紙一重
文字数 5,615文字
ハイは固唾を飲み込み、我に返る。アサギは魔王ハイに対し、陰鬱で残虐な心象を抱いていた。自身も勇者アサギは、人間の味方であり、つまりは敵だと認識していた。
アサギら勇者は、過去の功績からそう呼ばれるわけではない。突然勇者として召喚され、仲間達の話を聞き、当然悪事を働く魔王に矛先を向けた。魔王討伐の為、真実を知らずに旅立った。
本来ならば、勇者と魔王はこの地で対峙しただろう。だが、魔王ハイが勇者アサギに一目惚れをし、拉致したことにより、その不毛な未来は免れた。互いを知り、誤解を解けば、親密に共存することも容易い。
確かにハイは、惑星ハンニバルを壊滅状態においやった暗黒神官魔王。その事実を隠ぺいする事も、覆す事も出来ない。
けれども、こうして魔王と勇者は出逢い、語り合う。
「私、人間が嫌いです。勿論、人間に良い人も大勢います。でも、悪い人達だってたくさんいるのです。人間が嫌いなんじゃなくて、単に……悪い人が嫌いなのかな」
「あぁ……分かる、分かるとも」
過去の自分を見ているようで胸が刺すように痛みだしたハイは、目の前のアサギを瞳を細めて見つめる。だが、二人には決定的に異なる点があった。
魔王への一歩を踏み出したあの時、ハイには信頼できるニンゲンなど一人も存在せず、全てを悪と決め付けた。
しかしアサギは、人間を信じてもおり、人間である自分を嫌悪しつつも、全てを否定していない。
ハイは、断固として生の輪に不要であり、醜悪な存在だと認識した。
「そうだな……私が魔王と呼ばれることになったワケを話そう」
声に僅かな緊張の響きを含め、ハイは開口した。
「私は、惑星ハンニバルの神官の家系に産まれたのだよ。そして厳しい勤勉と教養の中で育ったものの、不自由さは感じなかった。行く末は親の後を継ぎ、立派な神官になると信じて疑わなかった。私が路を逸れたのは、人間の“悪”、いや“負”の部分を垣間見てからか。あの日私は、一人散歩に出ていた。あぁそうだ、丁度アサギと同じ年頃だったように思う」
こうして、魔王は語り出す。
ハイはアサギの頭部を撫でながら、ゆっくりと瞳を閉じた。微かに瞼が引きつる。記憶の片隅に追いやった、思い出したくないあの日の出来事が鮮明に甦る。
「池があった」
唇を嘗めて湿らすと、封印していた過去を紐解く。
「深くも、浅くもない池だ。大きな葉が浮かび、鮮やかな花が中央で咲き誇っていた。近くの大木は悠々と大地に根を下ろし、それは見事なものだった。何処からでもよく見える木の為、皆はそれを目印としていた。雨宿りも出来たな、動物達が逃げ込み、遭遇する事もあったよ。種族を越えた、憩いの場だったかもしれない。もし、大地の女神が存在するならば、あの大木に宿っていたに違いない。小高い丘を越えれば、池が見える。澄んだ色合いの池には多種多様の水鳥も寄ってくるから、それも、楽しみの一つだったな」
じっと、耳を傾けているアサギの表情は誰からも見えない。ハイの広い胸に、すっかりと埋もれてしまっている。
「池の周囲に数人の子供がいた、子供、と言っても私よりも年上だった。楽しそうな笑い声が聞こえてきてね、水遊びをしているのだと。少々騒がしかったが、混ぜてもらおうと思った。だが、虫の知らせというべきか。胸騒ぎと、空気の振動を感じ、私は上空を見上げたよ。池の上で、二羽の鳥が舞っていた。親鳥が雛を育成する時期だったから、子供達に怯え、巣に戻れず餌が与えられないのだろうと……そう、思ったのだ」
アサギの身体が、硬直した。真実を予測し、怒りと悲しみから僅かに震え始める。
ハイは、落ち着かせるようにアサギを優しく抱き締めた。自身をも、落ち着かせるように。二人の温もりが、混ざり合う。怖がることは何もないのだと、言い聞かせる。今までは、思い出すだけで腸が煮え繰り返り、目の前の物を破壊してしまった。
「その子供、達は。鳥の巣を池に浮かべ、遊んで、いた」
アサギは小さく悲鳴を上げ、ハイの服にしがみ付いた。
嗚咽を聞きながらハイは遠くを見つめ、あの日の光景を思い出し淡々と語る。
「私は、助けようと走った。けれども、目の前で巣は儚く池に沈んでいった。勿論、巣の中には飛べない雛達がいて、懸命に親を呼んで鳴いていたよ。だが、それだけではすまなかった。彼らは次に、上空を飛んでいる親鳥目がけ、石を投げ始めた」
