恋は盲目
文字数 2,374文字
……陰鬱なここも、もうすぐ変わる。アサギがいてくれるのなら!
愉快そうに口元を歪め、天井に手を添えた。
地下の住居から地上に出ると、灰色の空を仰ぎ見て薄く微笑む。それは、いつもと変わらない味気ない世界のはずだった。しかし、今は薔薇色に見える。楽しいことなど何もないと思っていたが、明るい色彩の未来が広がっている確信を抱く。
胸に、じんわりと熱いものが込み上げる。風に髪をなびかせ、これから先の事を考えながら物思いに耽っていた。
「トランシス!」
「あぁ……オルヴィス、こんばんは」
名前を呼ばれ、こめかみを引くつかせた。
夜が更ける頃だったが、集落に住む一番の美人が手を振り媚びるように近寄ってくる。彼女が自分に好意を寄せている事は知っていたし、何度か身体も重ねている。こうして時折、親の目を盗んでやってくるのだ。
気軽に快楽を得られる、手ごろな女だった。顔も身体も
「あのね。今日、安全日なの」
「そ」
トランシスは、素っ気無い返事をして肩を竦める。普段ならば軽く笑って手招きし、家に入れただろう。だが、今日はそんな気分ではない。歓迎どころか目障りだったので、歩き出してオルヴィスの横を通り抜ける。一人でアサギを想い、酔いしれたかった。
興醒めだ。
「……?」
あまりに素っ気無い態度に、オルヴィスが顔を顰める。ふわりと、トランシスではない香りが鼻先をくすぐった。カッとして、慌ててその腕を掴もうと手を伸ばす。
今のは、女の匂い。
トランシスが自分以外の誰かと肌を重ねている事も腹立たしい、蔑ろにされたことも悔しい。つまり、先程別の女を相手にしていたから用無しということだ。
「ま、待って!」
見目麗しいトランシスに多くの女がいることは、オルヴィスも承知の上だ。それでも、自分がその頂点だと信じて疑わなかった。他はただの
しかし、それは崩壊した。自分以外に、トランシスを満足させられる女がいたのだ。
伸びて来た手を察知したトランシスは、眉を寄せて軽々とそれを避ける。
「ね、ねぇ! しよ? 私は」
「他の男に手伝って貰えよ。オレはもう、お前の性欲処理すんの無理」
冷ややかな声が浴びせられ、オルヴィスは竦んだ。態度が豹変したトランシスに愕然とし、凄まれて怖気づく。以前から冷酷な雰囲気を漂わせる時もあったが、優しい時のほうが多かった。聞き流しているのかもしれないが、一応話は聞いてくれた。望めば身体を重ね、求めてくれた。
だが、今日はどうだろう。完全に邪険にされている。触れられるのも嫌がるかのように距離を置く様子に、自尊心が砕け散る。オルヴィスは恐怖を振り払うと、怒りを露に大股で近づく。
「ねぇってば!」
トランシスの腕に触れようとしたが、強い力でその手が弾かれた。
「痛っ」
悲鳴を上げ、唖然とトランシスを見上げた。背筋が凍った、侮蔑の視線を投げかけられ一気に心拍数が上がる。冷徹な視線は、精巧な人形のようだ。
「触るな、汚らわしい! 彼女の香りと温もりが消えてしまう。もう、お前じゃ勃たない。愛する子が出来た、彼女にしか触れられたくないし、触れたくもない」
「なっ!」
唇を戦慄かせ大きく目を開いたオルヴィスを置き去りにし、トランシスは平然と歩き出す。触れた部分を、埃をたたくように払いながら。
動けなかったオルヴィスは、その場で地面に染み込んでいく水滴を見ていた。涙がこんなに流れるものだとは、知らなかった。哀しいよりも、激昂で全身が燃えるように熱い。
「な、何よ。彼女はつくらない、って言ってたじゃない。身体だけの関係が楽だって、夢の中の緑の髪の美少女を待っている、って言ってたじゃないっ! 何処の女よ、私のトランシスを横取りしたのっ! 許さない、許さないんだからっ」
大きさはどうであれ、自分に愛情の欠片が向けられていると思っていた。だが、今のトランシスの言葉で全くなかったと思い知らされた。見下してい他の女と同様にただの気まぐれで、お遊びだったのだ。
オルヴィスの怒りの矛先は、名も姿も知らぬ少女に向けられる。悪いのは“自分が好いた男”ではなく、その男の心を奪った“女”。
「ゆーるーさーなーいっ!」
唇を強く噛み締め、爪を二の腕に突き立てる。絶叫したいのを必死で堪え、産まれて初めて腹の底で蠢く憎悪を感じた。
いつも、何処か遠くを見ていたトランシスに惹かれていた。寂しそうなその背中が好きで、時折見せる子供のような笑顔と、無下に扱う高圧的な態度に胸がときめいていた。
そんな彼が、酔うと決まって口にするのが『緑の髪の美少女』。
夢に出てくる一際美しい少女で、彼女こそが自分の運命の恋人であり、そのうち目の前に現れるはずだと、心底幸せそうに語っていた。
嘘だと思っていた、誰も選ばない為の虚言だと思い込んでいた。緑の髪の少女など、この集落には存在しない。そんな夢物語を、誰も信じていなかった。
髪を振り乱しながら地面を踏みしめ、自宅へと向かう。このような集落にも貧困の差はあり、オルヴィスは比較的裕福な家柄の一人娘。トランシスが養子婿に入ってくれれば、と勝手に願っていた。
必然的に、そうなるものだと思っていた。そうすれば、彼が衣食住に困る事はない。
「お前じゃ勃たない、って……。馬鹿にしてっ! あんなに『イイよ』とか、『すごいな』って言ってくれたじゃないっ!」
捨て台詞を吐き捨て、自室に閉じこもると枕を潰す勢いで握り締める。噴煙のように吹き出る嫉妬心を、止められなかった。