忍び寄る崩壊の足音
文字数 4,733文字
ひっそりとした森で、マビルは今日も退屈だと欠伸をしながら小屋の中で眠っていた。微かな音に顔を上げると、緊張した面持ちのアイセルと視線が交差する。
「おかえり、おにーちゃん」
パアッと顔を輝かせ、駆け寄る。
「ただいま。ほら、御土産」
馴染みの店の美味しい焼き菓子を受け取って、早速口にする。甘さに顔を綻ばせアイセルの顔を覗き込むが、名状しがたい悲しさを漂わせた表情に言葉を詰まらせた。
「……何かあったの?」
「魔界が、大きく動く。マビル、アサギ様にお会いする日は近そうだ」
喜ぶべきことなのか判断出来ず、マビルは唇を尖らせる。
「ふぅーん? 性急だね? まぁ、あたしはあたし。おにーちゃんの判断で、適当に呼んで」
不貞腐れた様に椅子に座り菓子を行儀よく食べ始めたマビルを見つめ、アイセルは知らず溜息を吐いた。今すぐにアサギと会わせるべきなのか、否か。ここへ来て、あまりに曖昧な予言に、焦燥感に駆られる。
マビルの魔力をもってすれば、その辺りの魔族を蹴散らすことが出来る。アサギの護衛にはもってこいで、これ以上の逸材はいない気がした。
ただ、アイセルの一任でマビルを森から出すことは禁じられている。
「なるべくすぐ戻る。マビルも気を付けてくれ」
「気を付けろと言われても、この森から出られないし……」
「得体の知れない人間が魔界に侵入している」
「それ、勇者のことじゃなくて?」
呆れた様に髪をかき上げたマビルを一瞥し、アイセルはアレクに相談する為すぐに引き返した。
生々しい傷跡に触れられるような苦痛に、アレクは喘ぐ。それでも、自分を叱咤しトビィの言葉を思い出していた。身体中に力が入らない、起きなければと思うのだが、何かが身体に覆い被さっているようで、動く事が出来ない。ようやく腕に爪を立てて起き上がったものの、眩暈がする。
……ロシファは恐らく死んでいる。
認めたくはない、希望を持ちたい。
けれども、現実から目を背けてはならない。
彼女は、死んでいた。
解りきった事だった、アレクが認めるのに時間を要しただけ。
問題は『何故身体を運んだのか』。アレクは歯軋りし、床に拳を叩き付ける。絨毯に染みていく涙を、荒い呼吸で見ていた。
「エルフの、血」
小刻みに震えだした腕を、必死に抑える。理由を知っているからこそ、一刻の猶予もない。トビィの言う通り、先頭に立って指示せねばならない。しかし、想像以上にロシファの死がアレクに圧し掛かっていた。
「ロシファ、君の言う通り私は脆弱な男だった」
自嘲気味にそう呟くが、背中を押してくれる最愛の人はもういない。
ロシファの身体を持ち去った理由、それは混血であるとはいえ、エルフだからだ。エルフの血肉を必要とする者が、何処かに身を潜めている。
それこそが、憎むべき敵。
アレクは、ロシファからその血液ゆえに多くのエルフが犠牲になったことも聞いていた。ただ、アレクもロシファすらも知らなかったことがある。
それは、体液にも効果があるということ。身体を重ねてはいなかったものの、口付けは交わしていた。微量だが、アレクはロシファの唾液を体内に摂取し続けていた。
その為、魔王アレクの魔力は格段に高い。類稀な子と呼ばれ育てられたが、ロシファの力添えもあった。それは、誰も知らない事。
もし、アレクとロシファに子がいれば。いや、身体を重ねていたならば。魔王アレクの能力は更に高まっていただろう、現時点で敗北のニ文字はなかったかもしれない。
アレクは、唇を噛みしめ立ち上がった。忌むべき敵は、誰だ。何処にいるのか。
自分の机の引き出しに手をかけ、一番上に置かれている書類を出すと目を通した。極秘に人間界へ飛ばした魔族達からの報告書で、気になる点が幾つかあり、捜査を続けている。
