滞在している。
トビィは魔界へ向けて竜達と空中を舞っており、勇者一行はアサギを救う為に船で一路魔界を目指す。
ミラボーは急がば回れとばかりに、ただ自室で愉快そうに宝石を眺めたままだった。鋭利に尖らせた黒瑪瑙を一つ取り出し、机に優しく置く。
「あの魔族の女将軍は、
次いで、長方形に加工された黄色い
「あの悪魔はこれかのぉ。……エーアは、これで」
角ばった
「さぁて、愉快な戯れの始まりじゃ。手始めに……黒瑪瑙を、
美しい黄緑色の橄欖石に見立てたのは、勇者アサギ。
魔王ミラボーは、垣間見ている。以前、トビィと共に深き森の幻惑の魔法使いに捕らわれた際、変貌したアサギの姿を。だから緑色の宝石にアサギを例えた、ごく自然に。
そこに魔王アレクらが必死になっている答えがあった、勇者アサギの髪と瞳は、緑であると。
「ただ、橄欖石の傍にいる黒真珠が邪魔じゃのぉ。剥がさねば」
黒真珠は、ハイを指す。
ミラボーは手持ちの宝石を何個か机に並べ、まるで遊戯でもするようにゆっくりと思案する。宝石達が煌くと、ミラボーの瞳も鈍い光を放った。
橄欖石と黒真珠が寄り添っている、その少し離れたところから黒瑪瑙を指で弾いて嗤った。
その日もアサギはハイと共に、中庭で魔法の稽古をしていた。
優秀なアサギは火炎の魔法をほぼ完璧に取得し、次いで風の魔法に着手している。攻撃補助に治癒魔法、防御魔法も習得したが、ハイの専門外である水と土の魔法は難航していた。
ホーチミンの勧めで図書館へ行く事になってはいるが、生憎アレクが多忙で許可が下りていない。それまでに風の魔法を完全に使いこなすため、熱心に特訓している。
ハイが指導にあたっているとはいえ、内容は甘い。小刻みに休憩が入るうえに、休憩時間が異様に長い。菓子や紅茶が並び、休憩が一日の大半を占めている。
ゆえに、アサギは不服だった。確かに菓子や茶は美味しいが、一応勇者である。怠惰な勇者にはなりたくない。今も、二人きりで浮足立っているハイと共に菓子を頬張っている。
「あの、ハイ様。お水を飲んできます」
「水など持ってこさせればよい」
「いえ、すぐそこに水飲み場があるので……」
紅茶は美味しいが、果物が入っていて甘みがある。さっぱりしたくて水を欲した。立ち上がったアサギは、しつこいくらいに心配するハイに困惑しつつ、それを振り切った。
「何かあったら、悲鳴を上げなさい」
「一応私勇者ですし……」
「勇者だから危ないこともある! ただでさえ、こんなに愛らしいのに」
「は、はぁ……」
水飲み場は、目と鼻の先。そもそも、この場所に危険はないと過信した。
不安がって叫んでいるハイの声を背に受けて一人歩くアサギの瞳に、猛禽類の鋭利な爪と、美しい濃茶の羽を持つ幻獣が飛び込んで来た。
リュウと行動を共にしている、リングルス=エース。主君が自室に閉じこもり気味だったので、暇を持て余し外で飛行していた。時折羽根を伸ばさねば、衰えてしまう。アサギの視線に気がつくと唾を吐き捨てそうになったのを我慢して、地上に降り立つ。無視しようかとも思ったが、視線が気になったのでやむなく覚悟を決めた。
相手は自分達を呪縛していた人間である、気さくに話そうと思っても簡単に出来るものではない。腹の奥底には、今にも業火となりそうな人間への嫌悪感と憤怒が燻っている。
「こんにちは! えっと、リュウ様のお傍に控えている……」
「リグ、です」
「リグ様」
そこへ、気配に引き寄せられ風の精霊エレンと蝙蝠のケルトーンがやってくる。アサギに接近されているリングルスを護る為、二体は駆け付けた。人間は信用出来ない、以前の様に操られる事だけは避けなければならなかった。警戒して当然であり、怒りを隠すことなく三体は立ちはだかる。
「えっと、えーっと」
「エレと申します」
「ケト、です」
名前が解らないので戸惑っていたアサギに、ニ人は偽りの名を伝えた。本名は、絶対に口にしてはならないと皆で誓ったのだ。
アサギは丁寧にお辞儀をすると、三人を眩しそうに見上げて溜息を吐く。その柔らかな笑みに、反射的にリングルスが「何か?」と言葉を発する。
「いえ、リュウ様の仲間さん達はみんな、神秘的ですよね。サイゴン様達魔族の方々とは違う雰囲気です」
それはそうだ、魔族ではなくて幻獣なのだから。と、鼻で嗤ったエレンが反論しようとした。もっと高貴な一族だ、と言おうとして唇を噛締める。
アサギは、じっと目の前の三人を見ていた。
その視線が、酷く居心地の悪いものに感じられた。人間からしたら珍しいのだろうが、見世物の様に凝視されては、気分も悪くなる。幼い勇者は好奇心旺盛なのだろうが、不愉快だとばかりに形だけの会釈をするとそのまま飛び立った。
長居は、無用だと。話す事など、何もない。
「神様みたいですよね」
飛び立った三人に大きく手を振って笑ったアサギの、その一言にリングルスが振り返る。見下ろせば、邪気も悪意もない、純粋な瞳で見上げている姿が目に入った。
「か、神?」
狼狽し、ケルトーンがリングルスに視線を投げかける。エレンはそっぽを向いて腕に爪を立てていた。
「この世界の神様はクレロって言うらしいですね。私がいた地球は、神様は一人ではないんですよ。土地によって神様は違うんです、私が居た日本にも沢山の神様がいるのですが……」
