外伝2『始まりの唄』10:凶夢
文字数 5,118文字
「……アリア?」
トバエは一人きりで立っていた。
周囲を見渡したが、暗闇で何も見えない。瞳を賢明に凝らし、その暗さに慣れると、そこが無音の空間であることに気がついた。
「アリア!」
弾かれたように、いつも傍らにいる愛しいアリアを呼ぶ。出逢ってから片時も離れた時などない、離れてはいけないと思っていた。焦燥感に駆られ大声で名を呼ぶが、返事は無い。
名を呼び続けながら、暗闇の中を駆けまわる。そこは、何処まで続いているのか解らない、虚無の空間だ。足元は平坦で、周囲には石ころ一つ、いや砂すらない。本当に地に足はついているのだろうか、それとも走っている錯覚に陥っているだけで地面など存在しないのか。
置かれている状況が、解らなくなってきた。
しかし、恐れている暇などなく、ただアリアの身を案じた。この空間の何処かで泣いている気がして、唇を噛締め走り続ける。
恐らく、目を腫らし泣きながらアリアも自分を捜しているだろう。
足が軽くもつれたが、すぐに体勢を立て直し再び走る。しかしそれを嘲り笑うかのように暗闇が膨張し、襲い掛かってきた。目には見えない漆黒の何かが波の様に覆い被さり、元居た場所へと押し戻す。
「アリア!」
トバエは跳ね起きた。
小刻みに震える身体からは、汗がとめどなく吹き出している。
「ッ、ハッ」
指先を怖々動かし、ゆっくりと瞬きをする。額の汗を拭いながら、深呼吸を繰り返す。周囲を見渡せば、見慣れた自分の家で間違いない。
安堵し、急に力が抜けた。
室内はまだ薄暗く、トバエの荒い呼吸だけが響き渡っている。慣れた家だというのに、シン、と静まり返っており不気味だ。
低く呻きながら、隣で寝ているアリアに腕を伸ばし抱き寄せる。間違いなくそこに居ることを、体温で確認した。大きく肩で息をし、未だに震えている自分の二の腕に軽く爪を立てる。
ただの悪夢だというのに、妙に気色が悪い。腹の奥で何かが蠢いているような、誰かが背後で監視している様な。
汗で濡れた肌着が冷えて寒く、身震いする。呼吸は、まだ乱れを残していた。夢に翻弄される自分に苛立ちを覚え、頭を振る。不気味な歯痒さに気分が滅入り、アリアの髪を撫でながら気持ちを落ち着かせる。
アリアは、その掌でトバエの衣服を掴んだまま眠りについていた。
トバエは無意識に、その華奢な手に自分の手を重ねて包み込む。温もりがトバエを安心させ、険しい眉が少し解ける。
日中、トバエの目の届く場所にアリアは大体いる。離れるとすれば、夜眠っている間だ。一つの寝台に横たわり、腕を絡ませて眠りにつくが、眠っている間は姿が確認できない。夜がアリアを連れ去ってしまわないかと恐れていた、幼き頃を思い出す。地獄の帝王なるものがもし存在するならば、アリアの美しさに惹かれ夜に紛れてやって来て、そのまま連れ去ってしまうのではないかと。
そんなもの存在しないと解っている今ですら、やはり怖い。
最も怖いのは、得体の知れないモノではない。同じ人間だと、肝に銘じている。
「あぁ、そういえば。昨日、一時離れたな。原因はそれか」
トバエは苦笑し、情けなく吐露した。古い家は、大雨ともなれば雨漏りが酷い。休日だったので、日曜大工に勤しんでいたが、アリアは常備野菜の買い出しに一人で出掛けた。やはりついていけばよかったと、後悔した。
トバエはアリアの額に、頬に、瞼に、髪に口付ける。
「君がオレを想う以上に、オレはアリアを愛している」
アリアが自分を慕い、愛情を注いでくれていることは承知している。しかし、自分の想いが強い事など判り切っていた。死がニ人を別つまで、共に居たい。常に寄り添い、同じ時間を過ごして生きたい。
自分のこの溢れ出るもどかしい愛情を、全てアリアに伝える手段が見つからない。言葉でも、態度でも、表現できない。解って貰えなくても構わないから、強く抱き締めたい。
永久に同じ時を過ごせば、いつかは気持ちが伝わるだろうか。