最近、人間達の間で“破壊の姫君”なるものを信仰する人間が増えているとのこと。しかも、先導者は魔族であると。詳細が知りたいが、関わった者はそれ以後、連絡が途絶えてしまう。煙はたつが、火元が不明。恐らくは、踏み込んで消されたのだろう。
アレクは、その破壊の姫君への生贄としてロシファが選ばれたのでは、と思案した。報告書によれば、本拠地は人間界の“シポラ”という場所。時間がない、屈強で信頼できる者を、その地へ派遣せねばならない。
破壊の姫君については、アレクの従兄弟であるナスタチュームも調査にあたっている筈だった。
女の様に華奢で一見頼りなさそうだが、潜在能力は未知数である従兄弟。有事の際には駆けつける、と互いに約束し、幼き頃生きる場所を分けた。双方が魔界に居ては、転覆を企てる何者かに消されかねなかった為だ。
ナスタチュームは、正統な魔王後継者でもある。アレクに万が一があった場合、彼が魔王の座に就く手筈だ。しかし当の本人は嫌がっており、寧ろ予言の次期魔王であるという娘を渇望している。「自分は王の器ではない」と笑うが、それは謙遜。暢気に見えて頭が切れる従兄弟に、連絡を取る事にした。
頻繁に取り合っていなかったのは、ナスタチュームが狙われても困るからだ。表向きでは、仲違いをしたことになっている。
ナスタチュームは“アレクセイ”という小島に、数人の魔族と住んでいる。そこへ出向こうとしたが、今この地を離れるのは気が引けた。
水鏡を用意し、思念を飛ばす。ナスタチュームが傍にいたら、反応が有る。
『……アレク、ですか。久しいですね、非常事態ですか?』
意識を集中させれば、直様ナスタチュームから返答があった。揺れる水面を見つめると、黒髪の従兄弟がぼんやりと浮かび上がる。水面を見つめている互いの顔が映る仕組みだ、若干微笑んでいる姿に肩の力が抜け、無事を確認するとアレクは緊張した声色で話し始める。
「ロシファが、何者かに襲われた。息絶えていたが、亡骸を持ち去っている」
『御悔み申し上げます。エルフの血肉を欲する輩が出た……ということですね。非常に危険です』
「あぁ。私は噂の破壊の姫君とやらを祀る、邪教徒の仕業ではないかと思うのだが。その後の調査で何か?」
『教祖は魔族ニ人、双子らしいです。多くの人間達が丸め込まれシポラに集っていると。……ところでアレク、勇者についてですが』
「勇者? あぁ、異界から来た勇者のことか。どうした?」
『勇者には到底見えない、とても麗しい少女が勇者だとオークスから聞きまして』
「アサギのことか。確かに愛らしい容姿をしている」
『……何故、その名を?』
ナスタチュームの声色が変わったので、アレクが首を傾げ続ける。
「何故も何も、今魔界にいる。ハイが一目惚れして連れてきた、皆と仲良くやっているが……」
『報告が遅いですよ!? アレク、今すぐ私達もそちらに向かいます! オークス! サーラ! 魔界イヴァンへ!』
アレクの言葉を遮って、ナスタチュームが金切り声を上げた。
あまりの騒音に耳を塞ぎ顔を顰めたアレクは、顔を大きく歪める。産まれて初めて、ナスタチュームの怒鳴り声を聞いた。耳から入った震動が、脳を破壊しそうな勢いだ。
確かに勇者の報告を怠ったことはこちらに非がある、しかし、そこまで騒ぐことだろうか。アレクは眉間を指で揉み、痛みから逃れようと試みている。
「ナスタチューム? おい、ナスタチューム? 私が言いたいことは、そのエルフの血肉を欲する者が王家転覆を狙っているのではないかということで」
『ロシファを攫った輩と、破壊の姫君を祀る輩が繋がるかどうかよりも、今はアサギを。誤算でした、まさか魔界に来ているだなんて!』
「彼女は勇者にして、次期魔王候補であると予言に」
『……予言家の、ですね!? なんてことでしょう、こうなるともう……。アレク、彼女から目を離さないでください、彼女は』
