失意の魔王
文字数 4,940文字
アレクは眠ることが出来ず、夜風にあたりながら、吐き気すら覚える胸騒ぎに身体を震わせた。身を案じたスリザとアイセルが警護しつつ、気休めにでもなればと薬湯を運んでくれた。有り難く受け取り、啜る。幾分か心を落ち着かせると、もしトビィの都合が合えば今話がしたいと思った。
どのみち、眠れそうにない。
早急にアイセルがトビィを呼びに行くと、最初はアサギの傍を離れる事を渋った。しかし、傍らで眠っていたアサギを断腸の思いでハイとリュウに任せ、アレクの申し出を受けた。一体何があったのか、早く知りたかったことが、背を押したのだろう。
「すまない、このような夜分に」
「明るい話題でもないだろ? 丁度よいさ」
神妙な顔つきでそう告げたトビィに、アレクは緩慢な動作で頷く。呼ばれたサイゴンとホーチミンが揃うと、全ての話を包み隠さずトビィに話した。
アサギが、次期魔王候補かもしれないこと。
トビィを育てた美しき魔族マドリードは、勇者を捜す為人間界に出向いており、快く思わない魔族と刺し違えたこと。
「私の願いは、惑星クレオの平穏。人間も魔族もエルフも、種族が違えどいがみ合うことなく、愛をもって生活出来るように強く望む」
快活な言い方で告げたアレクは、「勇者であるアサギが次期魔王となれば、人間側との橋渡しをしてくれるのではないかと思っている」と続ける。
真顔で聞いていたトビィは、閉口したアレクを見て軽く溜息を吐いた。それから肩を竦め、迷惑そうにサイゴンを見つめる。
「知らない間に、随分と複雑なことになったもんだ。オレはただ、アサギといたいだけなんだが」
苦笑したサイゴンは「だろうな」と宥める様に告げた。
「アレク様に賛同する魔族は多い。しかし、そう思わない輩がいることも確か。先日、人間の女が城に紛れ込んだ。狙いは恐らくアサギ様。俺達も目を光らせているが、トビィも注意してくれ」
「平穏をもたらすであろうアサギが、目障りだということは分かる。……となると、そんな物騒な場所に長居させたくないのがオレの本音だが?」
「そう言うと思っていたが、堪えてくれ。アサギ様は魔界、いや、世界にとって必要な御方なのだ、きっと。暫くは魔界にいて欲しい」
「アサギは、オレだけのアサギでいればいい。……だが、何処に居ようとオレがアサギを護ることは必然。とりあえず様子見で滞在してやる。いざとなったら、魔界を発つけどな」
仏頂面だが一応了承したトビィを心強く眩しそうに見つめたアレクは、そっと手を伸ばす。
怪訝な顔をしながらも、トビィは握手に応えた。
「ありがとう、トビィ。君が駆け付けてくれて、本当に嬉しいよ」
それでも心は晴れず、杞憂だと言い聞かせるアレクは窓から外を見つめる。不気味に輝く大きな赤みを帯びた月が瞳に入り、言葉を失った。
「妙な月だな、気味が悪い」
気付いたトビィがそう吐き捨てる。
不安げにホーチミンが身体を震わせれば、サイゴンが肩を抱いた。
唇を噛締めたスリザを、アイセルが抱き締める。
魔界から見えるその大きな月を、現魔王とその臣下達は息を凝らして見つめた。
ドクン、と胸が跳ね上がる。
「ッ、は、ぁぁぁっ!?」
「アサギ!?」
その頃、アサギが悲鳴を上げて仰け反ったので、ハイとリュウが慌てて駆け寄った。二人共、アレク達と同じ様に月を見ていた。寝台からでも見える月は、鈍い光で部屋を照らしている。
悲鳴を上げたアサギを揺さ振るハイとリュウは、互いに顔を見合わせた。
「どうしたアサギ、しっかりしろ!」
二人の前で、アサギが身悶え暴れている。その苦悶の表情から、深刻な事態だと分かる。
一体、何が起こったのか。先程までは、安らかに眠っていた。
のた打ち回るアサギを半泣きで抱きしめるハイに、流石にリュウも焦る。平素の様に、茶化せる状況ではない。窓から顔を出し叫ぶと、応えたのはエレンだった。アレク達を呼びに行くように指示し、直様顔を引っ込め効果があるか分からぬ回復魔法を唱える。それしか、出来なかった。
