口づけの加護
文字数 4,642文字
ミノルはことに及ぶ前に倒れ、トモハルがそれに付き添う。そのため、二人は見ていない。
興味津々のアリナとマダーニは、穴が開くほど見入った。固唾を飲む音が響き、身体を寄せ合い興奮を押し殺すため互いの腕を掴む。
免疫のないクラフトは、顔を真っ赤にして俯き耳を塞いだ。
ガーベラは、真顔で皆の反応を一瞥した。そして、トビィの背中を通り越し、口づけしている二人を見やる。それは、見ているこちらが恥ずかしくなるほど激しいものだった。余裕のない、荒い息遣いが間近で聞こえた気がして身体が震える。
引き寄せられるように二人の唇を凝視していると、気づかぬうちに薄く唇を開いていた。あのような情熱的な口づけを最近交わしただろうか、と瞳を細める。
しかし、すぐに我に返った。
産まれてからこれまで、経験した記憶が無い。気づいて、一瞬目の前が真っ暗になる。
幾多の男が身体の上を通過していった、それは売春婦だったガーベラにとって日常茶飯事のこと。そんな中、口づけを挨拶程度に交わすことはあった。雰囲気作りのために、恋人の真似事をしたこともあった。
けれど、それらは目の前のトランシスとアサギの口づけとは違うものだ。
見せつけているのだろう、しかし“普段通り”なのだろう。あれは二人にとって愛情の確認であり、証明。互いの想いを、言葉のように交わす手段。
何故か、とても尊い行為に感じた。
恥じらっているアサギだが、トランシスの舌の動きに合わせて戸惑いながらも絡めている。それも、ごく自然に。慣らされているのだろうが、強制ではない。
二人の指も身体も、呼応するように絡み合う。逃げ惑う指先を掴まえ捕え、掌に閉じ込めるトランシスはとても嬉しそうだった。
人がいてもいなくても、普段からあのように熱い口づけを交わしている。その事実が、少しだけ、いや、とても羨ましい。あのように我を忘れられる営みが羨ましいのか、それとも周囲を気にせず二人の世界に入れる恋人の関係が羨ましいのか。
何が羨ましいのか解らないが、ガーベラは目の前の情景に酷く焦がれた。じんわりと下腹部が熱くなり、もどかしくて腰を揺する。濡れている自分に気づくと、信じられないと瞳を開き、気まずそうにトビィの背中に視線を戻した。
そこで、現実に引き戻された。喉の奥で、ヒュッと音が出る。
トビィは出口を持たぬ怒りを全身に閉じ込め、身体を小刻みに揺らしている。激怒している彼は、全てを凍てつかせてしまうほど。今にも手にした木刀で殴りかかりそうだが、折れてしまうのではないかという程に渾身の力で握り締めている。
よく耐えていると思う。
誰の目から見ても、トビィの想い人はアサギ。知らないのは当の本人である、アサギだけ。
トビィと親しい者たちは、酷く気の毒に思った。あれは地獄だ。
「んふっ、ぅっ」
ようやく、二人の長い口づけが終わる。
糸引く唇が微妙に離れると、熱に浮かされた顔をしたアサギの膝が折れる。力が抜けてしまったらしく、トランシスにもたれこむと震えながら胸に顔を埋めた。
風船が割れたように、皆がそこに集中する。
全身が沸き立つような快感を感じながら、トランシスはアサギを満足そうに抱きとめた。周囲が苛立つほどの、勝ち誇った笑みを浮かべて。
「ひどいっ、こ、こんな恥ずかしいこと、みんなの前で」
小声で文句を告げたアサギの耳元に、口を近づける。
「でも、気持ちよかっただろ? 恥ずかしいことなんて何もない、オレたちは
トランシスは顎に滴る混じり合った唾液を手首で拭い取ると、唇を動かしてこう付け加えた。
「アサギが誰の所有物なのか、はっきりさせておかないと。ね?」
