外伝3『ABHORRENCE』14:光と水と風の回旋曲
文字数 3,756文字
羽根の様に軽い足取りで声高らかに笑いながら去って行ったトカミエルに、視線を投げる者はいなかった。
緊迫した空気に、父親は固唾を飲む。たかが娘の事を訊かれただけだが、何故こうなってしまったのか。空気は今にも罅割れそうで、頬が突っ張るほど乾ききっている。
トカミエルの残した言葉を受け止め、ベトニーはトリアの心を見透かすように眼光を光らせた。
「知っているのか」
「知らない」
間入れずトリアは答え、威迫するように負けじと睨み返した。
父親は血の気を失い、トリアの肩を揺さぶって説得を開始した。ここで彼に立てつくと、後に響く。
「こ、こら、トリア!」
しかし、断固として真っ直ぐにベトニーを睨み付けたまま、トリアはそれ以上口を開かなかった。
沈黙が辺りを支配し、息苦しさに汗が吹き出る。その空間でベトニーとトリアは一歩も引かず、その場で目に見えない攻防を繰り返す。
雲間から一筋の陽の光がベトニーに差し込み、トリアを映す足元の水溜りが風で揺らいだ。
空間が揺れる。
「……き、来ちゃまずかった、かな」
切迫した空気の中、気まずそうにリュンが顔を出した。
背後から接近していたリュンの気配に気づかなかったベトニーは、軽く舌打ちする。
その時、風がベトニーとトリアの身体を吹き抜けた。
ベトニーは眩しそうに空から差し込む光を見つめ、次いで泥が沈着し澄み切った水溜りの中にトリアの姿を確認し、頬を撫でた風と共に現れたリュンを見た。
「なるほど、……これは奇遇な」
驚くほど優しい笑みを浮かべると、ゆっくりと振り返り不敵にリュンに口を開く。それは、胸を撫で下ろし緊張を解いたかのように思えた。
「お前も知っているだろう、緑の髪と瞳の娘を」
「え?」
「っ!?」
予期せぬベトニーの発言に、トリアが弾かれたように足を一歩踏み出す。確かに言う通りで、最初にアニスを見たのはリュンだった。
驚愕の瞳を投げかけてきたトリアに確信したベトニーは、嬉々とした声を出した。探し求めていたものを見つけた安堵感で、頬が弛む。
「お前たち二人が知っているな。彼女は……何処にいる」
表情は穏やかだが、後半の声には凄むような重みがあった。
「お前……誰だ」
身体の中は熱を帯び、騒めいている。
キィィィ、カトン。
三人は、耳障りな音を立て何かが動いた音を聞いた。
息を切らせ、全力で地面を蹴る。脚は棒のようで、口内には鉄の味が広がっていた。
トカミエルは、友人たちと森へ向かっていた。
全速力のトカミエルに追いつくことは誰も出来ず、離れていくその姿を追って友人たちは走る。
トリアを陥れた気がして晴れ晴れとした気分のトカミエルは、街の中央へと足を向けた。片手を上げ近づき不貞腐れた顔で指輪の話をすると、オルヴィスが「川へ行くまでは確かに指輪があった」と叫んだ。手を繋いでいたので、感覚で分かったのだろう。途中、オルヴィスは指輪を眺めてもいた。
彼女は、愛しい人の指を常に意識していた。指を絡ませ、指先をつつき、掌を擦り合わせる。いつかは自分もトカミエルから指輪を貰いたいと、うっとりと妄想をしていた。その為、川へ行くまではあったことを自信を持って発言できたのだ。
しかし、川から街までの岐路は手を繋いでいなかったので指にあったかどうかが分からない。
それでも的が絞れたため、トカミエルは喜んだ。
同時に、絶望した。
水遊び中に落としたとすると、見つかる可能性は無きに等しい。川の水は絶えず流れ続ける、下流に流されているかもしれない。まして、川底に沈む小さな指輪を誰が捜し出せるのだろう。
帰り道で落としたかもしれないと、道中目を走らせたが光るものは今のところなかった。森の動物が咥えてしまっていたら、もうどうにもならないが。
それでも、トカミエルは諦めきれない。
両親から贈られた、指輪の内側にトカミエルとトリアの名前がそれぞれ刻み込まれている特注の指輪だ。受け取った時の興奮を忘れられない、気に入っている。
眉を吊り上げ、流れる汗をそのままにトカミエルは進む。
森に入り、川を目指す途中で花畑を通りかかった。
「あ……」
人間の気配に、アニスは物陰からそっと顔を出す。会話の練習をしていたら、朝になっていたらしい。
胸が高鳴り、息が詰まる。
トカミエルの姿を瞳が捕えた瞬間に、身体中に甘い痺れが走った。指輪を握り締め、震える足で懸命に立つ。
花畑を一目散に歩いているトカミエルに、愛おしい視線を投げかけた。
