外伝2『始まりの唄』9:遭遇
文字数 4,143文字
アリアは夕暮れ時の空を見上げ、軽く溜息を吐いた。野菜を大事に抱え、帰路を急ぐ。普段はトバエと共に行動しているが、近所へ野菜を買いに行くだけなので今日は一人。トバエは「付き添う」と言ってきかなかったが、雨漏りの修理を中断するまでもないと、懸命に押し止めた。
「もう、過保護なんだから。いつまで経っても、私を妹扱い」
苦笑しつつも、このまま仲良く生涯を閉じることが出来たら幸せだろうと頬が熱くなる。
人から『飽きない?』『嫌いな部分はない? 喧嘩はしないの?』とごく稀に尋ねられるが、そのような感情を持ったことは一切ない。
トバエはアリアにとって、なくてはならない存在だ。
「おかーさん! 今日の夕飯はなぁに?」
「秘密よ」
子供と母親が、手を繋ぎやって来た。
擦れ違う際、アリアは一瞬寂しそうにそちらを見た。そして、自分の腹を擦る。『お子さんはいないの?』『まだ若いものね、これからかしら』そう言われる度に、胸が苦しくなる。どのようにして子を授かるのかは、知っている。毎晩、いや、毎日のように“子作り”をしているというのに、授からない。
トバエは「楽器を購入し、村に戻るまで待っていてくれるのだろう。母体に負担をかけないよう、オレ達の子は配慮してくれているんだよ」と慰めてくれるが、果たして本当にそうなのだろうか。原因が自分にあるのではないかと、不安になってしまう。
「だ、だって、私達は毎晩、何度も……数年前から、ずっと」
初めてトバエと繋がったのは、十二の時。経験が早過ぎて、身体が未熟なままなのではないかと、項垂れる。村に居たときは気にも留めなかったが、街へ来て話を聴くと、大体娘らは十五・六で子を産むという。
田舎とは違う情報量の多さに、今まで培った自分の経験が簡単に揺さぶられ、困惑する。
木々が、囁くような葉音を立てた。
アリアは再び空を見上げ、憂鬱な気持ちを体内から追い出すように深い溜息を吐く。
すると、真冬のような寒さを痛感した。背後から這い寄る何とも言い難い不気味な感覚に震え、慌てて振り返る。
しかしそこには、何も、いない。
胸を撫で下ろし、これだからトバエにからかわれるのだと肩を竦める。
「こんにちは、美しい空ですね。沈みかける夕陽を浴び、お嬢さんの顔が茜色に染まっていますよ」
声をかけられ、驚いて小さな悲鳴を上げた。全神経がピリピリと張り詰め、肌が粟立つ。
何時の間にやら、真正面に人が立っていた。漆黒の頭巾で瞳は覆い隠され、怪しく微笑む口元だけが見える。声と体格から男だと判別は出来たが、全く知らない人物だ。戦慄が身体を突き抜けたように、足元がふらついてしまう。
「こ、こんにちは。そうですね、とても綺麗な空ですね。陽が黄金色に輝いています」
アリアは、怖気づきながらもそう返答した。
彼が羽織っている外套は、珍しい光沢のある漆黒。余程高級な染物なのだろうと感嘆しそうになったが、見ず知らずの人の衣装をまじまじと見つめては失礼だ。織物が趣味なので興味を持ったが苦笑し、軽く会釈をすると後退する。
しかし、男は数歩前へと歩み寄った。
離れた二人の距離は、再び近づく。
困惑したアリアは、不思議そうに男を見上げた。背丈は、トバエよりも多少低く感じられた。形の良い唇は厳めしさを湛えているようで、それでいて人を小馬鹿にしているような。何処か官能的な雰囲気を醸し出しているようにも見え、恐れ戦く。言い知れぬ不安に、眉を寄せる。
「どうしました、怯えて」
「あ、いえ、失礼ですよね。ごめんなさい。その、高貴なお方に見えますので、何故声をかけてくださったのか、と」
たどたどしく伝えるアリアは、また数歩後退した。
しかし、その度に男は大股で近づいてくる。
「まるで、情欲に浮かされた娘の様に顔が染まっている……。こうして男を誘うのですか、卑猥なお嬢さん?」
「え?」
何を言われているのか解らず、アリアは狼狽した。しかし、よくよく考えて理解し、顏が真っ赤に染まる。そのような侮辱の言葉を投げかけられたのは、初めてだ。沈黙したものの、沸々と怒りに似た羞恥心が込み上げてくる。
「な、何をっ」
「これは失礼。……逢魔が時、という言葉をご存知で? 不思議な色合いに引き寄せられた魔物に遭遇してしまう、恐ろしい時間帯の事ですよ。丁度、今時分です」
アリアは、背筋が凍る思いだった。ぞっとするその声色に、足が震えるほど恐怖する。目の前の男が、本当の化け物に思えた。
「ひゃっ」
背中が、硬くて冷たいものに触れた。慌てて振り返ると、ジリジリと逃げていた為街路樹にぶつかってしまった。
木の葉が、揺れる。警告するように、唄う。
「フッ……」
不意に男が嘲笑したかと思えば、右手が伸びてきた。
「っ!?」
強引に顎を掴まれ、上に向けられる。
「な、なにっをっ」