全身全霊をあげてやって来たエレンに、アレク達は騒然としたが、トビィが真っ先に部屋を飛び出した。
遅れてアレク達が駆けつけると、トビィがハイを跳ね除けアサギを抱き締めている。痙攣を起こしていたように見えたが、今はその慣れた腕の中で力なく呼吸をしていた。
やがて寝息を立て始めたアサギに皆は安堵し、その場に座り込む。
「何があった!」
激昂するトビィだが、ハイもリュウも顔を見合わせ表情を曇らせる。包み隠さず説明をするが、原因は不明。
「新手の呪術かしら……、あの人間の女がまた何か?」
怒りに震える声でホーチミンが舌打ちし呟くと、アレクも微かに同意する。背筋を、奇妙な汗が伝っていく。不安に押し潰されそうになりながら、嘲笑しているような月を一瞥した。
全てを照らす太陽は、まだ姿を見せない。
月は、ぼんやりと青白くおぼろげにそこにいる。
「……すまない、席を外す。アサギを頼む」
「アレク様、どちらへ!? 御供致します」
「いや、ロシファを迎えに行くだけだ、すぐに戻る」
早口で捲し立てると、アレクは止めるスリザの手を振り払って大股で部屋を去った。不安が拭えないまま気が狂いそうな時間を待つことは、辛い。準備は終わっていないだろうが、手伝いつつ待てばよい。共にいれば、安心だ。
辿り着いた静寂の小島は、動物の鳴き声すらなく。不気味な生暖かい風が、身体に纏わりつく。アレクは早足になり、ロシファの名を幾度も呟きながら小屋を目指した。これは、異常だ。違う島に来てしまったのではないかと、勘ぐるほどに。神聖な島とは思えぬ陰鬱な空気に、血液が凍る。
草を踏む音が妙に大きく聴こえる、息が荒くなる。
「ロシファ!」
勢いよく扉を開くと、ほとんど溶けている蝋燭が寂しそうに揺れている。
「何処だ、ロシファ!」
名を呼ぶが、返事がない。
焦燥感に駆られたアレクは、小屋を飛び出し島中を走り回った。夜更けに何処へ行ったというのか、動物達とて寝静まっているだろう、挨拶まわりには早過ぎる。
だが、その動物にすら会わない。
唖然として立ち止まると、胃から込み上げた吐き気に耐えられず、地面を汚した。
動物達の死骸が、点々と路に転がっていた。首を切られている鹿の親子、内臓を引きずり出されている兎の家族、眼球がない梟、四肢が切断された栗鼠、翼を切り落とされた水鳥達。夥しい血液が地面に染みている、狂気の光景にアレクは眩暈を起こしながら懸命にロシファの名を呼ぶ。
風がない、木々が鳴かない。心なしか、豊かなはずの緑の葉が散っている気がする。
「そなたは……!?」
不気味な月を背にして、顔中に動物達の血痕をつけた男が一人立っていた。
崖に立っていた金髪の男は、アレクを見て下卑た笑いを繰り返す。血に塗れた腕を月に伸ばし、愉快そうに血走った瞳で高らかに笑った。
一瞬誰だか解らなかったが、アレクはすぐに気づいた。ハイの傍らに居た、悪魔。何故その男がこの場にいるかよりも、大事なことがある。
ロシファがいない。
アレクの髪が、ゆらりと宙に舞う。地面から湧き出る熱風が、その身体を押し上げる。
「ロシファは何処だ」
笑い転げている悪魔テンザはそれには答えず、軽く跳躍するとアレク目掛けて俊敏に飛び掛かった。長い爪先を煌かせ、大きく開いた口から火炎の息を吐く。
「ロシファは何処だと訊いているっ!」
普段の様子からは予想がつかない咆哮に、テンザも一瞬躊躇した。ひ弱な優男かと思っていたが、目の前から掻き消えたアレクは次の瞬間後ろから蹴りをかましてきた。不様に倒れこむと、首に冷たいものが宛がわれた。それが剣だと気づくのに、そう時間はかからない。けれども、嗤う、嗤い続ける。
「何故答えぬっ」
嗤い転げているテンザに舌打ちすると、アレクはロシファの名を呼びながら周囲を駆けずり回った。不意に動物よりも大きな何かを地面に見つけ、顔面蒼白で駆け寄る。
「なんということだ!」
ロシファの乳母が、倒れていた。
