外伝7『埋もれた伝承』7:逃避行
文字数 4,017文字
トリュフェは、アミィを食事に誘うため井戸へ向かう。いつもならトロワが一緒だが、朝から馬を走らせていると聞き、不在だったので無視した。
リアンは、井戸にアミィが居ない事に気づき家に向かった。
「あれ?」
外の木桶に汲まれている水は、極僅か。つまり、今朝はまだ井戸へ行っていないということだ。
リアンは考えあぐね扉を叩いたが、返事はない。
「寝てるのか?」
「トリュフェ! アミィに限ってそれはないと思うけど、今夜が夜這いの初日でしょ? 緊張して昨夜眠れなかったのかな」
「確かに具合が悪そうだったな。今は寝かせておくか」
アミィを捜してやって来たトリュフェと二人で、代わりに水を汲み家の前に置いた。
ただ、二人共胸騒ぎがして顔を見合わせる。家に入ることが出来ないので、一応祈祷師と村長に報告をした。
働き者の彼女が家から出てこないなど有り得ないので、村長の嫁が家に入った。
「アミィ、大丈夫? 体調が悪いの?」
家の中は静まり返っている。
寝台が膨らんでいたので、顔を覗き込むため近寄り、悲鳴を上げた。
「大変、大変よ!」
金切り声を上げて家から飛び出してきた嫁に、村長は目を白黒させた。
「アミィがいないわ!」
寝台には束ねられた藁が置かれ、布団がかけられていた。
アミィが消えた。
事実は瞬く間に広まり、騒然となった。
太陽はもうすぐ真上を通過する。神託により、今日夜這いを実行せねばならぬというのに肝心の娘がいない。
前代未聞の一大事だ。
混乱が渦を巻き、祈祷師が呼ばれた。
その最中で、トリュフェはアミィの家を覗き込んだ。荒らされた形跡も、暴れた様子もない。彼女らしく、整理整頓されている。
「夜這いの掟を嫌悪し、逃げたのでは」
誰かがそう叫んだが、そんな度胸はないと皆が否定した。彼女は従順であり、嫌なことも顔色を変えず率先して行っていた。
誰かが連れ去ったのだ。
皆がそこへ行きつく前に、トリュフェは鬼のような形相で家に戻り馬小屋に飛び込んでいた。
最初から目星がついていたが、確信する。弟の愛馬クレシダがいない。そもそも朝からトロワの姿を見ていない。
「アイツッ」
頭に血が上り、自分の馬に跨ると鞭を打って駆け出す。
大地を這う蹄の音に、村人はそちらを見た。憤怒を宿した瞳で脇目も振らず村を飛び出していくトリュフェに声をかけたところで、止まらない。
それはまさに、暴風のようだった。
「なんということだ」
村長は唖然とし、乾いた声を絞り出す。頬を撫でる冷たい風が、皮膚を切りつけて消えていく。
夜這いのしきたりが始まって以来の不祥事だ。
自然が起こす災害は、神からの裁きであると信じられていた時代である。天罰が起きる事など必然だと思っていた。
確実に忍び寄る災厄に、村長は身も心も震えあがった。
「まだ可能性はあります。先程追っていったトリュフェがアミィを取り返し、今夜中に……」
「いや、しかしそれでは」
神託によるトリュフェの夜這い日は今日だが、それが上手くいったとしても次が控えている。何より最終日はトロワなので、三人揃って村に戻らねば成立しない。
しかし、すでにアミィが生娘ではない可能性がある。昨晩、トロワが手籠めにしていた場合、時すでに遅しだ。
村は喧騒に包まれた。
不気味な雲が、村を覆い尽くすように上空からゆらりと下りてきた。いよいよ天罰が始まったと、村人たちは戦慄し奇声を上げる。
「雲に乗ってやって来た神が、雷を落とす!」
立ち込めた雲が、人型に見える。雲間から指す太陽の光が、地獄の窯で燃える火に見えた。あれは、怒り狂う瞳だと。
「アンタんとこは、息子にどういう教育をしているんだい!」
遣り切れない悲壮感と怒りをトリュフェとトロワの両親に向けた村人は、口々に喚き始める。
そう言われたところで反論も出来ない両親は、地面に額を擦り付けて謝り続けた。
「生贄だ、生贄で神の許しを乞うしかない! 祈祷師様、どうしたら怒りを鎮められるか教えてください!」
村の中央に引き摺り出された祈祷師も、困惑した。
恐慌状態の皆は、聞く耳持たず。暴動が起きてしまうことは明白なほどに、怒り狂っている。
村長と目配せして、どうにか皆の精神を鎮める為に嘘の祀りごとを開くことにした。そうでもしなければ、こちらの身が危うい。
大急ぎで神への供え物を村の中心に集めると、火を起こし、榊の葉で“それらしい”陣をつくった。
皆が冷静さを取り戻せば、知恵を出し合うことも出来るのではないかと。祈祷師は出鱈目な言葉を並べたが、それらしく聞こえた。
そもそも、興奮状態の彼らは聞いていない。
「かしこみ かしこみ たてまつる
こちらの神酒を おくちのなかへと いれなされ
神酒は われらが魂を 三日込め 四日込め
あなたさまの おひざ元より たわまった
米と 塩にて つくりませり
