予期せぬ……
文字数 5,157文字
憐れむようにこちらを見ているアリナとクラフトに言葉をかけようとするが、名前と顔が一致していないので口籠る。
「ご愁傷様でした。傷は治しましたが、暫し安静にされたほうがよろしいかと」
「気に障ったらごめん、稽古なら他に頼めば? ボクが相手してもいいよ」
気遣う二人に引き攣った笑みをぎこちなく浮かべ、トランシスは首を横に振る。ズキン、とした重い痛みが脳に走り、大きく顔を歪めると膝を抱えて蹲った。
回復魔法を施したとはいえ、すぐに本調子に戻るわけではない。傷によってはどうしても安静が必要になる。
「トビィを足止めしてくる。ついでに水貰ってくるよ、待ってな」
励ますように優しく声をかけたアリナとクラフトは、急いで館へと向かった。
足音が去り、人気が消えるとトランシスは深呼吸をする。一人が心地良い。
そして思い出した。トビィに呆気なく敗北したことを。
わけもなく怯え、同時に怒りが込み上げる。
「強く、ならないと。アイツに、勝たないと。獲られる、盗られる、奪われる。強く、強く、強く、強くならないと。……逃げられる」
顔を上げる。
虚無の瞳と、抑揚のない呟き。「盗られる、逃げられる」を連呼していたトランシスは、背後から近づく人影に気づくのが遅れた。
間近に迫ったところで反射的に振り返り、獰猛な獣のようにギラついた瞳で腕を薙ぎ払う。
「キャッ」
「ぁ……」
金の髪が揺れ端正な顔立ちが驚いて歪み、煌びやかな衣服が風になびいた。
左腕を押さえて小刻みに震えているガーベラに、トランシスは我に返る。
「ご、ごめん! びっくりして反射的に」
トランシスの爪が、皮膚を引っ掻いた。傷は浅いが、予期せぬ痛みに驚きを隠せないガーベラは茫然と佇む。
ガーベラは近くの教会で開かれた孤児たちの食事会に出向き無償で歌っていたが、終わったので戻ってきたところだった。すると、蹲っている男がいた。
トビィと、同じ色の髪。
アサギの恋人であると気づき、無視して通り過ぎる事も出来ず声をかけるために近寄ったのだ。
白い華奢な腕を押さえている姿に焦燥したトランシスは、勢いよく立ち上がった。クラリと脳が揺れるが、一応善悪の区別はつく。全く関係のない人を傷つけたことに、責任を感じる。
「ごめん、怪我を」
「気にしないで、驚かせてしまった私がいけないのだから」
「そう言われても気にするよ……ええっと」
営業用の笑みを浮かべたガーベラは、困惑しているトランシスに再度名乗る。
「ガーベラよ」
以前挨拶を交わしたが、彼は憶えていなかった。だが、不満はない。自分はここに住む仲間とは違い、戦力外の
「あぁ、そうそう! ガーベラさんだ、綺麗な人だなぁって思ってたよ、うんうん。で、君も仲間なの? 強そうに見えないけど」
絶対に忘れていただろうが、軽く笑ってごまかしたトランシスの表情はとても幼く見える。自分が接してきた客とは違う雰囲気の男に、ガーベラの心が和んだ。
「ガーベラと呼んで、歳も近いだろうし。私は縁があってここに置いてもらっているだけの居候よ。だから、アサギのように戦うことは出来ないの。けれど、見た目だけなら彼女も弱そうよね。勇者だと知った時は驚いたわ」
ふふふ、と屈託のない笑顔を見せたガーベラに、トランシスは安堵の溜息を漏らす。自分を見定めるような他の者たちと違うので、この女性にならば心を許せる気がした。
二人共、居心地の悪さを痛感している似た者同士だった。
「ガーベラ。改めてごめん、そしてよろしく」
「気にしないで頂戴、これくらい平気よ」
「でも、綺麗な腕に傷をつけてしまった」
口では強がっているが、まだ痛むのだろう。強張った表情を一瞬だけ浮かべたガーベラの腕を強引に掴んだトランシスは、薄い皮膚を押し上げ出て来る血液に舌打ちする。
「うわ、ホントごめん。傷が残ったら……」
「本当に大丈夫よ、ここには不思議な魔法を使える方々が大勢いるでしょう? 治してくれるわ」
困ったように眉を寄せるガーベラの目の前で、トランシスは唇を尖らせるとその腕を口元に運んだ。
ぬっとり。