「いや、離すわけがないだろう。大事な子だ」
『アレク、貴方は事の重大さを認識しておりません! オークス、サーラ! 共に来て下さい、今こそニ人の力が必要です。この島の警備も念の為怠らないように、ジーク辺りに指示を』
「ナスタチューム? ナスタチューム!」
『彼女が、破壊の姫君です。全てが真実ならばアサギは異界から来た勇者で次期魔王候補でありながら、破壊の姫君という座に就く可能性があるのです! いいですか、アレク。まずはロシファを攫った敵の本当の目的を』
「…………」
唖然と立ち尽くすアレクの耳には、ナスタチュームの喚き声が響いていた。口元を押さえると、その場に崩れ落ちる。
「どういうことだ」
喉の奥から、驚くほど平坦な声が出る。思考と感情が追いつけない。アサギに妙な糸が絡まりすぎている。
「アサギ……そなたは一体何者だ」
今の事実を、誰に告げるべきか。ナスタチューム到着まで、胸に秘めておくべきなのか。混乱したアレクは、震え出した身体を腕で抱き締めた。
アレクが焦慮している頃、ホーチミンは胸騒ぎを覚え、図書館へと向かっていた。途中サイゴンに出くわし叱咤されたが、懸命に説き伏せる。
「お願いよ、もう一度! あの図書室に賭けてみたいの、私が感知出来るのならば、また新しい情報が」
「落ち着け、ミン。読んだ本のことは一旦忘れよう、今は警備に集中してくれ。ミンの魔力は絶大だ、図書室に籠もっていては万が一の有事に対応出来ないだろう!?」
「でも、でも……っ」
「緊急事態なんだ。だが……そこまで言うなら、本を片っ端からミンの配置されている場所へ届けてもらうように、アレク様に頼んでみるか」
「……それで、本が無事に私のところへ届いてくれればよいけれど。嫌な予感がするのよ、怖い」
青褪め震えるホーチミンを、サイゴンが力強く抱き締めた。通行する魔族が、口元を緩ませて通り過ぎていくが無視する。背を撫で、必死に慰めると耳元で囁く。
「大丈夫だ、ミン。俺がいる、幼馴染の俺が共に。この危機を乗り越えよう、そうしたら落ち着いて本を探そう」
「そう、なの。それは、解るけど、でも……そうよね、魔力で結界を強めないとね。本は……」
重心をサイゴンにかけて身を任せたホーチミンは、長い睫毛を涙で濡れした。腰に手を回し、ニ人はそうして寄り添っていたがやがて離れる。困ったように笑い、小さく手を振ると長いドレスを翻し図書室から離れていく。
それを見たサイゴンは安堵すると、未だに残るホーチミンの花の香りに顔を赤らめその場を去った。
カトン……カトトン……。
図書室にて、管理人が音を聞いた。不審に思い、明かりを片手に数人で見回りを行ったが異変はない。皆は、腑に落ちない様子で持ち場に戻った。
カトトン……。
本棚の一箇所が、青白く光っていた。
『名前を呼ばせてください、貴方の名前を呼ばせてください。
私に何か力を下さい、奇跡を起こせる力を下さい。
その代償として、何かを失っても構いません。
どうか、どうか。
あの人の名前を呼ぶことが出来るように、また、会えるように。
……会いたい、です。
暗闇の中、照らす光は何でしょう。
明るい太陽の光でしょうか、優しい月の光でしょうか。
それとも、全てを焼き尽くす炎の煌きでしょうか。
それはきっと、貴方の光。』
青白い光は揺らめく。
太陽光が、燦然と輝く美しい黄緑色の髪を照らし出す。髪を靡かせながら、消えそうな美少女がそこに立っていた。大きな瞳で何度か瞬きしながら、何かを探すように図書室に視線を送る。
落胆した様子で、美少女は。
否、アサギに良く似たその美少女は悲しそうに微笑むとゆっくりと消えていった。
図書室に、静寂が戻る。
※挿絵は、上野伊織様から頂いたものです(*´▽`*)