……大丈夫、上手くやれる。そうしたら、森のみんなも呼んで遊ぼう。必ず、受け入れて貰える。人間は優しく賢く、何より寛大だもの。
深呼吸を何度か繰り返し、火照る頬とは裏腹に緊張し過ぎで冷たくなった指先を温めながら、人間たちへと近づいた。
「ねぇ。……あれ、誰かしら?」
アニスに、オルヴィスが気がついた。
どうにか距離を縮め、前方を早足で歩くトカミエルに大声で声をかける。立ち止まり、怪訝に振り返ったので服を引っ張ると、アニスを指差す。
指輪で頭が一杯なトカミエルは、半ば興味なさそうにそちらを見やった。今はとにかく川に行きたかったので正直鬱陶しい、しかし、脚は自然と止まっていた。
見れば、蔦が靴に絡みついている。まるで、そこに留まらせるかのように。
舌打ちし、その蔦を強引に引き剥がすと顔を上げる。
喉の奥で、ヒュッと音がした。
豊かに波打つ木々の葉に遮られ太陽の光を通さない暗い森の中、一人の少女がこちらを見ていることに気がついた。
その光景に眩暈を覚え、身体を、脳を駆け巡った不思議な感覚に耐えきれず胸掴む。薄れていく視界の中で、それでも美しい姿だけが自分を呼び覚ますように明確に映る。
こちらを見つめている少女。
二人の瞳が交差した、互いに身体を仰け反らせる。
トカミエルは、名を呼ぼうとした。
緑の髪と瞳の少女の名を知っている気がして、口を開きかける。
キィィィ、カトン……。
何処かで、古びた金属が耳障りな音を立て動いたような音が耳に届いた。
激しい頭痛に襲われ、低く呻いた。ツキン、ツキンと思考を遮るように痛む頭に眩暈がする。
「見てよ! あの女、背に羽がはえてるわっ」
「や、やだ、本当! 人間じゃないわ!」
口元を押さえ頭痛を振り払うように俯き、歯を食い縛ったトカミエルの傍で金切声が上がる。耳に痛い喚き声に、現実に引き戻された。口内に溜まった唾液を掃き出し、拭いながらゆっくりと瞬きする。
視線は、アニスを捕らえた。そのまま、値踏みするように凝視する。
それは、神秘的な光景だった。
淡い光を放つ自然の雄大さを思わせる緑の瞳は、神秘の宝石のようだった。風に揺れ流れるように歌う森の木々たちのような髪が舞い、その美しき乙女は幻覚ではないかと思わせるほどに現実味がないものだった。
まさに、至高。一瞬にして瞳も心も、魂すらも奪われる。
だが、多感期の少女にとっては自分より美しく他を圧倒する存在に、恐怖と威圧感そして嫉妬心を抱かせるものでしかない。
美し過ぎて、憎い。
完璧すぎて、悍ましい。
あんなものが存在してよいはずがないと、決め込む。
ざわつく胸を堪えトカミエルを見上げたオルヴィスは、完膚なきまでに叩きのめされた気がした。
「クッ……」
それは、オルヴィスが見たくて仕方がなかったもの。自分には決して投げかけられることがなかった、渇望した表情。
トカミエルが、今まで見た事のないひたむきな表情を浮かべ一心不乱に少女を見つめていた。
明らかに、感情の籠った熱っぽい視線。笑みを浮かべ、柔らかく微笑んでいることにトカミエルは気づいているのか。それは長年会えなかった恋人と再会出来たような。待ち侘び、焦がれ、懐かしさと嬉しさと愛しさとを合わせた、そんな微笑に見える。
オルヴィスの心には、瞬時に暗雲が立ち込めた。焦燥、失望、絶望、少女への嫉妬で覆い尽くされる。 黒くて暗い感情が暴走する。
それは、大なり小なり誰しもが胸に抱える負の感情。
トカミエルを一瞬にして虜にした、あの少女が憎い。オルヴィスの瞳には、くっきりとした悋気が浮かび上がっている。
人間は欲望が尽きず、愚劣な生き物だ。特に、心を闇に支配された場合手段は選ばない。何が善で悪か、思考能力が劣り判別がつかなくなる。このままではトカミエルを盗られ自分が惨めになるだけという恐怖心に煽られ、回避する方法を考え始めた。
元凶を潰すことが単純かつ明快だと気づく。
「なんなのッ、あの女ッ」
オルヴィスが引き攣った笑みを浮かべ、腕を持ち上げた。
そして、静かにアニスへと指を向ける。
指示を出していない、相談もしていない、けれども人間の少女たちの気持ちは容易く一つになった。互いの意思を汲み取り、同調した。
気に食わない標的を集団で覆い囲めば、勝てる。
『言い知れぬ恐怖を与えてくるあの女を、一刻も早く潰さなければならない』
団結力は悪い方向へ牙を剥く。
「魔女よ! 災いをもたらす森の魔女だわ!」
誰かが金切り声でそう叫んだ。
それは、開始の銃声。
口々に「魔女!」と喚きだす少女たちは声を荒げ、口汚く罵り出す。