君が、傷つかないように
文字数 5,088文字
唇が近づく様子を、トモハルは唖然と見ていた。しかし、最後まで見届ける勇気も度胸もなく、唇を噛み締め視線を逸らす。親友の浮気現場など、見たくはない。
護らねばならない人が、すぐ目の前に立っている。この場から逃げ出したいであろう少女が、すぐそこにいる。トモハルの脳が反応し、アサギの瞳を覆い隠すように、背後からそっと腕を伸ばす。そして、優しく視界を掌で覆い隠した。
二人の声は、聞こえてしまうだろう。だが、せめて目の前の光景からは逃がしてあげたかった。引き摺って立ち去ることも考えたが、それでは憂美の思う壺ではないかと。
ツーッ、と。アサギの瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
頭部が下がり、次いで地面に染み込んだ水滴でトモハルは気づいた。しかし、何も言わず、人混みの中で背後から目隠しを続けた。他に何か、友達として出来ることがあるのであれば教えて欲しいと切に願う。
どのくらいの間、そうしていたのだろう。通り過ぎる人々がこちらを見ていても、気にしない。ひたすらトモハルは、微動だせずにアサギの視界を遮断し続ける。
やがてミノルと憂美は、はしゃぎながら立ち上がった。食事を終えたらしい、次は何処へ行くのだろう。クレープを巻いていた紙の破片が道路に落ちたが、気づいているだろうに拾わない。そして、分別せずにゴミ箱に押し込み立ち去った。座っていた席には、置き去りにされたゴミが、汚らしく残っている。
顔を顰めたトモハルは、舌打ちした。おそらく少女のほうがゴミに対して無頓着だろう。皆で出かけた時は面倒でも、アサギに言われたミノルはきちんと分別し綺麗に片づけていた。
何故、少女に自分を合わせるのか。出来ていたことを、しないのか。ミノルを一発殴らねば気が済まないほどの鬱憤が、身体中を駆け巡る。
「知ってた、アサギ?」
自分でも驚くほどの優しい、落ち着き払ったその声でトモハルはようやく呟く。聞こえた声に、アサギが微かに揺れる。
「俺の手、けっこう大きいだろ? 勇者の剣を握っていただけのことはあると思わない?」
緩やかに指を動かして、隙間を空ける。アサギを怯えさせないように、前方にミノル達がいないことを確認させた。
「……うん。おっきいね」
冷え切ったアサギの指先が、トモハルの掌に触れた。振り返らずに、被いを外すようにゆっくりと下げていく。そうして、素早く右手を動かす。
溢れていた涙を拭いたのだろう。
鼻をすする音がしていたが、アサギはトモハルの腕を大きく開いて囲いから飛び出すと、気まずそうに一瞬だけ振り返った。
泣きはらした瞳が飛び込んで来て、トモハルの脳を強打した。一緒に泣きたくなったが、堪える。表情が見えたのは僅かな瞬間だったが、酷く痛々しく、見ていられないほど弱々しく思えた。魔王と戦った勇者とは、とても思えない。
目の前の少女は勇者ではなく、何処にでもいる普通の少女だと今更実感する。
「ちゃんと、ご飯食べるんだよ? 私は折角ここまで来たから、よく行く服屋さんに」
一人にさせたくなくて、トモハルは間入れず微笑んで口を挟む。
「あぁ、前言ってた安く服が買える店? 参考程度に俺も行こうかな」
「……と、思ったけどあんまりお金ないから帰ろうかな」
「そうか、じゃあね」
「うん、またね」
ぺこり、と普段のように可愛らしくお辞儀をしたアサギは、早足で人ゴミの中へと消えていった。
逃げる様に去られてしまった。溜息を一つこぼし、トモハルは地面に落ちたスニーカー入りの袋を拾い上げると、唇を真横に結ぶ。
