外伝6『雪の光』7:道中
文字数 3,795文字
賑わいが消えた室内に鼻を鳴らしたトシェリーは、アロスを軽々と抱え会場を後にした。支払いは、すでに側近が済ませている。
物陰から様子を窺っていたアロスについていた女達が、我先にとトシェリーに擦り寄った。しかし、生憎興味を持たれなかったようで見向きもしない。解っていはいたが、この仕打ちに項垂れた。
そして、最後の頼みであるアロスに縋るような視線を向ける。この場で人身売買が行われ、彼女が落札されたことは理解した。忸怩たる思いで、仮面の男を追いかける。この男が凡人でないことぐらい、女達にも解る。そして、瞳しか見えないが相当な美形だということも。顎の形や、通った鼻筋、すらりとした身体つきに、珍しい紫銀の髪が映える男。
女達は、このような状況下でもアロスを羨望の眼差しで見つめた。これからどうなるのかは、女達がよく知っている。しかし、脂ぎった厭らしい中年男に買われた訳ではないのだから、羨ましいものだった。ここまで稀有な美丈夫が初めての相手ならば、どうにか諦めもつく。
男に、妙な嗜好がなければだが。
アロスは女達の視線に気がつき、トシェリーの外套を掴んで揺すった。顔を覗きこまれると、後方の女達を指差す。
「ぅ、あ……」
眉を顰め必死に唇を動かすが、声は出ない。
「知り合いか? だが、連れて行くことは出来ない。女は後宮に溢れている」
後宮という聞いたことがなかった単語に首を傾げたアロスの髪を撫でると、トシェリーは肩を竦めて笑った。
「解らないか。……だろうな」
優しく額に口付け、頭を撫でる。トシェリーは軽く溜息を吐くと、ようやく女達を一瞥した。冷ややかな瞳を走らせると、媚びたような笑みを浮かべ涙ながらに訴えてくる。付き人の仕事を失えば、不遇が待っていることは察した。取り繕ってはいるが、着ている物は薄汚れた安物。何処かで雇われた一文無しの女達に、皮肉めいて嗤う。アロスにあてがうには不釣合いだと、あからさまに馬鹿にした。
トシェリーは女達から視線を逸らし、そのまま足を進める。けれども、まだアロスは身動ぎし、必死に何か伝えようとしている。大きな瞳で訴えられると、心が揺らいだ。眉間に皺を寄せ、耳元で囁く。
「案ずるな。連れ帰ることは出来ないが、善処する」
アロスは胸を撫で下ろし、頭を下げた。開いたばかりの薔薇の花びらのように、可憐で華やかに柔らかく微笑む。そして、なんて慈悲深い御方だろうと感動した。
「気にするな、大したことではない」
喜びを瞼に浮かべているアロスに満足し、薄く笑ったトシェリーは用意されていた馬車へと乗り込む。
馬車は走り出し、降り始めた雪の中に消えていった。
トシェリーは、女達のことなど忘れていた。そもそも、助ける気などなかった。何故赤の他人に、しかも自分に有益をもたらさない者に金を使わねばならないのか。
馬車をいつまでも見送っていた女達は、遣いの者が来るかもしれないと、今にも千切れそうな糸を掴む気持ちで待ち続けた。だが、身体に雪が積もり始めた頃、結局棄て置かれた事を受け入れた。救いの手などなかった。泣きながら再び、路上で身体を売る。少なくとも、自分達より良い思いが出来るであろうアロスを羨みながら。
慣れた馬車に深く腰掛け、用意されていたワインとマスカット、それにチーズを満足そうに見ると、ようやくトシェリーは仮面を外す。深紅の仮面を控えていた従者に渡し、前髪をかき上げ小さく溜息を零した。隣りに大人しく座っていたアロスと視線が交差すると、見る見るうちに薄桃の頬が朱に染まったので薄く微笑む。
アロスは、熱を帯びた頬に動揺して俯いた。想像以上に、整った顔立ちの男で驚いた。今まで見た異性の中で、一番綺麗だと思った。自分の傍で護ってくれていたトリフも非常に端正な顔立ちをしていたが、それ以上だと。
もとより、比べるものでもない。瞳を見ていると、胸が高鳴る。動作を目で追うだけで、頬が熱くなる。その仕草一つ一つが、胸を掻き乱す。
「…………」
しげしげと見つめていると、トリフと同じ髪と瞳の色であることに気づいた。雰囲気も、何処となく似ている。それですぐに心を許せたのだろうか、と思いつつも二人は決定的に違う。トシェリーが動き、少し空気が揺れるだけで、どうしようもなく心と身体が反応する。何か不思議な力がその場に漂っているようで、平常心が保てなくなる。
このように言葉にしがたい気持ちをトリフに抱いたことはなかった。これが何か解らず、動揺する。アロスは軽く胸を押さえてトシェリーをそっと見つめた。姿勢を正し呼吸を整え、震える手を膝に乗せる。
