恋の沼
文字数 3,229文字
「ごめん、ホントにごめん」
「どうしたのですか、大丈夫ですよ。私、ここにいますから。トランシスさんがいて欲しいなら、ずっといますから。だから、安心してください。
キィィィ……カトントントン。
暫く二人は、ベッドの上で寄り添っていた。
「行かないでくれ、頼むから」
「大丈夫です」
「本心なんだ、頼むから分かって」
「はい、分かりました」
「頼むよ、オレはアサギが大好きなんだ。嘘じゃない、ホントなんだ、頼む、頼むから」
「大丈夫ですよ?」
駄々をこねるように、トランシスは同じ発言を繰り返す。切ないその訴えに胸が締め付けられたアサギは、目の前の彼がとても小さく思えた。
何かに怯えているようにも見える。
「大丈夫です、ここにいますよ」
母親が子供をあやすように、優しく囁く。アサギはトランシスの頭部を両腕で抱えて、幾度も撫でた。
「アサギだ」
「はい、ここにいます」
その温もりに安堵し、落ち着いてきたトランシスは怖々とアサギを抱き締める。じんわりと全身に広がる互いの体温が身に沁みて、愛おしくて狂いそうになる。
唐突に恋に堕ち、溺れた。
深い恋の沼に落下したら、浮上出来ない。沈むことしか出来ず、解っているのに甘美なその水を飲み続けて溺れてしまう。
苦しくても、そうでありたい。自分も相手も溶けてしまえば、永遠にそこで混ざり合ったままでいられる。
そうしたら、離れられない。誰も、引き離すことが出来ない。
「愛してる」
「え?」
突如呟いたトランシスに、アサギは顔を上げた。
「変かな、変だよな。でも、誰よりも愛しく、自分よりも大事な存在に思える。ずっと探していた気がする、会いたかった気がする。愛しているんだ、これはそういう感情だ」
キィィィ、カトン……。
アサギは瞠目し、トランシスを見つめた。
今、なんと言っただろう。
聞き間違いでなければ、望外の喜び。『愛してる』そう聴こえた。放心状態のアサギは何も言えず、瞬きすら忘れてそこにいた。
トランシスは、そっとアサギの手を取る。触れた箇所から身体が溶けだして、交わるような感覚に心がざわめく。
「おかしいな。……ずっと以前にもこうしていた気がする。不思議な既視感」
アサギの手を頬にすり寄せ、切なそうにトランシスは呟く。しっとりと柔らかい手からは、甘い香りがした。
「わ、私も、そんな気がします」
「フフ。なら、本当にそうかもしれないな」
「は、はいっ! そう、だったら……いいな」
『はにかんだ笑みを浮かべ、頬を染めて嬉しそうに俯いた少女に、思わず青年は手を差し伸べた。
「……さっき『何でもする』って言ったよな?」
「はい、うん。言いまし……言ったよ?」
「少し、抱き締めさせて」
少女の返事を待たないまま、青年は強引に腕を掴むとそのまま引き寄せる。寝台に倒れ込んだ華奢な身体を素早く引き寄せ、夢中で抱き締めた』
トランシスはアサギの甲に、恭しく口づける。ゆっくりと、じんわりと確かめるように幾度もチュッと音を立てて口づけた。
『喉の奥で笑い、少女の顔を覗きこんだ青年が息を飲む。反抗してくるとばかり思っていた少女が、赤面し言葉を失っていたからだ。意表をつく反応に、困惑する。
「え」
「あ、ち、ちが、違うんです、違いますからね!? き、気にしてなんていませんから、からっ」
今更、否定しても。青年は、夢中で少女の唇を奪った。
無我夢中で唾液の交換を始めた青年に、少女は。
彼の名を、呼んだ』
「トランシスさん」
「アサギ」
名を呼んだ後、二人はどうしようもなく泣きたくなって、互いに顔を逸らす。
傍に居るのに、どうしてこうも切なく感じるのだろう。胸が震える、もっと近くにいたいと、寄り添っていたいと願ってしまう。
どうしたらこの焦燥感に似た感情を止める事が出来るのか。
