外伝6『雪の光』6:暗殺
文字数 6,807文字
息を潜め凝視している周囲を気にも留めず、互いの熱を確かめ合った。二人の間にはたとえ空気であれども入れまいとするように、密着している。
アロスは、彼の広い胸に飛び込んだ瞬間眩暈を覚えた。芳醇なマスカットとワインが混ざり合って鼻先をくすぐったが、主張するそれらに隠れて雄の匂いがする。
「……!」
その心地良い香りを、知っている。脳が狂ってしまいそうな危険な香りに胸がざわめき、不思議と下腹部が熱をもつ。もどかしくて、アロスは身じろぎをした。男を見上げると、仮面の奥で炯々とした瞳に射抜かれる。途端に力が抜け、再び顔を胸に埋めた。
……このままずっと、こうしていたい。誰だか分からないのに。
貴方は、だぁれ? そう問いたいのに、アロスの唇か、言葉は出ない。これほどまでに、声が出ない事を悔しく思ったことはなかった。
「大丈夫、もう怖くない」
トシェリーは優しく耳元で囁き、髪に指を通して遊ぶ。掴まえた妖精は、不安がりながらもこの場を好んでいるように思えた。そして安全か確認するために戸惑い、警戒しているようにも見える。
薔薇の香が、アロスのうなじから立ち上る。花が開いて蜜を差し出し虫に受粉を促す様に、誘われた気分になった。胸いっぱいに香りを吸い込むと、花の香りに混じって雌の香りが鼻に絡みつく。まだ熟していないのに、男を淫らに無邪気に誘う。それはまるで、滅多にお目にかかれない媚薬のよう。挑戦的に口角を上げると、微かに震えながら額に口付ける。
「…………」
トシェリーの唇が、若干動いた。何か告げているのだろうが、誰にもその声は聞き取れなかった。
何を言ったのだろう。
それは、アロスにも、トシェリー本人にも解らなかった。
けれど、二人は心の奥底でその言葉を知っていた、待っていた、解っていた。運命は必然であり、偶然ではない。
目の前で繰り広げられている芝居のような情景に見惚れていたが、ようやく我に返った司会者が控え目に一歩進み出た。
「あ、あのー」
言いかけ、慌てて口を閉じる。『お知り合いですか?』そう訊ねたかったが、それは御法度。この闇市競売に参加する者達の素性は、決して詮索してはならない。何処の誰だか解っていても、そ知らぬふりをすることが取り決められている。
違反した者が人知れず姿を消すことは、公然の秘密。司会者は蒼褪め、不快な鳥肌に顔を歪めた。周囲を窺いつつ喉を大きく鳴らし、唾を飲み込みつつ拍手をする。
乾いた音が響いたが、呼応するように徐々に会場からもまばらに拍手が上がった。
「で、では。三十八番お人形アロスちゃんは三万にて落札されました~! これにて閉幕にございます。次回も、皆様方と愉しい時間を共有できますように」
拍手喝采の中、それでも二人は抱き締め合ったままだった。
何処かで誰かが囁く、「茶番だったのでは」と。アルゴンキンにアロスを所望したが、追い返された為誘拐したのではないかと。最初からその男の手に渡ることが決まっており、それに付き合わされたのだと。
でなければ、何故二人は求め合うように惹かれ合ったのか。顔見知りであるならば、納得がいく。誰の目から見ても、二人は相思相愛に見えた。緊張で強張っていたアロスだが、逢った途端に美しさをいっそう際立たせる極上の笑みを浮かべた。
今の安堵している表情を見れば、誰もがそう思っても仕方がないことだ。
けれども、
二人を一瞥し、人々は消えていく。料理を、そして快楽を貪っていた者達も気分が削がれて立ち去った。次回の開催日まで、彼らは表の仮面をつけ過ごす。一体、どちらが本当の彼らなのだろう。
「では、また」
「えぇ、次回も愉しみですわね」
他愛のない挨拶をしながら退室した者達は、ギョッとして身を竦めた。絨毯が水浸しになっており、仮面の下で眉を顰める。何枚もの布が敷かれたので履物は汚れずに済んだものの、不快だ。
さらに、花瓶の破片が散見された。水は花瓶の中のものだったらしい。美しい花が手折られて無残に転がり、花弁が撒き散らされていた。
鈍い音が響いていた。