ガーベラの身体が震える。傷口にゆるりと触れる熱い舌先に、身体の奥が疼く。瞬時に頬が赤らみ、憂いを含んだ吐息が零れそうになる。
トランシスは、ガーベラの傷を舐めた。
多くの男と身体を重ねてきたガーベラだが、まさかこんなことで全身が火照るとは思わなかった。不意打ちにも程がある。
目の前で、味を堪能するように舌先を這わせているトランシスの表情が妙に媚態的だ。その視線が挑発的に思えて、思わず息を飲む。
まるで、
逆にトランシスは眉間に皺を寄せ、不服そうに「やっぱ血が美味しいってわけじゃないんだな、アサギの血だけが美味いんだ」と呟いた。
その行為は、トランシスにとっては血を確かめる為、及び『傷口は舐めて治せ』と教えられた通りに。
ガーベラには、刺激的で新鮮な心がざわめく誘惑。
その様子を、マダーニが窓から眺めていた。憂鬱そうに顔を歪め、頭を抱える。
「意図しないタラシなのかしら、トランシスちゃん。女はね、意外なトコロで恋に堕ちたりするものなのよ」
ガーベラがやって来た時は高飛車な女だと抵抗感があったが、外見が美しいだけで損をしてきた普通の女性だと解り、すぐに親しくなった。
といっても、アリナとマダーニが一方的に話しかけているだけだ。しかし、彼女は嫌な顔を見せずきちんと話を聞いている。時間さえ合えば三人でお茶をしたり、酒を飲み歩くことも増えた。
アリナにとっては好みの美女であった為「アサギの次に愛してる」とまで豪語している。
売春婦だった、とガーベラ本人から話も聞いている。男をあしらうことに慣れていても、恋の罠にかかってしまうことは避けられなかったようだ。
「困ったわね、厄介な事になったかもしれない」
呆けているガーベラの表情を見て、マダーニは言い知れぬ不安に唇を噛む。
「どうか、……杞憂でありますように」
キィィ、カトン。
眉根を上げキッチンへ足を踏み入れたトビィは、途端に舌打ちする。アサギとミシアが、忙しなく動いていた。
「あら、トビィお兄様。稽古は?」
ミシアの存在にあからさまに眉を顰めたトビィだが、視界に入れないように身体の向きを変える。存在をなかった事にしなければ、こちらの精神が乱される。
アサギのみに、普段通りの視線を注いだ。
「……休憩中。食事の準備は?」
「もう出来ます、あとはミシアが焼いているパンだけです」
アサギのあどけない笑みを見つめると、心が安らいだ。
しかし。
ゾワァ、と背筋が寒くなる。抉られるほど痛い視線を感じるが、断固としてそちらを向かなかったトビィは、アサギの手を取った。その手のぬくもりが、どれだけ荒みそうになる心を和らげてくれたか。
手を撫でられ見上げたアサギは、その唐突な行動に首を傾げた。
「皆、腹が減っている。呼びに行くか?」
「そうですね……あ、でも、あとサラダの仕上げを」
一刻も早くこの場から立ち去りたかったトビィだが、アサギが肩を竦めて渋ったので唇を噛み締めた。彼女の意思を無視することは出来ない。多少項垂れている間、右半身に不愉快でしかない熱烈な視線が突き刺さる。
「ミシア」
屈辱的だがトビィは観念し、嫌々ながらに名を呼んだ。額には青筋が浮かんでいる。
「はい。いかがなさいましたか?」
反して、呼ばれたミシアはパアァっと、後光が差したかのような笑みを浮かべて小走りに近寄った。
これ以上距離を縮められたくなかったので、トビィは彼女を右手で制した。
「……皆を呼んで来てくれ」
「かしこまりましたわ」
あくまでも視線は交わさず、アサギを見続けてトビィは呟いた。しかし、ミシアは合わせようと懸命に身体を傾け、覗き込むように返事をする。
奇妙な二人のやり取りに、アサギは再び首を傾げた。
どこか緊張した様子のトビィと、浮足立っているミシア。頬を染めているミシアがトビィに惚れている事は、容易に解った。
美男美女でお似合いだ、とアサギは思ったが、それをトビィが知ったら卒倒するだろう。
微笑ましく見ているアサギの目の前で、ミシアはもじもじっと、身体を揺する。頼まれたものの傍を離れたくないのだろう、わざと歩幅を小刻みに進む姿にトビィは青筋を浮かべる。