大樽に 零れるほど つくりました神酒
今里は 響動む この山
千代に 拝んで 候えば
首尾よく 村を加護って 呉れ候」
村中から、続々と酒が集められた。思いつく限りの捧げもので、神の怒りを鎮めようと懸命だった。美酒に酔えば、災厄が延びるのではないかとも思った。
しかし、こんな祈りが届くわけないと、唄う祈祷師が汗を垂らす。その足元で、一匹の亀が手足を動かしていた。
先日、占いに使い、生きていた一匹の亀。
その亀で日取りを占った男はトロワだ。
祈祷師は何気なく亀を見つめていたが、唄を、そして呼吸をも止めそうになる。
甲羅に入った罅から、未来が視えた。
不自然な揺れに、アミィは瞳を擦った。肌を撫でる冷たい外気に気づき、脳が冴える。霞む瞳は、明るすぎる光を捕らえた。
「寒くないか」
問われ、おずおずと頷いた。怖くなって喉を鳴らし、震える声で訊ねる。
「トロワ? ……ここは何処?」
アミィの問いに、トロワは答えなかった。
横切る森の風景に瞳を走らせたアミィは、馬に乗って移動中だと気づいた。馬は、慣れ親しんだクレシダだ。
彼のたてがみに差し込む眩しい太陽の日差しに蒼褪め、大声で叫ぶ。
「禊ぎをしないと! 今日はトリュフェが」
「その必要はない、オレたちは村から出た」
言い放ったトロワの声は、普段とは違ってどこか荒れていた。一瞬怯み、身体を竦めたアミィだが引くわけにはいかない。
「で、でも、村の掟は絶対で、破れば災いが!」
「オレにとっての災いは、アミィが男共に蹂躙されることだ。それを回避して何が悪い」
濁すことなく口にしたトロワが、自分の身を案じてくれたことは解った。だが、これは大罪だ。
「戻りましょう、トロワ。まだ間に合う、貴方を罪人にするわけには」
「冷静になれ、掟を破ったくらいで災いを起こす神なんざいらない。そもそも、神など存在しない」
「な、なんてことを! それは神様への冒涜よ」
「冒涜でもなんでもいい、アミィが無事ならば。言っただろう、ベッカーがいた街には、そんな掟はないと。他の村か街へ行く、しきたりに縛られるのは馬鹿らしい」
「……そんな」
眩暈がして、アミィは口元を押さえた。禁忌を起こす要因になってしまった自分を恨み、熟れた果実のような唇は徐々に蒼くなる。
「駄目だよ、戻りましょう。トロワが咎められないように、私が説得するから。夜這いもきちんと受けてみせるから」
必死に縋るアミィに、トロワが怒鳴る。
「夜這いで何をされるのか、理解したのか!? 村は狂ってる、夜這いで伴侶を決めるだなんて。好いてもいない男と身体を合わせ“具合の良いのを選ぶ”だなんて、馬鹿げている。……お袋は何て言った? 親父も気づいているが、オレとトリュフェの父は、親父じゃない。オレたちは、お袋に夜這いをした誰かの子だ!」
子供の頃から、妙な違和感を覚えていた。本当の父は何軒か隣の男だと、気づいている。だが、夜這いの儀式の果てに母親が選んだのは、今の父親だった。
トロワとトリュフェには、弟も妹もいない。察するに、父には子種がないのだろう。
こういった男が、昔から村に存在したに違いない。ゆえに、馬鹿らしい掟が出来た。
子孫繁栄のためだけに。
気づいていても、当事者たちは『神が結んだ縁だ』とを一生、
「平穏な村が、街がある。オレと共に、そこへ行こう。普通の生活を送るんだ」
「夜這いについての説明は、トロワの母様から聞いたから、解るの。大丈夫だから」
舌打ちしたトロワは、やり場のない怒りを何処へぶつけてよいのか解らず、ただ愛馬を走らせる。
「どう聞いた! お袋は女として価値のあることだと説明したのでは? そんなもの建前だ、最初の男を受け入れる際に身体を貫く痛みの話はあったか? 男の舌や手がねっとりと身体中を這うことは聞いたのか? 何より」
荒げた声が、途端小声になる。
「アミィは……好きでもない男と一夜を過ごすなど、耐えられるのか」
二人は沈黙した。
決死の覚悟を顔に浮かべたトロワと、困惑したまま村へ戻ることを心の片隅に置いているアミィ。
馬のクレシダと共に、あてもなく森を駆け巡る。道なき場所を、追手から逃れるために進む。
途中、小川を見つけたので馬から降りた二人は、トロワが持ってきた干し芋を齧った。喉は川の水で潤し、寒ければ酒で温まった。ひょうたんに入れられていたそれは、アミィが丹精込めて作った果実酒だ。
トリュフェが好きだと言ってくれた、糖分が高いもの。
会話を交わすことなく食べ終えると、トロワは再びアミィを抱えて馬を走らせる。
トロワの懐には、僅かばかりの金があった。村の者たちが躍起になって捜していることは分かっている、藁で細工をしたが、運が良くても昼過ぎには露見する。
夜這い初日である今夜さえ乗り切れば、どうにか逃げ切れるのではないかと思っていた。
ただ、神の怒りを鎮める生贄として選定された場合は連れ戻される可能性がある。