過度な装飾の一室で、従者を蹴り続けている男が一人。
従者の顔は腫れ上がり、歯は欠け、眼球が飛び出している。口からは血を流し、もう、何も話す事が出来なかった。辛うじて息はあるが、すぐに死んでしまうだろう。
闇市競売から、ほど近い高級宿の一角。最上階の一室に宿泊していたラングは、血走った瞳で叫んだ。
「わしが幾ら払ったと思う! 落札出来ぬとは、どういうことだァァァァッ!」
その地を揺らすような大声は、下の階の宿泊客にも届いた。
何を言っているのかまでは聞こえなかったが、人々は不気味に思い、支配人に文句を次々に告げる。快適な宿泊を保証するとうたっている宿で、高い金を払っているのにこれはいかがなものかと。品も教養もある客しかいないのではなかったのかと。
止まらない苦情に、支配人は冷汗を流しながら懸命に宥めていた。誰が原因か知っているが、簡単に咎められる相手ではない。ラングは、この宿の上顧客。宿に到着した時は、悪寒すら覚える気色の悪い笑顔を浮かべ上機嫌だった。しかも、今回は宿泊代以上の金額を払いつつ、従業員達にも気前良く金を振りまいていた。そんな相手だ、無下には出来ない。苦情が出ていると言えるはずもない。
しかし、無視できないほどに酷い怒鳴り声が続いている。支配人は鉛のように重い足を引き摺り、項垂れて部屋へ向かうしかなかった。
従者は、息絶えていた。
けれども、蹴り続けている。骨は粉砕され、もう音すら出ない。床には鮮血に吐瀉物、排泄物に内蔵が飛散し、異様な異臭を放っていた。
「アロスが手に入らなかっただと!? ふざけるなっ! 誰が落札した!? 大金を使い数年前から準備を整えておいて、失敗しただと!? 許されるわけがないだろうが! あの娘の身体を今日こそ貫き、甘美な肌に舌を這わせ、可愛い奴隷人形にする計画が台無しではないかっ!」
従者の首が、もげた。それでも暴行は止まらない。凄まじい形相で、従者だったモノに鬱憤をぶつけていた。
ラングが初めてアロスを見たのは、数年前のこと。
十歳になったアロスを連れ、国王主催の食事会に出向いていたアルゴンキンは、自慢の娘だと朗らかに笑っていた。
高名な貴族でありながら質素堅実な暮らしを好むアルゴンキンを、日頃鼻で笑っていたラングだが、アロスを見た瞬間に態度を翻すことになった。一目で、彼女を欲してしまった。
当時のラングは勢いのある豪商で、貴族らに様々なものを売りつけていた。珍しいものを他国から取り寄せ、高値で売り払い私腹を肥やす。貴族らに馬鹿にされぬよう勤勉に時間を費やしたのは、無駄ではなかった。最初は見下されていたものの、他国の情勢や歴史に詳しかったので、話し相手として重宝された。
そうして、強者には下手に出て媚びへつらい、弱者を足蹴にしてのし上がった。
贅沢こそ、至福。下々の者など掃いて捨てるほどいるのだから、命を救う必要はないと乱雑に扱ってきた。気まぐれで解雇し、時には腹いせに暴行を加え、少しでも器量の良い娘が来たならば犯していた。それでも、咎められない立場だった。
けれども、アロスの美しさに一瞬にして虜になったラングは、事あるごとにアルゴンキンの真似をし始めた。彼に近づくには、同類になるのが一番。
貧しい人々を集め、無料で食事を施した。病気の者達には、簡易であったものの療養所を提供した。職がなく餓えに苦しむ男達に、庭の整備を任せた。
こうして、ラングの噂を聞きつけた貧困民達が押し寄せると、アルゴンキンがそれに興味を示した。自分と同じ働きをしている者を知り、自ら脚を運んだ。彼は、疑う事を知らない。
ラングは上手い具合にかかった獲物に、飛び上がるほど喜んだ。信用を得る為、唾を吐き捨てたくなる演技をした。必死に自分を偽り理想を語り、泣く泣く慈善事業を拡大してきた。
ある程度親しくなると、優雅にお辞儀をし微笑むアロスを間近で見たいが為に、事あるごとにアルゴンキンを訪ね、頻繁に招いた。
「おぉ、アルゴンキン殿! 孤児の子らが学べる場を設けました、皆戸惑っておりましたが、最近は意欲的で嬉しい限り。子らに生きる糧を与えてやれたのではないかと、心が落ち着きました。今後の方針について、是非御意見を頂きたく」