「……成程、人気の歌姫は確かに見目麗しい。しかし、磨けばより光り輝くだろう。そのような貧相な衣装に身を包み、ありきたりな食事で飢えを凌いでいてはいけない」
振り払おうと身を捩るが、左腕は男によって木に縫い留められる。囲われたように逃げ場を失い、アリアは悲愴な吐息を漏らす。
一体、この男は誰なのか。
「まぁ……清純そうに見えながら、色欲に溺れたその瞳は磨かずともそのまま、か」
「えっ!? あ、貴方、先程から失礼ですっ」
またも侮辱され、アリアは半泣きで反抗する。しかし、最後、噛んでしまった。
男は軽く鼻で笑うと、蒼褪め縮こまっているアリアから数歩離れる。
「楽しいひと時だったよ、お嬢さん」
解放された事が分かると、アリアは唇を噛み締めた。胸の前で野菜を抱えながら、震える腕に爪を立てる。
「わ、私はお嬢さんではありませんっ、これでも人妻です! い、一体貴方はっ」
その問いには答えず、男は華麗に身を翻した。大股で立ち去りながら、片手を上げて軽く振っている。
木にもたれこむように身体を寄せたアリアは、冷静になろうと深呼吸を繰り返した。相手は同じ人間だというのに、心臓が凍りつくほどに怖かった。
あのような人間に、初めて出遭った。
まだ、心臓が跳ね上がっている。恐ろしい目に遭ったが、トバエに報告すると、今後一人で出歩けなくなってしまう。心配性の彼は、何処へでもついてくるだろう。重荷には、なりたくない。
耳の奥の血管が、ドクドクと妙に速く脈打つ。極度の緊張がそうさせているのだろうと思ったが、ふと、気づいた。
「あの人……誰、だっけ……」
風が、地上から空へ吹き上がる。
あの男を、知っている気がした。
全く知らない筈なのに、逢った事などない筈なのに、あの芝居がかった嘘の口調はともかく、声に聞き覚えがある気がした。
聞き覚えがあるどころか、待っていたような気さえしてくる。
心が、風で揺らされている木の葉と同じ様にざわめく。
さわさわ、ざわざわ。
触れられた顎に、指を滑らせる。
「だぁれ?」
鼻先に残った、その男の香り。
アリアは、虚ろな瞳で消えた男に問いかける。恐ろしくも、忘れられない。二度と遭う事はないだろうに、そう思うと胸がチクンと痛む。
若干トバエに似ていたからだと、懸命に言い訳を作った。
「忘れなきゃ……。へっき、“あの人”にはもう遭う事がないもの」
虚ろに呟き、ふらつく足取りで家へ戻る。家には、夫のトバエが待っている。そう思うだけで、心は不安から解き放たれた。
深い溜息を吐き、トダシリアは外套を荒々しく脱ぎ捨てた。熱い呼吸を繰り返し、ズキズキと痛む胸を押さえる。
「あの情婦めっ! 傍に近寄っただけで、あれかっ」
見つけた瞬間、欲望で身体が強張るのを感じた。戯れでアリアに近づいたものの、其の場で身体を奪ってしまいたい本能に抗う羽目になった。
先程、アリアの前に姿を現したのはトダシリア。
あれは、本当に偶然だった。
アリアを捜していたわけではない、ただ、気分転換で外出していただけ。しかし、鼻先をくすぐる甘い香りに引き寄せられ、一人でいるところを見つけてしまった。何処となく憂いを帯びた表情に、心を掻き乱された。
「くそっ! どうしてくれるっ」
身体中が、否応なしに火照る。
みすぼらしいそこらの娘なのに、一流の娼婦に思えたアリアを思い出すだけで、どうしようもなく身体中が彼女を欲する。
トダシリアは、青筋をたてながら吼えた。
飛んできた家臣は全てを承知したように、問う事もなく無言で引き下がる。そして、代わりに豊満な胸を惜しげもなく曝した美女が、蠱惑的な笑みを浮かべてやって来た。
熟知しているのだろう、美女は腰を振りながらトダシリアに近づき、しなやかな腕を首にまわした。情熱的な求愛の舞いを披露するように下半身をくねらせ、密着させる。これから先の情事に心を躍らせ、目の色を変えた。巨額の金が頂けるうえに、容姿が整った男が相手ならば申し分ない。浮足立っても仕方がない。
「……興醒めだ、安っぽい誘いには乗らない」
けれども、身体の芯が熱く火照り出した女に反し、トダシリアは冷徹な声を漏らした。
怒気を含んだその声に一瞬で凍り付いた女は、大きく瞳を見開く。ガクガクと揺れる身体から、生気が失われていった。
「男を誘うなら、もう少し頭を使え」
吐き棄てる様に告げ、女の心臓を一突きにしていた短剣を引き抜く。鮮血が吹き出し、滴り落ち血だまりが出来る。
「フゥ……こんな女でも、多少は役に立ったか」
鉄の臭いが部屋に漂うと、反応して萎えた。一応、身体の疼きは解消されたので薄く微笑む。
「アレを見てしまった以上、オレの疼きはアリアにしか止められない。……さて、どうやって狩り、調理しようか」
ククク、と残忍な笑みを零し、トダシリアはすっかり陽が落ちた街を見つめた。この街に、アリアがいる。
狩りは、いつでも出来る。