アサギの頬に口づけ、やんわりと舌先を滑らし、耳たぶを甘噛みする。
過敏に反応し甲高い声を上げたアサギは、慌てて口元を押さる。震える足を奮い立たせ、懸命に地面に立った。産まれたての小鹿のように足をガクガクさせ、ますます頬を赤く染める。
「さぁて、お待たせしましたトビィおにーさま。オレの愛するアサギから勝利の加護を貰ったことだし、そろそろ始めましょうかー!」
右手で木刀を振り回し、トランシスは爽やかに笑う。腕の中には、狼狽しているアサギ。大きく伸びをしてから、その頭を撫でて歩き出した。
支えを失くし数歩下がったアサギは、地面に座り込む。
その気配を感じとり、薄く笑みを浮かべたトランシスは改めてトビィを挑発的に睨む。木刀を両手で持ち、構えた。
「馬鹿じゃないの、アイツ! トビィに殺されるぞっ」
アリナが焦燥感に駆られた声を上げ、いつでも仲裁出来るように近寄ろうとした。
だが、殺気に行く手を阻まれる。喉元を締め上げられた気分になった。トビィからの威圧が半端ない、邪魔立てするな、とこちらにまで殺気を放っている。アリナですら、気圧されて足が竦む。
「駄目だ、死人が出るっ。 魔王戦よりも本気だっ」
「本気ではありません、あれは逆上というのですっ」
クラフトがアリナの援護に入り、杖を振りかざしてトランシスを護る姿勢を見せた。このままでは、死人が出ると判断したのだ。
「感情の制御をせず、目に入る障害物を全て破壊するでしょう」
「破壊のドラゴンナイト様降臨だよ!」
それほどまでに、目の前のトビィは脅威だった。それこそ、魔王ミラボーに匹敵する。あの時の恐怖で痺れるような感覚が甦り、電光のように素早く身体中を駆け抜けていく。全身総毛立った。
しかし、標的であるトランシスは飄々としている。
その様子に、流石にアリナが顔を引き攣らせる。
「アイツ、馬鹿なの? ここまでの殺気をぶつけられて、解ってないって大馬鹿だろ!?」
「いえ、これは……もしかして」」
クラフトが瞳を細めると、隣でマダーニが腰に手をあて緩やかに右手を振った。
「計算したんでしょ。トビィちゃんが理性を失えば、隙が出ると思ったんじゃない? ワザと煽ったのよ。そして、更に勝算がある」
低い唸り声を上げ、アリナが舌打ちする。マダーニの言った意味を即座に理解し、目の前の光景に頷いた。
「アサギか」
「えぇ。確実に助けてくれるって解ってる。そして、アサギちゃんが助けに入れば、トビィちゃんは手を出せない」
アサギは、胸の前で手を組んでいた。レースをふんだんにあしらったスカートがふわりと波打ち、緑の髪が風になびく木の葉のように揺れている。
すでに、回復魔法の詠唱に入っていた。
恋人を護る為なのか、万が一に備えてなのか。それゆえ、絶望的な結果は回避されるだろう。鉄壁の護りがそこに存在する。
「トビィちゃんが圧倒的に不利よ。っていうか、屈辱よ。ここまで馬鹿にされたのに、一撃すら入らないかもね。いや、
「万が一入ったとしても、アサギによって一瞬のうちに回復されてしまう、ってことか。……痛たましい」
トランシスが余裕ぶっている理由が判明した。戦略だろうが、あまりにも汚い。
複雑な思いで外野が見守る中、先に動いたのはトランシスだった。走り出して、大きく振りかぶる。優越感に満ちた瞳で高らかに笑いながら振り下ろした木刀は、トビィによって難なく弾かれた。下から上へ跳ね飛ばされ、右手がジン、と痺れる。思わず手放しそうになったが、堪えて強く握り締めた。
しかし、間入れずトビィの回し蹴りが襲い掛かる。左足を軸にし、強烈だが華麗に放たれたそれはトランシスの腰を捕える。
倒れ込むようにして後方に逃げたトランシスは、舌打ちした。重い痛みが、全身に広がる。