『青年は「ありがとう」と耳元で囁くと、躊躇う事無く一気に引き寄せて少女を腕で包み込んだ。
驚いて身体を仰け反らせた少女だったが、顔を赤らめ青年を見上げる。腕の中で、満身創痍ながらも嬉しそうにゆっくりと微笑む』
「好きだ」
「……好きです」
顔を逸らしながらも、二人は言い合った。
『嘘をついた。嘘をついたが、少女は感極まって泣き笑いしている。
「ありがとうございます、本当に、なんと感謝の言葉をお伝えしたら良いか。私、不要だと言うまで、お傍に居ます。あ、あの……知ってましたか? 私、最初にお目にかかった時に、とても綺麗だと思ったんです」
意外な言葉に、青年は硬直した。跳ね上がった心臓を押さえ、引き攣った声を漏らす』
「初めて見た時に、息が止まった気がした。待っていた気がする」
「私も、です」
慣れたベッドで、トランシスはアサギを組み敷いた。
押し倒され、小さな悲鳴を上げたものの、アサギは抵抗しなかった。
ようやく二人の視線が交差する。
「口づけ、してもイイ?」
「は、はい」
赤面し瞳をきつく閉じたアサギを見下ろし、軽く笑うとトランシスはそっと顔を近づける。互いの息が、絡まる。
『安堵した少女に、思わず青年は口づけていた。唇に触れた何か温かいものに驚き身動ぎした少女だが、耳元で囁かれそのまま逃げずにいる。
「恋人同士は、口づけをするんだ。“好きだよ、大事だよ”って思いながら」
「口づけ」
「そう、口づけ。いいかい、オレ以外と口づけを交わしてはいけないよ?」
「解り、ました」
耳や首筋にかかる青年の吐息に、少女の身体が敏感に揺れる。くすぐったいのではない、身体が跳ねて、熱くなる。髪を撫でられ、躊躇いがちに口づけを交わした。その後、ぎこちなくも二人は、止める機会を失って口づけを続ける』
音を立て、何度も口づけを交わした。その度にアサギの身体が引きつるので、可愛らしくて止めるタイミングが掴めない。トランシスは、産まれて初めて口づけだけでここまで快楽が得られることを知った。
『戸惑いの色が会場内の人々の目に宿り、唖然として寄り添う二人を見つめていた。
少女の髪を撫でながら、優しく抱き締める青年の姿は、それこそ慈愛に満ちていて。姫を助けに来た、王子のようで。
ここが闇市競売だと、一瞬忘れた。』
「アサギ」
「トランシスさん」
熱に浮かされ、互いの名前を呼び合う。それは、飽きることがないように思えた。いつまでも邪魔されず、二人だけの世界でこうしていたかった。
『ただ純粋に喜んだ。自分を抱き締めて嬉しそうに笑っている太陽のような笑顔を見られて、幸せな気分になれた。
雄叫びを上げて少女を抱き締め、すでに我が物とばかり腕の中で頬に口づけている青年』
「どうしよう、こんな気持ち初めてだ。胸が痛い、痛くて、辛い、苦しい。けど、触れ合っていると安心する。アサギ、これ以上オレから離れないで」
「私も、一緒にいたいです」
トランシスは震える手で頬を撫でた。微笑し小さく頷いたアサギに、再び口づけの雨を降らせる。
満ち足りた時間だった。狭くともここは二人きりの世界で、ただ、触れ合って口づけを交わす。誰にも邪魔されない神聖な行為。
「大好きだよ、アサギ」
「わ、私も、大好きです……」
「
トランシスにそう告げられ、アサギは言い澱んだ。
……愛している。
同じように口にしてよいのか戸惑い、瞳を泳がせる。けれど、追われるような視線に屈し口を開いた。
「わ、私も」
キイイイイイイィィイイイイイイイイイイ、カトン。
二人は、名を呼び、好きだ、大好きだ、愛していると告げて、口づけを交わしあった。その時間は、終わりがないように思えた。
終わりが来て欲しくなかった。
この時間さえあれば、何もいらなかった。
それだけで、よかった。
これだけで、よかったのに。