誘いの球体
文字数 2,833文字
用事があると席を外したミシアはいないが、内容次第では呼ぶつもりだった。
「遊ばれてるだろ、これ」
トビィが吐き捨てるように言うと、同意したマダーニが眉間に皺を寄せて何度も頷き、アリナは唇を尖らせ腕を組んだまま低く唸る。
ライアンが頭を掻きながら、困惑して開口する。
「街で大規模な火災が起こった。壊滅的状態だが、生存者はいるらしい。問題は、人間の遺体に混じり、魔族の死体があるという」
ライアンがそう告げると、トビィとアサギは顔を見合わせた。
「ただ、出火原因がこの魔族かどうかは不明」
「あの、火はどうなりました?」
アサギが狼狽えて問うと、マダーニが溜息を吐く。
「どうにか鎮火。ただ、そうこうしている間に、別の地区では行方不明者が続出ですって。村人が全員消えてしまったとか」
疲労困憊な様子で項垂れそう告げられ、アサギは口を閉ざす。やはり、様々な場所で何かしら問題が起きている。
「神は何をやっているんだ、後手では手遅れだろ。監視が追いつかないのか、単に怠惰なのか」
幾ら神が過去を視ることが出来るとしても、こうも頻繁に問題が起こっては原因追及に時間を要する。なんとなく解ってはいるものの、解決策が見つからずに皆は苛立った。
「こりゃ散り散りになって、しらみつぶしに見回りしたほうが早いな。そーしよー」
神に不信を募らせる皆に、慌てたライアンが助け舟を出す。
「神に不平を言うより、自分達で好機を見出そう。彼も忙しいんだよ」
「あんたは真面目ねぇ……。っていうか、お人よしねぇ」
呆れたように呟くマダーニに苦笑し、ライアンは世界地図に最近問題が発生した地点に印をつけた。皆で眺めるが、これといって法則はないように思える。
「で、その神はどこへ?」
「一応指示は出ている。彼も多忙だ、解ってやれ」
腹で燻っている不信感が顔にも声にも表れているトビィに、ライアンはあやすように告げる。
アサギは話を聞きながら、トビィのマントを軽く引っ張った。借りてきた杖を返さねばならないでの、意を決する。
「あの、トビィお兄様。用事があるので、一旦抜けます。すぐに戻ります」
「そうか、解った」
残念そうに微笑んだトビィに手を振ると、アサギは歩き出す。宝物庫に向かう途中で、ソレルと擦れ違ったので挨拶をした。
「こんにちは、ソレル様」
「こんにちは、アサギ様……って、お待ちください。その手の杖は!?」
何処かで見たような杖に驚愕し、ソレルはアサギの手首を掴む。ばつの悪そうな顔を浮かべたので、見間違いではなかったと唇を震わせた。ある程度、宝物庫に保管されている品々を把握している。この世に二つとない、先人が創り上げた杖は確実に憶えている。
「宝物庫保管の
唾液を撒き散らしながら間近で叫ばれ、アサギは必然的に小声になった。自分に非があることは知っているので、身も縮こまる。
「ええと、少しお借りしてました。今から返却に……」
「返却は当たり前! それ以前に、持ち出し禁止です! 順を追って説明なさい」
「ぁう、ごめんなさい。その杖で、デズデモーナとクレシダを人の姿に変えました」
ソレルの苛立ちが、みるみるうちに積もっていく。それを肌で感じたアサギは、小声で謝罪することしか出来なかった。
通りすがりの天界人が、二人を凝視する。規律には厳しいが、穏やかなソレルが人前で激昂することは滅多にない。
見世物状態に気づき、慌ててソレルは咳ばらいをした。
「詳細は……後でお聞きします。一先ず、お返しください」
手を差し出されたので、アサギはおずおずと手渡した。
「ごめんなさい」
「私が責任もっていまから返却してきます。クレロ様に許可を戴いたのかどうか知りませんが、あまり身勝手な事をされぬように。勇者であれど、人間。非常識です」
「本当にごめんなさい。でも、どうしても必要で……」
杖を奪い取ると、ソレルはわざとらしく大きな溜息を吐いた。瞳を伏せ、しおらしく謝罪するアサギを睨み付ける。
「迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
背に投げられるアサギの謝罪を聞きながら、ソレルはじっとりと全身が汗ばむのを感じた。勇者を非難したことを後悔したわけではない。
「何故、この杖を」
ソレルは、自分が蒼褪めるのを痛感した。アサギははっきりと『人の姿に変えた』と告げた。
つまり、杖を正しく使用したのだ。
悪寒が走る。勇者だから、では片付けられない。変化の杖の存在は、存知している。しかし、ソレルとて使用方法は把握していない。
それを、人間のアサギは知っていた。
「有り得ない!」
得体の知れないアサギに恐怖する。地球という惑星の、日本という小国で産まれた少女ではない気がした。
ソレルを見送ったアサギは、項垂れて深い溜息を吐いた。天界人が「お気になさらず。多忙で気が立っていらっしゃったのです」と励ましてくれたので、力なく微笑み返す。
とぼとぼと、トビィのもとへ戻ろうとした。
しかし、クレロに直接謝罪せねばと思い足を止める。
恐らくは世界が見える球体の部屋にいるのだろう、その部屋ならば大体把握が出来ているので迷うことなく進む。
「あの杖が、どうしても必要だったのです。今後、デズデモーナたちがトビィお兄様といる為には、あれを使うしか……」
後悔はしていない、そう小さく漏らす。
しかし、気分は簡単に晴れない。俯いたまま歩き続け、ようやく目当ての部屋に到着すると顔を上げた。上擦った声で、名を呼ぶ。
「あの、クレロ様。アサギです」
返答はない。
迷ったが、アサギは足を踏み入れた。目の前には、いつも通り不思議な球体がある。
神しか起動出来ない筈の球体だ。
淡く光り輝き、時折中で炎が揺らめいているように見えた。
目の奥がズキン、と痛んだ気がして目頭を押さえる。そこから頭痛が激しさを増して襲い掛かってきた。酷い激痛に耐えられず脚がよろめき、数歩後退する。
『オレはここだよ』
声が、間違いなく球体から聴こえた。
「……誰?」
幻聴かと思ったが、すぐに確信へと変わった。
その声を知っていた、待っていた。
痛みを堪え、胸を抑えながら吸い寄せられるように球体に近づくと、恐る恐る触れる。壊れ物に触れるように、そっと指を、指の腹を、手のひらを接触させた。
冷たく感じたのも一瞬で、一気に熱を帯びる。焼け焦げてしまうような高温に、アサギは小さく悲鳴を上げて手を離そうとした。
しかし、離れない。
『おいで』
甘い声がする。それは、胸の奥がジンと痺れるような声だった。
やはり、この声を間違いなく知っている。
「ト」
名を呼ぼうとして口を開いた途端、身体が球体に吸い込まれた。腕を引っ張られるようにして、身体が球体に溶け込んでいく。
声を上げるのも忘れ、アサギは唖然と目の前の惑星を凝視した。