無垢なる混沌~トーマ・ルッカ・シィーザ~
文字数 5,228文字
「僕、また旅に出るよ。今度は、そうだなぁ、カナリア大陸にでも行ってみようかと思って」
食後の蒲公英珈琲を飲んでいたアイセルが、トーマへ視線を投げた。声から感情を上手く読み取る事ができない、しかし、寂しいのは間違いない。けれども、好奇心が強い少年だとも知っている。人間だからと、大人しく魔界でアイセルとマビルに護られて暮らしているような性格でもない。今までと同じ様に旅に出ると言い出すことは、想定内だった。
「一体、何処に居たんだ?」
「んー、ヴィクトリア大陸を彷徨ってた。けど、何かありそうな気がして陣描いて戻ってきた」
テーブルの上に足を放り出したトーマを、頬を膨らませたアイセルが睨みつけて叱咤する。
首を竦め、苦笑したトーマは足を下ろし、きちんと背筋を伸ばし座り直した。
満足して頷いたアイセルは、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうか……元気で。次はいつ戻る? トーマなら戻りたければすぐにでも戻る事ができそうだが」
「さぁ。面白い事があったら、当分は戻らないよ。どのみち、姉さんに会えないのなら居ても仕方がないし。姉さんに会えるのなら、直ぐにでも戻ってくるよ? っていうか、行かないよ?」
「だろうな」
カップの中で揺れている真っ黒い珈琲を覗き込みながら、トーマは溜息を吐く。
アイセルは、憐憫の眼差しを向けた。
トーマがアサギを“姉”と呼びだしたのは、何時の頃だったか。
マビルにはまだ見ぬ双子の姉が存在し、その少女が次期魔界の女王だとトーマに話した事が発端だった事は憶えている。まだ見ぬその少女を「自分の姉だ」と言い出した。
アイセルの憶測だが、トーマは正真正銘アサギの弟なのではないかと思っている。二人とも、未知の能力を秘めた人間である。トーマがこの魔界で産まれてきたことには意味がある、ただ、それが何を示すのかは解らない。
血の繋がりがないといえども、弟。心配なので本当は魔界に居て欲しい、というのがアイセルの本音だが、本人の意志を尊重し言えなかった。
幸い桁外れの魔力を秘めている為、人間界ならばそう簡単に他者から危害を加えられないだろう。存在が露見すると、魔界のほうが危うい。人間界を旅することはトーマにとって良い事なのだと、アイセルは言い聞かせていた。
「支度手伝ってよ、アイセル。薬草とか欲しいんだけど」
「え、もう行くのか? 暫く滞在すればいいのに」
「そうしたいけど……でも、行く。何か面白い事が起こる気がする。今行かないと、間に合わない」
凛とした声に、アイセルは小さく溜息を吐いて微笑んだ。
「俺より、トーマのほうがよっぽど予言家の跡取りとして相応しいな。魔力も高いし」
「嫌だよ、そんな窮屈な肩書き。丁重にお断り致します」
昔から、トーマの勘は鋭かった。そして、まだ幼い人間だというのに、マビルに習って魔法も使いこなせている。何から何まで、異質な存在だ。
言われた通り、アイセルはトーマの旅道具を確認する。薬草が極端に減っている、マントは埃まみれの上あちこちが破れており、みすぼらしい。そもそも、すえた臭いも漂っている。
「トーマ、たまには洗濯しろよ。これ、洗ってないだろ!」
「えー、めんどいもん」
苦り切った表情のアイセルは、改めてそのマントと向き合った。洗濯し、ほつれを直したとしても汚い。身嗜みを整えているアイセルにとって、このマントは汚物でしかない。潔く処分する事にした。
部屋の奥から自分のマントを取り出し、トーマに手渡す。丈がトーマには長いだろうが、成長の意も籠めた。
緋色のマントを見て、トーマの瞳が光り輝いた。
「ほら、これやるよ」
「わ、新しいマントだぁ! ありがとう。僕、身体を洗ってくるね」
言うなり、トーマは着ていた衣服を脱ぎ捨てた。床に脱ぎ散らかし、勢いよく去って行く。
厭そうにアイセルは服を摘み上げ、拾い上げた。マント同様、衣服の綻びも酷い。ブーツも穴が空いている、全て処分する事を決めた。