……愛しいアリア。その花のような笑顔を護るためならば、オレは何だってしよう。
トバエは再びいつしか眠りについていた、傍らのアリアを強く抱き締めながら。
眩しい陽射しが容赦なく差し込んでくると、トバエとアリアは口付けを交わす。
「おはよう、トバエ。よく眠れた?」
起床時と就寝時に口付けることは日課であり、今後も続いていくだろう。
アリアは小さく笑うと、寝台から這い出して朝食を作り始めた。
忙しなく動くアリアに微笑し大きく伸びをすると、トバエも椅子に深く腰掛けた。
「他に、何もいらない。アリアが笑ってくれるなら、それだけで満たされる」
小声で、呟く。
今日は、休日。ツンとした香辛料の刺激的な香りが漂ってきた。瞳を閉じ、ゆったりとした時間に至福を感じていると急にこめかみが引きつる。我に返って瞳を見開くと、耳元で水音が聴こえた気がした。
「水精……か?」
口元を押さえ、今朝の夢を思い出した。
トバエは、幼い頃から水を操ってきた。産まれながらに備わっていた能力だが、それが特殊な能力だと知ったのは物心ついてからだった。『頻繁に使用してはいけない』と教えられた、それは人に仇名す最凶の武器であると。
人々は畏怖の念を抱き、恐怖感から従順になるだろう。しかし、それでは人の本心が解らなくなる。そして、足元を掬われかねない。
この能力が不要だと思っていたトバエは、滅多に使うことは無かった。最後に使ったのは、あの忌まわしい城に自分が身を置いていた頃。
大気中の水分を瞬時に凍らせ、敵に打ちつける。標的を貫きたい時は、鋭利な氷柱を作り出して投げつける。確かに便利だが、剣の腕が確かなトバエには不要だ。
そんな特異能力を使用する際に、常に傍に現れる影があった。その影を“水精”と呼んでいる。人型のそれは、なんとなく男である気がした。また、危険が迫っていると水精が現れ警告してくれた。『命を狙う輩がいる』『トダシリアが悪事を働こうとしているから、事前に防ぐべき』王子であった頃は常に危険と隣り合わせだったので頻繁に見ていたが、定住してから、久しく水精の存在を忘れていた。
水精は味方であり、未来を夢で教えてくれたりもした。
「トダシリア、か」
その忌まわしい名を呼び、トバエは心底嫌な顔をした。何故爽やかな早朝から、こんな重苦しい溜息を吐かねばならないのか。今日一日億劫な時間を過ごすのはごめんだと、引き攣った笑みを浮かべる。
今の今まで、思い出すことはなかった双子の兄トダシリア。実の兄にして、この世で最も嫌悪する男の顔が浮かぶ。
今、兄はどうしているのだろう。少しは利他的な生き方をしているのだろうか、それとも以前のまま暴君と化したのか。国はどうなったのだろう、やはり荒廃しているのだろうか。
「忘れよう、ろくな事がなさそうだ」
重い泥濘のような感情に項垂れ、しかめっ面で突っ伏す。
……もう二度と会う事はない、大丈夫だ、落ち着け。
自身に言い聞かせ、顔を上げる。食事の用意を続けていたアリアを見つめていると、心の霧が晴れていく。窄った眉根を開き、席を立った。
「運ぶ、貸せ」
「座っていてくれてよかったのに」
「ニ人でしたほうが早いだろ? 何でもニ人でするんだ、ずっと一緒だから」
軽く肩を竦めるアリアの背を叩くと、トバエは手際よく朝食を並べ始めた。昨晩の野菜スープに手を加え、牛乳を入れたミルクスープに小麦を水で溶いて丸めたものが入っている。それに塩漬け肉の切れ端と野菜を追加したらしい。
「いただきます」
アリアの手料理で不味いものなどない、昨晩の残りで作られたとは思えない、旨いスープが出来上がっていた。寝かせたからこそ、深味が出たのだろう。
「今日も美味い。オレはアリアのスープにはいつも驚かされる、大好きだ」
「ありがとう、トバエ。喜んでもらえるから、作り甲斐があるね」
満ち足りた表情で食事をしていたトバエに反し、アリアの表情は曇っていった。最終的にはスープを残し、食事の手を止める。
気づいたトバエが、眉を顰め声をかけた。