「残念だったな、冷静さを欠けば勝機があるとでも?」
息一つ乱れず、手の中で木刀を遊ばせながらトランシスを追撃するトビィの瞳は座っている。
圧倒的な力で押さえつけられ背筋が凍り付いたトランシスは、防御が遅れた。がむしゃらに木刀を突き出したが、先端を弾かれ遠くへ飛ばされる。
カラン、と虚しい音が響いた。
「ガッ!」
喉元に、木刀が突き当てられていた。その冷たい感触に、喉が鳴る。
けれども、トランシスは嘲るように鼻で笑う。喉ぼとけにググッと先端が押し付けられたが、笑うのを止めなかった。掠れる声を出す。
「オレより長くいたのに、お前は“お兄様”止まり。……同情してやるよ、可哀想に」
眉間に皺を寄せたトビィは、木刀をそのまま上げた。トランシスの顎骨が軋み、呻き声が漏れる。
このまま喉を突き刺してしまえば、容易く息の根を止める事が出来る。
しかし、トビィには出来なかった。瞳の端に、アサギが映っている。
どれだけ憎くとも、アサギの目の前でこの男を殺すことなど出来るわけがない。悲しむことが目に見えている。
トビィは、切れるほど唇を噛み締めた。
「クククッ……ホント
予想通りトビィが躊躇しているので、嬉々としてトランシスは血走った瞳を向けると手を突き出す。
「来いっ、オレの炎」
言うが早いか掌から炎の球が現れ、トビィに向かって放たれる。
周囲はどよめいたが、トビィは無言で右に避けた。それくらい造作無い。トランシスが何度炎を出したところで、同じだ。確実に距離が縮まる。
標的を失った炎が街中に飛び出すことを恐れ、慌てたアリナは消化活動に入った。
「何アイツ、魔法使えんの!?」
予想外の展開に、周囲が混乱した。木刀で稽古、などもう忘れられている。これは、一人の女をめぐって起きた決闘だ。
炎を連発するトランシスは、木刀を探す。追い詰められるフリをして地面に転がる木刀の先端を勢いよく踏み、宙に浮かせると掴んだ。顔を大きく歪めて笑うと、右足で踏み込む。
「アサギはな、オレのなんだよ。見てただろ?」
一歩も引かずに渾身の一撃を難なく受け止めたトビィは、押し返した。
負けじと両手で剣を押さえ、懸命に堪えるトランシスの両足が徐々に後退する。ジャリジャリと音を立てて小石や草を巻き込み、滑る。身体中が軋む、信じられないほど強い力が襲い掛かかった。その場で堪えようにも、まるで滑る床に立っているよう。
しかし、脂汗を浮かせ息も絶え絶えに、トランシスは嗤った。
「可愛いんだよなぁ、アサギ。知ってるか? いや、知るわけないか。恥ずかしそうに顔を背けるけど、唇を少し開いて、舌を僅かに突き出す。恐る恐るオレの唇を舐めるのも一瞬で、すぐに大胆に絡めてくる。ホント、呆れるくらいに妄りがましい。そこが、愛らしい。まぁそれも、オレにだけだけど、なっ!」
両腕の感覚がなくなり、木刀が手から滑り落ちる。だが、大きく吼えるとトビィの懐に飛び込んだ。
「御愁傷さま。……どうしてお前、ヤらなかったの? 犯す時間は十分にあったろ? ずっと一緒にいたんだろ?」
勝ち誇ったように顔を歪め、胸の前で先程とは比べ物にならない巨大な炎をトビィの腹目掛けて叩きつけた。
舌打ちし、後方に素早く飛んで宙で一回転したトビィは下を通過する炎を睨み付ける。華麗に着地し再び剣を向けるが、後方からの異質な気配に振り返る。
避けた炎が、戻ってきた。
余裕めいたトランシスは、欠伸をしながらぎこちなく指を動かしている。どうやら意のままに操れるようだ。
「アイツ……」
訝し気に見やったトビィだが、地面を焼き尽くしながら進んでくるそれに集中する。身体を隠すように木刀を立て、咆哮した。