先に保存食に、水筒、薬草を袋に詰めたアイセルは、腕と首をまわす。自分が子供の頃着ていた衣服を探す作業に入らねばならない、保管してあるか記憶がない。ただ、背格好はマビルとほぼ同じだ、最悪、マビルの衣服を与えることにした。露出が高いものが多いが、中には男女兼用の衣服もあるだろう。
「拒否するかもしれないが、仕方がない」
マビルの室内から、寝巻にしていると思われるゆったりとした衣服を勝手に持ち出したアイセルは、大きく頷く。これならば、トーマが着ても問題はないだろう。
「わ、新しい服だ!」
「あのなぁ、トーマ。衣服について無頓着過ぎる。途中で買うんだぞ、金はあるだろ?」
タオルを巻きつけてやってきたトーマは、髪が濡れており艶めかしい。愛らしい顔立ちをしているので、こうして見ると少女の様だ。アイセルは、その婀娜っぽさに視線を逸らしてしまった。
気にせず、トーマは早速衣服を身に纏い、マントを羽織る。
「さてと」
魔族と人間の大きな違い、それは耳である。魔族の耳は、エルフの様に長い。トーマは深くマントのフードを被り、魔界では耳を見せないように行動している。
匂いに敏感な魔族が気づく場合も懸念し、魔界に生息している植物の種子を磨り潰し水で溶いたものを肌に塗った。薄らと、肌に青みがかる。これには独特の香りがあり、嗅覚を混乱させる作用もあった。
ここ、魔界に人間がいないわけではない。魔族の好みで連れて来られた人間もいるし、奴隷や玩具として拉致された者も僅かながらに存在する。人間だと露見しても不自然ではない、けれども、回避出来るならば避けたい。
最初は、アイセルが連れてきた事にして堂々と共に出歩くつもりだった。しかし、女好きで通っている為、少年を連れていては逆に怪しまられると判断した。
以前、魔界に居た人間の大量虐殺が行われた前例もある。
魔界から人間界へ出るならば、船が得策である。転送陣を使用してもよいが、行きは良くても帰りが怖い欠点がある。乗船し、魔族達と関わらなければやり過ごせる。
「薬草、入れてくれた? 魔界の薬草のほうが、質がいいんだよね」
「薬草学の本を入れておいた。人間界にだって、きっと高質なものがあるさ」
「ありがとう」
「これは、ミソハギ。止血のほかに消化不良にもきくから、変なものを喰ったときに使え」
「……僕、食通だから変なものは食べないよ」
「そう言うな。人間界に多いのはガマ、だったか。あれも止血になるから見つけたら刈り取っておくといい」
「はーい」
準備を終え、二人は再びテーブルを囲んだ。今度は魔界では御馴染みのチコリの珈琲を淹れる。人間界では滅多に飲まないので、これ自体が家庭の味だ。
トーマは穏やかな笑みを浮かべ、苦いそれを飲み干した。
今日はもう遅いので、いつでも掃除されている清潔な自室へ向かったトーマは、早々と眠りにつく。
直様眠りに入ったトーマの寝顔を、アイセルが愛おしく見つめていた。種族は違えど、家族だ。予言があってもなくても、愛し護るべき存在である。
翌朝のこと。
「じゃあ、元気でな。いつでも、戻って来い」
「うん、アイセルも元気で」
アイセルがくしゃくしゃとトーマの前髪をかき乱す、くすぐったそうに瞳を閉じて笑う。
しかし、トーマの視線は泳いだ。幾度も周囲を見渡すが、目当ての人影がなく、落胆する。マビルを探している、普段ならば見送りに来てくれるのだが。
口には出さず、傷心して俯いたトーマに、アイセルは声をかけることが出来なかった。背を叩いて励ます。
意を汲み取ったトーマがそっと手を差し出してきたので、何も言えない代わりに力強くその手を握り締めた。
握手を交わした瞬間、トーマの右手に違和感が走った。小さな電流が身体を駆け巡り、背筋を冷たい風が襲う。愕然として見上げれば、不思議そうに何時もどおり立っているアイセルがいるのだが、大きく固唾を飲む。
「アイセル……?」
「はは、どうした、そんな顔して。死人でも見たような」
涼しげな笑顔を浮かべているアイセルに、トーマは引き攣った笑みを向けることしか出来なかった。未だに震えている手に、爪を立てる。感傷的になっただけだと思い込み、気を取り直し腕を振って歩き出す。