何故自分の金を汚らしい子供らに使わねばならないのかと憤慨しつつも、アロスを見るだけで心が癒された。その美しい娘は、清純ながら淫靡な娘。劣情を駆り立てる、背徳的な大きな瞳。ラングは喉を鳴らし、何度も視姦した。懐いてもらう為、贈り物も届けた。
娘に何を買えばよいのか分からないというアルゴンキンの相談にも乗り、流行りのドレスやクマのぬいぐるみを助言した。
よもや、疚しい瞳で見られているとは知らない純朴な父娘は、ラングに感謝した。
しかし、幾ら親しくなったところで嫁に欲しいなどと言えば亀裂が走る。それ以前に、アロスを嫁にしたいわけではない。
ラングはただ、欲望の赴くままにアロスを陵辱したいだけだった。美しく降り積もった雪に、泥だらけの靴で足を踏み入れ汚したくなる衝動。光り輝く湖に張った氷に、石を叩き入れて無残に割りたくなる快感。地下の拷問部屋に閉じ込め散々いたぶり調教し、服従させたい願望。
最初は、自分で誘拐するつもりだった。
しかし、何度か試みたものの、アルゴンキンの屋敷は腕の立つ者らが揃っており失敗に終わった。屋敷の警備が強固だったので、道中、雇った山賊に襲わせてみたが惨敗だった。
ラングは低い賃金で雇った者達だが、アルゴンキンは重要な箇所に金を惜しげもなく使う。娘を溺愛していたので、腕の立つ者ばかりを傍に置いた。従騎士のトリフを筆頭に、素質を見出した一般市民に教育を施した。飾りの武器を手にしていた者は、一人もいない精鋭部隊。
それでは、敵うわけもない。
地団太踏んでいたがラングは諦めず、闇市競売に依頼することとした。金を積めば、競売品を主催者側が用意してくれる。けれども、競売に出品されるので、そこで競り落とさねばならない。主催側は、あくまで『顧客の要望する品を用意する』だけ。
莫大な金額が必要なことは、重々承知していた。しかし、どうしても欲しい。
そして、ついにラングは主催側と交渉を開始した。依頼品は『アルゴンキンの娘アロス』。
誘拐が成功した時点で金の支払いが発生する為、それまでは傍観していればよい、とのことだった。仮に誘拐が失敗したとしても、ラングに損害はない。前金不要ということで、胸を撫で下ろした。
ただ、屋敷の警備兵を寄せ集めにしておくようにと言われた。人数が少ないとアルゴンキンが不審に思うだろう。よって、集まってきた貧困民から適当に選出した。彼らは、殺される為に選ばれたのだ。気前よく金をくれたラングに感謝したが、捨て駒だった。
主催側は従騎士トリフを問題視したものの、大雪を発端として民を先導し、まんまと引き離した。裏で糸を引く者達がいなければ、民達は自分達でどうにかしていただろう。もしくは、アルゴンキンへの要望はもっと後になったはず。
あの日の誘拐事件は最初から仕組まれたものであり、幾らアルゴンキン側の兵が腕が立つといえども多勢に無勢。ラングの配置した兵らは素人であれば、襲撃も容易い。アルゴンキンを葬ってもよかったが、恩を売る為に生かした。それに、ゆくゆくはアロスを監禁している屋敷に彼を招き入れることになるので、想像すると愉快だった。今までの苦渋が、それで全て洗い流される気がした。疲弊している父と、性奴隷と化した娘に嗤いが込み上げる。
やがて再開した時、アロスはどのような表情を浮かべるのだろう。堅苦しい思いをさせたわびとして、大きなクマのぬいぐるみも用意するよう取り計らった。
アルゴンキンから信頼されたまま、アロスが手に入る。これには、大金を支払う価値がある。あとは落札すれば済むだけで、夢にまで見た生活が手に入る。
ラングにとっての誤算は、あの闇市競売の場に意外な人物がいたことだった。
紫銀の髪の、まだ若いであろうその男。その美しい髪で、居合わせた者達は大概誰だか気づいていた。
彼は、ブルーケレンの若き国王トシェリー。
元々小国だったが、先代の王が野心家で戦争を繰り返し国を大きくした。トシェリーは息子で、親譲りの残忍な野心で強引に同盟国を増やし、のし上がってきた。