そして、迷いもせずアサギを追いかけた。
一定の距離をおいて、二人は歩き続ける。
アサギはすぐに後方のトモハルに気づいたが、怪訝に眉を顰めても、振り返ることなく歩いた。ついてこないで欲しい、とは言えなかった。
……一人でいたいのに、何故、ついていくるの。
今のアサギには、泣けばよいのか、怒ればいいのか、蹲ればよいのか、それすらも解らない。願いが叶うのであれば、消えてしまいたいとも思った。
こういう場合、どうしたらよいのだろう。普通は、どうするのだろう。失恋した人は、どうやって笑顔を作るのだろう。
微笑み方すら忘れそうになっていた。口角を上げるという仕草が、出来ない。
「ひ、っく」
友達の前で泣くと、恐らく困らせてしまう。それだけは耐えねばと、唇を噛み締める。
「漫画やドラマの中で、失恋した女の子はどうしていたっけ」
小さく口にしたアサギは、親友のユキを思い浮かべた。家に行き、話を聞いてもらおうかと思ったが、迷惑になりそうで怖い。
ユキはケンイチと幸せそうに過ごしている、そこに“失恋”という単語を持ち込みたくなかった。落ち着いたら話すとして、今は自分で立ち直らねばと心に決める。
「最初から、好かれてなかったし。夢が終わっただけだから、へっき」
口にしたアサギは、軽く空を見上げた。驚くほど美しい蒼空に、薄く白い雲が時折浮かんでいる。綺麗すぎて、余計に目頭が熱くなった。
ミノルに嫌われていることは、数年前から知っていたことだ。それなのに何故あの時、勢い余って想いを伝えてしまったのか。自分を恥じる。
アサギは二の腕を掴み、爪を立てる。
「付き合って、なかったんだ、やっぱり」
噂に流され、そう思い込んでいただけ。
心のどこかで、それが偽りで幻だと知っていた気がする。
今になって、ようやくアサギは気付いた。もとい、
記憶を呼び覚まし、嗚咽を上げる。
「私……いい気になってなんか」
いないよ、と唇を動かす。
「私……彼女じゃないのも」
知ってたよ、と唇を動かす。
ミノルに「好きだ」と言われた記憶など、ない。先程、憂美に『好きだよ』と言っていた声が、酷く鮮明に耳に残っている。
人は、好きではないものを『好きだ』と口にする時、僅かに躊躇するだろう。嘘で好きと言える人もいるだろうが、それでも何処かに影が落ちる。
では、先程のミノルはどうだったか。
自然に告げたミノルは、見たことのないような笑顔を浮かべていた。可愛らしい、無邪気な笑顔ではなく、男らしくて逞しい、見惚れてしまう笑顔だった。
それが答えだと悟った。
向けられた相手こそ、ミノルの恋人。つまり、相手はアサギではなく、憂美。
「とても……綺麗な、子だったな。大人っぽい……子だったな」
あぁいう人が好みだったのか、とアサギは自嘲気味に笑った。自分とは、似ても似つかない美少女である。とてもじゃないが、隣に並べないと痛感した。
興奮と期待と幸福を詰め込んでしまった朝の荷物が、酷く重く圧しかかる。
「なんて馬鹿な私」
早く家に帰ろうと思ったが、方向は逆。家から遠ざかって、何処へ向かえばよいのだろう。考えたくないのに、先程のはにかんだ様子のミノルが脳裏から離れない。
約束をしても忘れられてしまうほど自分は軽い存在なのだと解釈し、歩き続ける。確かに、彼女と一緒に異世界へ旅立っただけの自分とでは、雲泥の差をつけられても仕方がないと甘んじて受け入れた。
ミノルを責めるつもりは全くない。寧ろ、今まで悪い事をしてしまったと気落ちする。噂になって、不快だったに違いないとうなじを垂らす。
「知ってた、判ってた、はず……なのにな。私はっ、どうしてっ」
……涙が、止まらないよ!