ハイの瞳に憎悪の光が灯る、あの日の殺意が揺さぶり起こされる。身体中の血が沸騰する、耳元で『くだらない世界を破壊しろ』と、誰かが囁く。怒りを押し殺す為、腕に爪を立てて足搔いた。
無益な殺生を止めさせる為、奇声を上げ少年に飛びかかった、あの日。
「私は、気付けば気絶していた。どうやら返り討ちにあったようで、身体中が軋み、痛み、顏は腫れ上がっていた。その場に残されたのは無力で惨めな私と、石に潰され地に落ちた親鳥と。狂ったように起き上がった私は、無我夢中で池に飛び込み、冷たい池の底で息絶えていた雛鳥だった。三羽、いた」
「赦さないんだから……!」
アサギの怒気を含んだ絶叫が、周囲にこだまする。
森が静まり返っていたのは、その鳥達を偲んでか。
腕を振りほどこうと渾身の力で暴れるアサギを、ひどく冷静なハイが抱き締め続ける。
……あぁ、昔の自分が目の前に。
ハイは、自嘲気味に笑った。
あの時、誰かに自分もこうして欲しかったと思い、空を仰ぐ。無情にもあの日と同じ様に、空は澄み切った青色をしている。
ハイに出来ることは、あの日の自分が渇望したことをしてあげること。強い腕で、「大丈夫だ」と、安心させるように抱き締める。泣きじゃくるアサギの背中を擦る。
傍に、味方である誰かがいることを、覚えておいて貰う為に。人の温かみを、忘れない為に。
「私はその後、鳥の亡骸を大木の根本に埋めた。辛うじて一羽の親鳥は息があったので習いたての回復魔法を使い、自宅に持ち帰って世話をした。侘びにもならないが、せめて助かった命だけは救いたかった。回復し飛び立った鳥を見送ってからというもの、私は人間の醜悪な部分を探す癖が出来てしまってね。本来ならば人々を安息させる身でありながら、視線を変えれば堕落した神官達で溢れていた。無論、私の両親もそうだった。誉れ高い親だと、誇っていたが、違っていた。それで、人間不信になってな。自身も同じ人間である事を恥じ、あの鳥の様に大空に舞いたいとさえ、願うようになった。人間、という自分から逃れたかったのだ。出来るわけがないのにな」
喉の奥で皮肉めいて嗤うと、髪をかき上げた。
「その結果、人間を殺戮し今の魔王に至る。全ての人間を惨殺したところで、どうなるというのだろう。だが当時、それが自分の全うすべき使命の様に感じていたのだよ。愚かにも。……私が何故、魔王となったか。これが答えだ、勇者アサギよ」
乱された心の平衡を取り戻すため、自然と笑みを零す。アサギの顎に手をかけ、上を向かせた。ハイの瞳に、涙で真っ赤になった痛々しい瞳が飛び込んできた。苦痛に悲痛、そして憤怒の籠もった曇りのない真っ直ぐな瞳に惹きつけられ、そっと指で幾つも零れ落ちる涙を掬う。
「私を止めることが出来る、信頼できる者など……父も、母も、友人も、あの時には誰一人として存在しなかった。私が関わりを隔て、そのようなもの空虚な偶像であり、存在しないと決め付けてもいたからな。もし、誰か一人でも傍に居てくれたら。その者が止めていたらば、魔王の私はいなかっただろう。しかし、不謹慎だが後悔はしていない」
しゃっくりを上げているアサギを、優しく覗き込む。
「なぜならば、魔王になり、惑星クレオに来ていなければ。アサギ、そなたに出逢えなかったろう。私の人生の、唯一の光に。今、ここに誓おう。魔王であれ、勇者であれ。そんなものは関係ない、私達は……その、友達になれるだろう? いや、友達だろう? 勇者と魔王ではなく、アサギとハイ、で考えておくれ」
ハイは、自身に念を押す為“友達”を強調した。友達でよい、恋人の肩書など望まない。目の前の小さな存在が、いつも笑っていてくれるのであれば。
「私も……酷い事をしたものだ。鳥は庇ったのに、同じ命を持つ人間は庇わなかった。命は、平等だと習ったのに。彼らがしたことは今でも赦せないが、咎めて懺悔させるべきだったように思う。惑星ハンニバルの住人には酷い事をしてしまった。私と同じ思いを抱く人間も、間違いなくいただろうに。今だからこそ、そう思えるよ。まずは、魔王と勇者の隔たりをなくそう。こうして胸の内を明かし、語り合って歩み寄り」
「無理だと、思います」
ハイを遮り、鋭いアサギの声が響いた。
驚いてハイが瞳を大きく開く、まさか真っ向から否定してくるとは思わなかった。
「無理です。必ずどこかで歪みが起きるっ、私はそれを、知っている!」
その遣り切れなさが、身体中で暴れる。