「会話もままらなぬ娘では、退屈でしょう」
従者がそう告げたが、トシェリーは喉の奥で笑い首を横に振った。
「いや、口やかましいだけの女より、断然愉快」
淡白で腰のあるワインに舌鼓をうちつつ、トシェリーはアロスを引き寄せる。
「ワインは?」
勧めたが、アロスは首をぎこちなく横に振った。代わりに炭酸水を渡すと、嬉しそうに微笑み飲みだす。コクン、コクンと喉が動く様を、瞳を細めて見つめていた。
「菓子はどうだ?」
自分では口にしない砂糖と蜂蜜で焼き上げられた菓子を摘まみ、口へと運ぶ。アロスはスンスン、と鼻を引くつかせてから瞳を輝かせ、トシェリーを見上げた。食べたいけれど、人の手から口へ運ぶのは行儀が悪いと思っているらしい。どうしてよいのか分からず身動ぎしていたので、「口を開けて」と、優しく囁いた。
戸惑いながらも桜桃色した唇が開くと、トシェリーは菓子を咥えさせる。菓子が、口内へ吸い込まれるように入っていく。そうして、ゆっくりと咀嚼するたびに頬が動く。
トシェリーは、名画を品定めするように見つめていた。菓子が喉を通っても、アロスは口内に残る甘さの余韻に浸っているようでニコニコしている。
「可愛い奴」
菓子を与えただけで、こんなに振起するのは初めてだった。トシェリーは行儀よく膝に置かれていた手に触れ、指全体を絡めていく。驚いて目を白黒させているアロスを愛おしそうに見つめ、耳に口付ける。
「っ!?」
硬直したアロスの反応を愉しみつつ、形を憶える様に指を撫で、掌を包み込み戯れる。時折身体を引くつかせ、悩ましげに眉を顰めるさまに興奮した。声を出せないとはいえ、見た目も仕草が可愛らしいので退屈しない。
二人は、馬車の中で身体を寄せ合う。
アロスは、菓子を数個頬張った。すると、腹が一杯になり眠気に襲われる。船を降りてから、一時も心休まる暇がなかった。そのことも手伝って、思った以上に身体と心が疲弊している。しかし、トシェリーに出逢ってから張り詰めていた緊張の糸が切れた。身体中の力が抜けて、ゆっくりと瞳を閉じる。
もう、心配することはないのだと。目の前のこの綺麗な男を、
微睡んでいたが、袖口から指が侵入し艶めかしく腕を擦られたので一気に目が覚めた。熱い指先が、くすぐるように円を描いている。気が動転し身体を跳ねのけようとしたが、肩を引き寄せられ逃げるどころか胸板に押し付けられた。
競売場で抱き締め合った時を思い出し、眩暈がする。身体の奥が燃えるように熱く、悩ましさから慌てて瞳をきつく閉じた。
「ほら、眠いのだろう? 安心して眠るとよい。宿に到着するまで、時間がかかる」
言われて見上げると、トシェリーが優しく微笑んでいた。腕に触れていた指が離れていたので胸を撫で下ろし、おずおずと頷く。視線が交差すると、にっこりと微笑んで頭部を撫でられた。そこからするすると耳を指で弄られ、くすぐったさに身を捩る。
「実に好い反応をする……」
揶揄うように告げながら、トシェリーはなすがままになっているアロスにほくそ笑んだ。頬を撫でると、陶磁器のように滑らか。衣装の下はどうなっているのか、興味が湧く。純白のドレスのみでは寒かろうと毛皮を羽織らせたが、どうしようもなく中が見たい。
カタン、トトン。
恥ずかしそうに身を捩っていたアロスを視姦していたが、馬車が小刻みに揺れるので眉を顰めた。小窓から外を見るが、雪の為何も見えない。しかし、舗道に不備があることは確か。石のように固まった雪が、車輪の邪魔をしているのだろう。
ガタガタと揺れる馬車に、アロスも窓を見つめる。
「これでは眠れないか」
眠気など、とうに冷めている。アロスは唇を真横に結び、どうしてよいのか分からず俯いた。
「どうした、寒いか? では、こうしよう」
反応する間もなく軽々と抱き上げられ、膝に乗せられる。幼い頃、父の膝の上でよく眠っていた。けれど、その時はここまで心臓が跳ね上がることは無かった。
「……っ?」
アロスは頬を赤く染めつつも、包まれている温もりに安堵し顔を埋める。トシェリーの匂いがとても好きだと思いながら、鼻を鳴らす。
暫し、二人はそのまま身体を寄せ合っていた。互いの温もりを感じながら、鼓動を聞きながら。
「あぁ、こうしていると本当に暖かい。けれど……どうせなら、
トシェリーはアロスの首筋を、ゆっくりと指でなぞった。露出している部分を惜しみなく愛撫し始めると、自分の腕の中で過剰に反応する。
「宿まで我慢するつもりだったが……仕方がない。責任をとってもらおう」