後方から聞こえてくるトモハルの足音から逃げる様に、ふい、っと横に逸れて歩くが案の定ついてくる。
……トモハル、放っておいて。一体何を話せば良いのか解らないし、困る。
アスファルトからの照り返しで、意識が朦朧としてきた。
ビルの隙間を歩いていくと、何処に出るのだったか。行き止まりではないことだけは思い出せたが、上手く脳が回転してくれない。道すらも解らなくなってきた。このまま壁に突っ込んで、知らない異世界へ行けたら楽かもしれないと、そんなことをぼんやりと考える。
思い出すのは、先程の美少女とミノル。瞼に焼き付き、離れてくれない。劣等感は、もう嫌という程味わった。
『お高くしてるとこ、優等生ぶってること、自分が正しいと思ってること。誰にでも好かれてると思っているとこ、などなど』
『嫌いなもんは、嫌い。俺は田上浅葱が大嫌い』
溶け込んでしまっていたが、痛みを伴い再び形作った凶器の台詞は、杭の様に胸に打ち付けられた。その台詞は、いつ聞いたものだったか。
あれは確か、去年だった。トモハルを尋ねて教室へ行ったら、ミノルがそう叫んでいたのを偶然聞いてしまった。その後数週間は怖くて姿を見せないように逃げ隠れていた記憶が、鮮明に甦る。
どうしてそんな人に告白してしまったのか。迷惑極まりなかったと、自己嫌悪に陥る。その場で絶叫したくて、身体を大きく震わせた。
「お高くなんか、してないよ……。優等生なんかじゃ、ないよ……。正しいなんて、思ってないよ……。誰にでも好かれてるなんて……思ってないし、ない、し……っ」
じんわりと、タオルが湿っていく。涙が、止まらない。
……誰にでも好かれてるなんて思ってたら、もっとミノルに積極的に話しかけてたよ。
溢れる涙で、前が見えない。涙は、止まってくれない。
「ミノルが私の事を嫌いなの、ちゃんと知ってた」
言葉にしたら、涙が更に溢れて嗚咽が漏れる。
当時の状況が甦る。
足が震えて、それでも精一杯トモハルに話しかけた。あの場で逃げたら周囲の皆が困っただろうから、必死に歩いた。笑顔で、聞かなかったフリをした。気にしていない演技で、どうにか乗り切った。
それが最善だと思っていた。
あの時、初恋は無残にも終わったと思ったが、それでも何故かミノルを目で追っていた。
そして、一緒に勇者になった。
勇者になって魔王を倒し、地球へ帰る前に感極まってミノルに告白したのはつい最近のこと。唐突過ぎて、面食らったミノルは誤って頷いてしまったのだろう。
いや。
「頷いてなかった……よね。そういえば」
キィィィィ、カトン。
あの時、異常な興奮状態だった愚かな自分が、都合良く解釈していた事に今さら
ミノルが引き攣った笑みを浮かべていたことを、
“嘲笑し、『コイツ、何言ってんの?』と、蔑んだ瞳で自分を見ていたミノルが、頷くわけなどなかったのに。”
アサギは、喉の奥で悲鳴をあげて「ごめんなさいっ」と鋭く叫んだ。
キィィィ、カトン、トン。
音が、聞こえる。
だが、アサギは気にも留めなかった。聴覚など、現在意味を成さない。
耳は雑音が常に纏わりついている、何処へ向かっているのかすら解らないので周囲の音など気にならない。視覚さえあやふやで、道路を横断しなければならなかったのなら、車に撥ねられていただろう。
眩暈がして、咄嗟に壁に手をつきもたれかかる。全力で走った後の様に足がガクガクと頼りなく震え、口内には血の味が広がった。
「少し休もう」
駆け寄ってきたトモハルによって、アサギの身体は支えられた。
……放っておいて。
そう言いたくて唇を動かしたが、口内が乾き切っていて声が出てこない。アサギの胸に、黒い影が落ちる。トモハルが邪魔だと、思ってしまった。心配してくれている、優しい人なのに。放っておいてくれても、自分は平気だし、そのほうが気も楽なのに。構わないで欲しいが、無下に振り払えない。
物言いたげにトモハルを見上げようとしたのだが、俯いていた為か太陽の光が痛いくらいに眩しくて思わず瞳を瞑る。引き摺られ近場にあった木陰のベンチに座らされたアサギは、痙攣している冷たい指先を、どうにか包み込む。
隣にトモハルが座ったかと思えば、額に冷たいペットボトルが押し当てられた。何時の間にか、買ってきてくれたらしい。
優しさが、胸に沁みる。申し訳なくて、どう謝ればよいのか解らない。
「おうち、帰らないの?」
ようやく声を絞り出したアサギに、トモハルは軽く笑って返答しなかった。
そのまま、数分が何事もなく過ぎていく。
何も悪くないトモハルに八つ当たりをしてしまいそうな自分がいて、アサギは身勝手さに嫌気がした。必死に歯を食いしばり、震える拳を握り締める。この気まずい空気は、どうしたら打破できるのだろう。