青二才だと多くの者は小馬鹿にしていたのだが、無邪気な笑顔に浮かぶ瞳が妙に恐ろしく、対峙したものは畏怖の念を抱く。背筋を伝う汗は、トシェリーの異様な雰囲気を察してのもの。歳にしてまだ二十歳そこらだが“悪魔に魅入られた男”だと噂されていた。
アロスを見て参戦してくる者はいるとラングは思っていた、だが、あそこまで金額が競り上がったのは想定外。後払いは出来ないので、手持ちの金がなければ入札出来ない。
ラングの耳には、トシェリーの「三万」と勝ち誇ったように言い放った声がこびりついていた。彼は、最初から小競り合いをするつもりなどなかったのだろう。他を圧倒し、己の力を見せつけた。
落札したのがトシェリーだと知って、ラングは狂いながら吼えた。室内の家具を破壊してまわった。そうでもしなければ、この湧き上がる怒りを抑えることなど出来なかった。つまりは、大金をドブに捨てただけ。アロスは手に入らなかった、それどころか、遠退いてしまった。
国王が飽きて捨てるのを待つしかないが、その時は確実に乙女ではない。
「どうすれば、あの落札者からアロスを奪えるっ!」
床に染み込んだ血を踏みながら歩き回り、ふと、ラングは部屋の中央で立ち止まった。ゆっくりと口元に下卑た笑みを浮かべ、腹の底から吼える様に嗤い出す。突如聴こえ始めた笑い声に、宿の支配人は身の毛がよだった。もはや、室内には狂人がいるとしか思えなかった。近くまで来ていたが、脚が竦み、声をかけるのを躊躇した。
「ふは、ふはははは! そうだ、闇市を明るみにしてやろう! どうなろうと知ったことではない、アルゴンキンに話し、違法な競売が行われていると触れ込み、壊滅させてしまえばいい! そうしてアロスをアルゴンキンのもとへ返せばよいのだ! アルゴンキンは私に敬意を払うだろうし、アロスも……」
「それは深刻な取引違反」
ラングの顔が、歪んだ。
ゴトン、と何かが落下した音が一度だけ響く。
そうして、床にラングの頭部が転がった。大きく目を見開き口惜しそうにしているが、何が起きたのか解らなかっただろう。
天井から一つの影がラングの正面に優雅に躍り出たかと思えば、無造作に首を斬り落とした。
転がっている首に無感情な瞳を向けると、影は語り出す。
「重々説明したが、ご理解頂けなかったようで残念だ。……競売に出すところまでは責任を持つが、後は知らない。競り落とせなかった場合の保証は、ない。万が一、この件を何者かに漏らした場合即抹殺。聞いていただろう? それを了承し、取引に及んだのだろう? 愚行だったな、全てはお前が悪い」
皮肉にも、それはアロスを誘拐した実行犯オルトールであった。
報酬で暫くは適当に暮らすつもりだったが、急な依頼が届いた。一旦は断ったが、頼み込まれ折れた。依頼を受けてみれば、内容はラングの監視。『違反する可能性有り、その際は抹殺せよ』と命を受けた。
オルトールは小さく溜息を吐くと、肩を竦める。侮蔑の視線を、物言わぬ首に向けた。馬鹿げた取引さえしなければ、今後も逢う事が出来ただろうに、慕われたやもしれぬのに。
「あの娘は、どうなるんだろうな」
こんな変態外道親父に手篭めにされなくてよかったのか、それとも。
オルトールは一瞬天井を見上げ、いつでも花の様に美しかったアロスを思い出した。
「……あの娘は、何処まで美しく生きられるだろう。美しい花は、例え手折られても、踏み躙られても、美しいものなのだろうか。それとも、やはり汚れてしまえば価値はないのか」
アロスを憐れんだオルトールは、再び姿を消した。自分の存在などなかったかのように、跡形もなく。
そうして支配人が部屋に入ってきた時、室内には死体が二つ。全身が潰れている無残な従者の死体と、首がもげているラングの死体に人間とは思えぬ悲鳴を上げた。
後に、ラングが殺害されたのは、『アルゴンキンの娘アロスについての手がかりを掴んだが為に暗殺された』と噂された。ゆえに、名誉の死だと囁かれた。
アルゴンキンも、涙を流しラングを弔った。まさか、元凶がラングであるとも知らず。