一時間くらい滞在したのではないか、と思えるほどに地獄の時間を過ごしたトビィは立ち去った瘴気にようやく肩の荷を下ろした。息が詰まりそうで、斬り倒そうかとも思った。
「アサギ」
「はい」
「今焼いているパンは、アサギがこねたのか?」
釜に何気なく目をやったトビィは、アサギの「いえ、ミシアが」という返答に項垂れた。思わず口元を押さえる。
「そうか……他のものはアサギが?」
「はい! スープとサラダ、それに卵焼きは私が」
辛うじて最悪の事態は避けられたことに感謝したトビィは、アサギの髪を撫でながらトマトを摘まんで口に放り込む。
「あっ! つまみ食いは駄目ですよ」
「はは、気にするな」
「もぅ……」
子供のようなトビィに、アサギはクスクスと笑う。普段は大人っぽいが、時折可愛い仕草をする。そこが多くの人を虜にするのだろうと思っている。
アサギの愛嬌ある笑顔に、トビィも徐々に調子を取り戻していた。それでも、パンだけは絶対に口にしないことを決める。
「惚薬でも入ってそうだからな……アイツならば、やりかねん」
「え、何か?」
「いや、こちらの話だ」
ミシアと入れ替わりで、水を取りにやって来たアリナとクラフトが部屋に入ってくる。親し気に触れあっている二人を見て、アリナは眉を吊り上がらせた。
「こら、暢気に何やってんだトビィ!」
怪訝な顔を向けたトビィは、察して「言うなよ」と唇を動かした。
ムスッとしたアリナは舌を出し、「一つ貸しな」と呟く。
トランシスには気の毒だが、親しいのはトビィなので庇うことにした。露見したらそれはそれで面倒な事になることも、アリナは知っている。
「アリナ、ご飯の用意が出来ました」
「うん、そこで出会ったミシアから聞いたよ。うーん、良い香り!」
「あの、ところでトランシスは?」
トビィと同じようにトマトを摘まみあげ、口に放り込んだアリナの目が見開く。
何気なく聞いたアサギに、トビィは言葉を、アリナはトマトを喉に詰まらせた。
死にかけていた、とはとても言えない。
気管支にトマトが入り込み、咽ながらも目を泳がせていたアリナに代わって、トビィがコップに水を注ぎ、強引にクラフトに手渡す。
「与えて来い、
「ん~、まぁ……そうですね。疲れているでしょうねぇ」
「歩けるようになったら、連れて来い」
白々しい演技をしたトビィに、アリナは吹き出しそうになった。
引き攣った笑みでそれを受け取ったクラフトも、良心が痛むものの合わせる。
何処となく挙動不審な皆に、アサギは何度か瞬きする。
「えっと、あの。なんだかみんなの様子がおかしい気がしますが」
「急いだほうがいい、恐らく相当喉が渇いているだろうから」
早く行け、と無言の圧力をかけられたアリナとクラフトは、すごすごと部屋を出て行った。どうにか、アサギを誤魔化すことが出来たようだ。
アリナを見送り、アサギは忙しなく準備を再開する。
手際よく進めるアサギを椅子にかけて眺めながら、トビィは珈琲を啜った。至福の時だ、と思いたいがそうもいかない。
「あの、それでトランシスはどうですか? 剣の腕前はどのくらいでしょう」
嬉しそうにアサギが話すので、流石のトビィもげんなりする。
「まだ剣は使っていない、食後だな。とりあえず……基礎体力を見ていた」
「強いでしょう? トビィお兄様とも互角に戦えるくらいになりますよね!」
「さぁて、どうだろう」
全くもって、つまらない会話になった。あの男が現れてから、好い雰囲気もすぐに台無しになってしまう。不機嫌さを表さないように努めるトビィは、顔の筋肉が悲鳴を上げそうだった。
先程滅多打ちにした男に苛立ちを募らせていると、賑わう声が聞こえてくる。
「みんなを連れてきたよー! ガーベラもいたから、一緒に」
その頃には、所せましと料理が並べられた。パンも焼き上がり、香ばしい匂いが空腹にガツン、と効く。
「…………」
「…………」
今にも激発しそうなトビィとトランシスは、アサギを挟み席につく。
「ヒェッ!」
三人を見たアリナが怯えたような素振を見せ、意地悪く微笑んだ。