「私の住んでいた地球だって。産まれ立ての子犬や仔猫を川に捨てたりとか、首を切ったりとか、ゴミの日に出したりとか、玩具の標的にして遊んだりとか! もちろん、酷い事をしない人だっていますよ、でも、どうしても一定数存在するんです! 人間だけじゃない、きっと、魔族の中にもどうしても他種族を受け入れられなくて、非難する人だっている。誰しもが、自分達と違うから、恐怖に怯えて廃除したくなる。人間同士でも差別が産まれるのに、他種族と仲良くだなんて、夢物語です。どうにかしたいのに、どうにもならなくて、何をしたらいいのかも解らない! 一応勇者なのに、出来ないって思ってしまうの!」
興奮しているアサギは、喉の奥から声を振り絞って叫んだ。
ハイが初めて見る、アサギの取り乱した姿だった。無言で抱き締めるほか慰めようすがなく、気の利かない自分に腹が立つ。アサギの気持ちは解っているから、恐らく他にも同じ様に思う“存在”がいるから、と必死に伝える。
無理だと思い込んだら、そのままだ。結果は目に見えている。
変えたいのならば、死に物狂いで足搔くしかない。例え、絶望に打ちひしがれたとしても。
ハイは、気の済むまで泣き続けるのを見守り続けた。
どのくらいの時間が経ったのか、ようやくアサギが歯を食いしばって顔を上げる。
「ごめ、ごめん、な、さい……すみま、せんっ」
「気にしなくて良い、身体に溜め込んでは身体に障る。こうして発散せねば」
まるで真綿に包むかのように、柔らかい声を出し、ハイはアサギに微笑んだ。時折大人びて見えるが、やはり、まだ子供だと頬を軽く指先で突く。絹の様に滑らかな輝く黒髪を摘まんで弄んでいると、咽ながら「ごめんなさい」と謝罪を繰り返し始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」
両手で懸命に涙を拭きながら連呼するアサギに、眩暈を覚える。無意識に誘いかけてくるような、官能的な泣き顔に喉が鳴った。このままサクランボのような唇に口付けしたい衝動に駆られ、懸命に両足を踏ん張って耐える。媚薬の効果が残っているのか、それとも本能か。
「そ、そろそろ陽が落ちてきた、身体を冷やしてはよくない、着なさい。帰ろう、今日は、その、あまり楽しくなかっただろう? ゆっくりおやすみ」
情欲に支配されないようにと、ハイは慌てて立ち上がりアサギの上着をとって来た。乾いていたそれを肩にかけ、邪な思いを悟られないように苦笑する。
アサギは激しく首を横に振り、否定した。
「しょ、しょんなこと、ないです! た、楽しかった、ですっ。と、とても! 私こそ、ハイさまを、困らせてしまってっ」
呂律のまわらないアサギが可愛らしくて失笑したハイは、あやすように頭を撫でた。
「気を遣わせてしまったな、ありがとう。また一緒に来よう、いつでも何度でも、好きな時に」
小さく頷いたアサギを背負うと、歩き出す。
「眠っていなさい」
「あ、歩けます! 大丈夫です」
「いや、泣くというのは結構体力を消耗するものだ。遠慮せず、眠りなさい」
「……はい、ありがとうございます」
少々考え込んでいたアサギだが、小さく頷くと欠伸を一つ零した。瞳を閉じ、ハイの背にしがみつくと数分で眠りに落ちた。
安堵したハイは、周囲の木々を見つめながら歩き出す。アサギは軽い、負担ではない。自分に心を許していることが分かり、それが純粋に嬉しい。
栗鼠が木々を走り回っている、立ち止まって、彼らを見送る。
「元気一杯なところが、アサギにそっくりだ」
薄く微笑すると、次いで兎が道を横切り一目散に何処かへ走っていった。
「あぁ、なるほど。兎か。ふわふわでぴょんぴょんはねる仕草が可愛らしい。栗鼠と違ってどことなく色気すら感じる。……おや? ウサギ? アサギ? はは、名前もそっくりだ」
今回の件で二人の仲は急速に縮まった気がして、心が通い合ったようでハイは幸福を噛み締めている。心の奥につっかえていた棒が、アサギに話したことで溶けて消えた。誰にも話す事がなかった、自分が暗黒面へと堕ちたあの日を、ようやく開放した。
罪を認め、悔いた。
晴れ晴れしい表情のハイだが、問題が発生していることに気づいていない。
アサギの白い首筋には、幾つもの紅い点が消えずに残っている。
そうして、月の輪郭がはっきりと見える程、夜の帳が降りて来た。
――アサギ様。本日口にした言葉、お忘れなきように。
星の瞬きと共に、声が聞こえる。