話し始めたアサギの続きが知りたくて、ケルトーンは再び地上に降り立つ。嫌々ながらもエレンが舞い戻り、戸惑いがちにリングルスも降りた。
「山にも川にも神様がいるんですよ、村にも神様がいて。私は神様の姿を見たことがないですけど、きっとリグ様達みたいな感じなのでしょうね。祠とかを作って、祀るんです。狐や蛇の神様など、形は様々です。だから、もし。日本の山奥で誰かがリグ様達を見たら、きっと大慌てで村に戻って『神様を見たー!』って大騒ぎになりそうです」
地球の都会で飛行していたら、間違いなく捕獲されるだろう。なので、苦笑したアサギはそれは言わなかった。神秘的な山奥、もしくは信仰深い田舎であれば間違いなく神格化されている。
「皆さん、とっても綺麗ですものね! 見ていると崇めたくなってしまいます」
神社でするようにアサギは二礼してからパンパン、と軽快に手を合わせ、再び一礼した。
「……それは?」
呆気にとられたケルトーンが問うと、アサギが不思議そうに顔を上げる。
「あ、あれ……そっか、作法が違って当たり前ですよね。私達の国だと、こんな感じで神様を拝みます。他にも色々ありますが、これが一番普通で。祝詞っていう言葉を唱えたり」
「左様で」
再び拝み始めたアサギを困惑気味にリングルスは見つめ、変わらず渋い顔をしているエレンを横目で見た。
「何を、祈っているのですか」
上ずった声で問うリングルスに、アサギは小さく微笑むと頬を赤く染める。
「それは、秘密です。願い事は人に言ってはいけないんですよ。……でも、神様にならいいのかな。『早く世界が平和になって、誰も哀しまず苦しまない未来が来ますように』って」
故郷の地球も同じ事。この惑星だけではない、どこの世界でも貧困や戦争は起こっている。有り触れた願いだった、それでも三体に衝撃を与えるには十分だった。
「ふふ、不思議ですよね。皆さんは何故か、魔王であるアレク様やハイ様よりも神様っぽく見えてしまうんです」
晴れやかに微笑むアサギに、遥か遠い昔の光景が甦る。
『リングルス様、今日も一日我一族をお守りいただき有難うございました。今日収穫した魚と野菜でございます』
『エレン様、良き風を導いてくださり有難うございます。おかげでこの村は何不自由なく今日も一日を終えました』
『ケルトーン様、どうか今日も私達をお守りくださいませ。皆が幸せでありますように』
人間達に迫害されるまで、神として崇められてきた幻獣達。人間に愛され、讃えられることなど忘れていた。憎むべき対象、だが、その憎しみを取り払う事が出来るのはやはり同じ人間だった。
あの頃は、慕ってくれる人間達の為に何かしたいと、三体とて躍起になったものだった。同じ時間を過ごした、助言をした、笑えば人間は喜んでくれた。だから幻獣達も笑って、その場に居続けた。
「……アサギ様こそ、不思議ですよ」
言った、リングルスの頬を涙が伝う。遠い昔、懐いてくれていた人間の少女が思い出された。彼女は召喚士の末裔だった、だがリングルスを逃がそうとした為に、やってきた貪欲な人間に殺害された。まだ幼かったのに、四肢に縄を括りつけられ、四方に馬で引かれるという死刑に遭った。その少女の笑みを、思い出してしまった。
エレンもケルトーンも、同じ様に崇めてくれていた人間達を思い出していた。忘れていた記憶は、全ての人間が憎悪の対象ではないことを教えてくれる。
いつまでも反発していたエレンとて、自分に洋服を縫ってくれた村の少女達を思い出していた。こぞって美しい貝殻や石で装飾品を作り、届けてくれていた。それが嬉しくてエレンは少女らの頭上を飛びまわり、花弁を降らせた。
「今は、何をなさっているのですか?」
上擦った調子でリングルスが問うと、アサギは目の前の水飲み場を指す。懐かしい胸の熱い思いを手放すのが惜しくて、幻獣達は後を追った。そして、一緒に水を飲む。湧水の冷たい水は、喉だけでなく心をも潤してくれた。
しかし、その水飲み場は、スリザが眠っている部屋の真下だ。
「おやおや、ハイの傍を離れて美しい
ミラボーが手元の宝石を宙に浮かせながら、闇の中でそう呟いた。
アレクの忠実な部下であるスリザがアサギを襲えば、ハイとアレクに僅かであろうとも蟠りが出来る。上手くいけば、スリザがアサギを捕獲し、ミラボーの許へ連れて来るかもしれない。まさに一石二鳥だ。失敗したとしても、自分に損害はない。
周囲には三つの気配があり、それらがリュウに属する者達だとは解ったが、鼻で嗤った。何も出来ぬだろうと、見下した。
「目覚めよ」
パリン、と小気味よい音がして窓硝子が割れる。
音に気付いたアサギが見上げると、頭上から煌く硝子の破片が落ちてきた。驚いて避けようとしたのだが、虚ろな瞳のスリザが両手に愛用の剣を携えて降って来たので反応が遅れた。
スリザの武器を部屋に置いておいたのは、アイセルの失態だ。
「スリザ様、戻られたんですか!」
声をかけたアサギだが、顔を引きつらせる。普通部屋の窓を割って出てくるだろうか、それも武器を所持してだ。
頭の回転が速いアサギは、異変を感じ、唇を噛締めて後方へ飛ぶ。
「下がって、アサギ様!」
咄嗟に、リングルスとエレン、ケルトーンは己の武器を手にしてアサギの前に立った。彼女を、護るべくして。