頭を割られ、脳みそを食われたのか。瞳と鼻から血を流し、切り開かれた腹からは内臓が引きずり出されている。手首、足首は切断され、首にも切り口がある。辛うじて繋がっているが、おぞましい状態だ。周囲には部位が散らばっており、皮膚が剥がされていたり、齧った形跡がある。
「き、奇行に走ったか、テンザ!」
振り返ったアレクの目の前に、テンザが奇声を発し飛びかかってきた。血走った瞳はもはや正気ではない。食い散らかしていた為か、開いた口から血生臭さが漂った。身を護る為、容赦なく額に剣を突き刺す。
突き刺した瞬間に、アレクは後悔した。正気に戻さねば、ロシファの居場所を問い出せない。
避けることなく突っ込んできた為、剣は深く突き刺さった。骨に達した剣が、一気に砕く。眼球が飛び出してもなお、狂気の笑みを浮かべ痙攣しているテンザから一気に剣を引き抜く。地面に崩れ落ちたその首を掴み、揺さ振った。
「ロシファは! ロシファは何処へ行った! 何が目的だ!」
返答しないテンザは、こと切れただろう。
しかし妙な胸騒ぎが止まらず、アレクは剣を構えると数歩後ずさる。背筋が凍る、心臓が爆発しそうだった。
時の魔王は、怯えていた。
崖の上に、何か気配を感じ振り返れば。
「ロシファ!」
月に浮かぶ、美しい黒髪の女が高笑いしていた。大事そうにロシファを抱えて、アレクを優越の笑みで見下ろしている。
あれがアイセルが目撃したスリザを奇襲した人間の女であると直様理解したアレクは、吼えながら女目掛けて浮遊するが、身体が一向に進まない。
エーアとの距離が縮まらない。
焦燥感に駆られて脚を見れば、何かが絡み付いていた。驚愕の瞳で見下ろした先には、テンザの身体がある。朽ちたその身体から、糸を引くヘドロ色した気味の悪い触手が数本、湧いていた。意志があるのかないのか、それはうねうねと動きながら、アレクの脚に絡みついている。
凄まじい怖気に、アレクは剣を振り下ろす。けれども、柔軟性があるのか触手は剣を押し返してきた。
「な、なんだこれはっ」
テンザの身体が小刻みに震え、腹がゆっくりと蠢き大きな口がぱっくりと開く。その腹の口からこの触手はさらに這い出してきた。
アレクは火炎の魔法を詠唱し、腹の口に叩き込む。ついで雷を呼び寄せ、落とした。焦げれば鼻がもげそうな臭いが充満し、目が霞む。
「ふむ、足止めにはなったわね。有難う、愛しいテンザ様。血を与えた甲斐があったというもの」
凄惨な光景をものともせず、緩やかにエーアは微笑んだ。ミラボーの従順な手先は、満足してそう呟くと、腕の中にいるロシファの頬を舐める。
頬には、切り口。切り口から滲んだ血痕が、エーアの身体に入り込んだ。
恍惚の笑みで身体を震わせたエーアは、ロシファの名を呼ぶアレクに容赦なく杖を向ける。
大きく風が舞う中で派手に笑うエーアの姿を、泣き叫びながらアレクは睨んだ。自分目掛けて放たれた最高位の風の魔法を、必死に避ける。
島の木々が荒れ狂い、薙ぎ倒され、動物達の亡骸が宙に舞う。
「ロシファ、ロシファー!」
魔王アレクの絶叫は、無残な島に響き渡った。
そこは、死の島。
瞳の輝きを失ったアレクは帰省本能が働いたのか、どうにか魔界に戻ってきた。悲壮感溢れる顏、そして汚れた衣服。
一目見るなり駆け寄ってきたスリザに抱き留められ、張り詰めていた緊張の糸が解けた。足元から崩れ落ち、辛うじて一言。
「ロシファが、誘拐された」
呟いて意識を失った後、全員の顔が一気に蒼白になる。
「なん、だって? まさか」
ハイが唖然と呟くが、アレクが冗談を言うはずがない。これは、真実。
トビィに抱き締められながら、震えるアサギはうわ言の様に繰り返す。
「ごめんなさい、助けられなくてごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、どうしよう」
トビィはそんなアサギをただ、抱きしめていた。その瞳に、鋭利な光が宿る。
この日、魔界が揺れた。
凄愴な魔王アレクは、うわ言で恋人の名を繰り返したまま、目を醒まさない。