「いって、きます」
「あぁ、いってらっしゃい」
森の道を歩きながら、後ろを幾度も振り返った。ついに見えなくなった大事な家を思い出し、感傷に浸るように立ち止まる。
何故か、もう戻れないような気がした。
そして、アイセルに二度と会えないような予感がした。
今、発たなくてもよいのではないかとも思えてきた。
トーマは困惑した。足が、動かなくなっていた。これが予兆なのだろうか、どうしても不安が残る。言い知れぬ黒い靄が圧し掛かってきた。
そこへ。
「いっておいで、トーマ」
何時の間にか、マビルが隣に来ていた。マビルは結界から出られないので、これ以上先には進む事が出来ない。ギリギリの場所で立ってくれている、横顔を見れば照れくさそうに頬を赤らめていた。
「来てくれたんだ、マビル」
「気が向いたから。暇だったし」
と、興味なさそうな返答をしたマビルだが、嬉しくてトーマは微笑したまま漏れそうになる声を必死で押し殺した。
違う、マビルは確実に見送りをする為に待っていてくれたのだ。言葉ではああ言っても、トーマにはマビルの心情が分かっている。
いい加減で面倒くさがり、破壊心と自尊心が強い凶暴なマビルだが、優しい面も持っている。寧ろ、強がって演技している様にもみえると、トーマは常々思っていた。
「……じゃあ」
「ん、いってらっしゃい」
「いってきます、マビル」
パン、と掌同士を叩けば小気味良い音が森中に広がった。
遠くから、何かが駆けて来る音が近寄ってくる。ここは、一日二本通る乗り合い馬車が通る道だ。引いているのは馬ではなく、魔物。馬車ではなく、正式には魔物車。
やってきた本日の荷台を引く魔物は、これは豪快な魔物だった。サテュロス。ヤギの下半身に人間の上半身、顔もヤギ、な悪魔のような風貌である。
「……うーん」
流石にトーマも面食らった、こんな馬車……もとい、サテュロス車に乗り込むのは初めてだ。気付けばマビルの姿は最早ない、気配を察知し森の奥へと消えたのだろう。
「乗るかい?」
気の良さそうな運転手は活気のある声で、突っ立っているトーマに話しかけた。
「港まで」
「あいよ。乗りな、坊ちゃん」
微笑し頭を下げて乗り込んだトーマに、運転手は魅入っていた。
その妙な視線に、トーマが眉を寄せる。
不穏な気配を察し、頭を掻きながら男はトーマに何かを投げた。
「やるよ、さっき運賃と一緒に客から貰った青リンゴだ。坊ちゃん、あんた今度来たアサギ……だったかな、その人に似てるわ。知ってるか?」
「アサギ……会った事があるんですか?」
「お、坊ちゃんも知ってるかね? まぁ、ハイ様のお相手ともなれば確実に広まるよなっ。この間の魔族会議で拝見したよ、いやぁ、別嬪さんだったなぁ」
「そうですか、ありがとうございます。僕は、御姿は存じません。名前だけ、噂で聞きました」
丁寧にそう答えると、はにかんで微笑む。
……似てるんだ、やっぱり。だよね、当然。
おそらく、自分の本当の姉であるアサギは、今この魔界イヴァンにいる。トーマは顔を荷台から覗かせ、巨大で圧倒的な城を仰ぎ見た。
「あそこに……いるんだね、姉さん」
マビルも、家族だ。だが、血のつながった姉はアサギだと、確信している。
……必ず、必ず会いに行きます。ずっと、ずっと先でも必ず。貴女が僕を、呼んでくれたのなら。僕は貴女のお傍で力になる為、旅をしよう。足手まといにならないように、世界で一番の魔法使いになってみせるよ。
トーマは、何処となく懐かしい香りのする衣服に包まれながら、港へ到着するまでの間仮眠をとった。船に乗れば、新しい土地で新たな出逢いが待っている。
けれども、どうしても胸にしこりが残っていた。
アイセルの背後に黒がかっていた靄、あれは何を意味するのだろう。背筋には、寒気が走るほどの残忍で残酷な何かが潜んでいる様に思えた。
「嫌な予感がするけど、大丈夫だよね。アイセルだもんね。姉さんも魔界にいるんだし、大丈夫」
言い聞かせる。
言い聞かせるが、トーマの予感は、的中だ。そうとも、外れるわけがない。何しろ、アサギの弟なのだから。