途端、喉がしめつけられるような恐怖に襲われる。
「どうした、気分でも悪いのか?」
すぐさま立ち上がると、蒼褪めていたアリアに駆け寄り肩を抱く。
ぎこちなく微笑んだアリアは、大粒の涙を零した。そしてトバエにしがみ付くと、口を開く。
「ゆ、夢を見たの。今朝、変な夢を見たの……」
トバエの表情が強張った。震えるアリアを抱き締めながらも、自分も震え出したことに気がついた。
「いないの、トバエがいない。誰かが近くにいるのに、それはトバエじゃないの」
「オレが……いない?」
反芻したトバエは、今朝見た夢を思い出した。
闇の中で一人きり、アリアを探しているあの不気味な夢。確かに、アリアはいなかった。そこは、忘却の果てにある虚無の世界のようだった。
惨憺たる、悪夢。
「たかが夢だと笑うでしょ? だけどね、すっごく怖かった。押し潰されそうな程、息苦しくて。忘れようとしたのに、思い出してしまう」
最後のほうは、アリアの声が擦れていた。
必死に宥めながら、トバエはその震える肩を抱き締める。
「落ち着いて、アリア。ほら、温かいだろう? オレはここにいるよ、大丈夫だ」
嗚咽しているアリアを抱き締めながらも、自身も不安で仕方が無い。だが、恐ろしくて口には出せなかった。正夢になってしまったらどうしようと、息を飲む。『同じ様な夢を見た』などとは、口が裂けても言えない。
しかし、アリアも似たような夢を見るなど、ただ事ではない。
警告だと、断定した。
「……アリア、一旦この街を離れる。楽器は後で取りに戻ろう、不吉な予感がする」
顔を上げたアリアは、不安そうに頷き胸に顔を埋める。
優しく包み込むように頬に両手を添えたトバエは、唇に数回口付けた。多少のこわばりが解け、アリアが唇を開く。互いを求め、慈しみ、慰め励ます様に、情熱的な口づけを交わす。
「落ち着いたか?」
「うん……」
微かに頷き、力なく微笑んだアリアを抱き締めると、トバエは立ち上がった。
街から立ち去り、惨劇を回避する。それが、今やるべきことだと確信した。
夢が指し示した未来は、ニ人の決別。
「ふざけるなよ……」
そんな生き地獄には耐えられないし、付き合う気もないと、トバエは荷物をまとめた。別の場所で簡易に暮らせるだけの衣服と全財産を所持し、簡単に部屋を片付ける。
ニ人は外套を被ってひっそりと家を出た。勤務先に挨拶が出来ない事が心残りだが、一刻の猶予も無い気がして出来なかった。一応、裏口に詫びを記した手紙を投げ込んだ。
人目を気にしながらも、街の門を目指す。
一体、“何から”逃れようとしているのか。
自分達の行動を知られてはいけない気がして、極力目立たない路地を選んで進む。
門が見えたのでトバエは軽く安堵の溜息を零し、手を繋いでいたアリアに振り返る。
だが、アリアは不思議そうに門を見つめていた。
人だかりが出来ていることに気づいたトバエは舌打ちし、焦燥感に駆られる。武装した兵達がおり、街の住人達が何かに脅えるようにざわめく。
「チッ、こんな時に……」
検問しているらしい。
重々しい雰囲気に包まれ、人々は当惑している。時間がかかりそうだが、進むしかない。トバエは忌々しそうに舌を鳴らし、アリアの手を引いて人々の間を掻き分ける。
馬を借りる為に、名前を記載している時だった。
「現れたぞ! 囲め!」
兵が、大声で叫んだ。
何事かとトバエが振り返った時には、すでに遅い。四方から槍を向けられており、馬屋の主人が悲鳴を上げる。咄嗟にアリアを抱き締めると、腰に下げていた剣を引き抜いた。
「何事だ! オレ達は何も」
「あぁ、よかった。まぁ、鈍間とはいえトバエのことだから、そろそろ動く頃だとは思っていたけれど。……この街から逃亡するだなんて、兄さんが許さないよ?」
鼓膜に絡みつくような、粘着を帯びた悍ましい声に、トバエの身体が瞬時に凍りつく。今朝方の夢が現実になる気がした。一気に鳥肌が立ち、口にしたくなかった忌むべき名を、掠れた声で呟く。
「トダ、シリア……」
「久し振り、トバエ」