鏡の中のユキ
文字数 6,147文字
小学生ならば安く観ることが出来るので、涼しい映画館は一際混んでいる。目当ての席は埋まっていたが、どうにか見やすい位置は確保出来た。
四人はジュースと、定番のポップコーンを購入した。
ケンイチはユキのジュースを持ち運ぶが、ミノルは照れ臭いので、そんなことをしなかった。
別にアサギは気にしていないが、自分の彼氏のほうがランクが上だと、ユキはほくそ笑む。
そんな素振りを見せず席に着き、ジュースを飲みながら他愛のない会話をする。やがて館内が暗くなり、スクリーンに映像が映し出された。
感動ものと評判の、アニメ映画を鑑賞する。
約二時間、暗がりで手を繋ぎたいユキと、真剣に観入っていてそれどころではないケンイチ。
アサギとミノルは食い入るように観ていたので、手を繋ぐなど思いもしなかった。
映画館の醍醐味と言えば、手を繋いで観る事だと思い込んでいたユキは、心底がっかりした。映画を観る気持ちが、半減した。そもそもユキは、隣りで上映されている人気美形俳優ばかりを集めた恋愛コメディが観たかった。しかし、それではケンイチとミノルが来ないかもしれないので、断腸の思いでこちらにした。
これなら、アサギと二人でイケメン映画を観たほうが愉しかったのかもしれないと項垂れる。
「よかったね! 凄く感動したっ」
「アサギ、泣いてたね」
ハンカチで涙を拭きながら、ゴミ箱に空になったポップコーンの入れ物を捨てるアサギに、ケンイチがやんわりと話し掛けた。
実はミノルも微妙に涙を浮かべていたのだが、必死に堪え二人の後ろに続く。
「ふ、ふん。思ったより、よかった」
「あそこで主人公が飛んだのが、かっこよかったなぁ」
少し遅いが昼食をとるため、館内にあるファーストフードを食べに行く。和気藹々と会話をしている三人を他所に、ユキは一人浮かない顔だった。上の空で映画を観ていた為、三人の会話に若干ついていけないのもあるのだが、鳥肌が立った腕を恨めしく見つめる。
アサギの言葉を、今頃思い出した。
『おはよう、ユキ。服ね、昨日までは赤のチェックのワンピースにしていたのだけど、さっき変えてみたんだ。寒そうで』
寒そうで。
この言葉の意味を、理解していなかった。天気予報は晴れだと言っていた、夏だから寒くなるわけがないと思い込んでいた。しかし、エアコンの効き過ぎた映画館は予期せぬ寒さだった。アサギは今日行く場所を考え、服を決めたらしい。
ユキは映画に集中したかったが、途中から急激に下がった気温に凍えていた。せめて手を繋いでもらえたら、と恨めしく思った。そうしたら少しは暖かかっただろうし、余裕が持てる。もしくは、ケンイチが膝掛を借りて来てくれたらと。
……彼氏なら、彼女の異変に気付いて欲しいな。気配りって言葉があるよね。
呪わしい気持ちで、ケンイチを見やった。控え目に様子を窺うが、溜息しか出てこない。恋人を放置して、アサギとミノルと三人で楽しんでいる。もう、輪の中に入ることが出来ない。
チリリ、と胸が痛む。朝は、あんなに愉快だったのに。憎しみに火がついて、燃え広がるばかり。
「アサギちゃんが、違う服を着ていればよかったのに」
無意識の内に、そう呟いた。
そうしたら、一緒に「映画館寒かったねー」なんて会話が出来ただろうに。腕を擦りながら、忌々しそうにユキは三人を睨む。すると、振り返ったアサギがこちらへやって来た。
「ユキ、大丈夫? 寒かったよね、あったかいの食べようか」
「うん、寒かった。映画館って冷えすぎだよね」
睨んでいたことに気づかれたのかと一瞬狼狽えたが、違った。引き攣った笑みを浮かべ、差し出してくれたアサギの手を握る。
立ち止まってこちらを見ているケンイチとミノルへ近づきながら、ユキは落胆した。彼氏がそこにいるのに、何故親友と手を繋いでいるのか。心の中が、ぐちゃぐちゃになる。
ケンイチは、何も悪くない。まだ小学生だ、気がまわらなくて当然だろう。誰しもがスマートに恋人をエスコート出来るのであれば、破局の数は著しく減るだろう。それは、ユキとて承知していた。映画デートなど、四人とも初体験。失敗は当然のことであり、思い通りに行かない事のほうが多いに決まっている。
恋人とはいえ、結局は赤の他人。
ユキは慣れたアサギの手を握り返し、その暖かさに安堵した。
けれども。
「何食う? 女子って普段何食べてんの? 俺、ラーメン食べたい」
ぇ? と怪訝に低い声を出したユキの隣で、アサギが嬉しそうに笑う。
「私もラーメンが食べたいな」
「そっか、寒かったもんな映画館。アサギ、大丈夫か?」
「うん、私は平気だよ。膝掛代わりにストール持ってきたから。でも、温かいもので落ち着きたいな。ラーメン好きだし」
「へぇ、意外……じゃラーメンな」
幾つもの大型爆弾が投下され、ユキは唖然とした。
ガサツなミノルが、アサギを気遣った。
アサギがちゃっかり冷房対策として、膝掛を持参していた。
こんな時こそテンションが上がる可愛いものが食べたいのに、よりにもよってラーメン。
『寒かったもんな、大丈夫か』
望んだ言葉が、目の前で告げられた。告げられた相手は自分ではなく、アサギ。気を利かせることなど出来ないと見下していたミノルが、恋人を気遣った。
目の前で繰り広げられる会話に、腸が煮え繰り返る。大きく瞳を開いたユキは、そっと握られていた手を離す。不思議そうに自分を見たアサギに、引き攣った笑みを浮かべた。
……どうして、私だけっ!
ユキは自分だけが場違いで、空回りしているように思えた。しかも、デートでラーメンなど有り得ない。確かに身体は温まるし、値段も安くて妥当だろう。だが、ティーン向けの雑誌に『デートでラーメンはNG★ 音を立てて食べるのははしたないし、長い髪がスープに入ったら大変! ゴムで縛るといかにもガッツリ食べます女子に見えて、彼氏は幻滅だヨ』と記載があったのだ。
大きなお世話である。
けれども、雑誌の内容全てを信じ込み愛読しているユキにはそれが全て。フードコート内にはラーメン屋も、うどん屋も、クレープ屋も、ハンバーガー屋もある。しかし、三人がラーメンを買いに並んだのに自分だけクレープにすることが出来なかった。不本意だが、食べるしかない。
三人は、余程腹が減っていたのだろう。美味しそうにラーメンを啜りながら、映画の内容で盛り上がっている。それを冷めた瞳で一瞥し、ユキは重苦しい溜息を吐いた。自分で計画した、自分の為のデートだったのに、よもやここまでつまらないものになるとは思いもしなかった。失敗した、しょっぱいだけの美味しくないラーメンが憂鬱な気分に拍車をかける。スープに浮かぶ油を見つめ、情けなくて唇を噛み締めた。
ケンイチが、少し嫌いになった。思ったより子供っぽかった、と。ユキが観てきた漫画のヒーローは、女の子を大切にして、姫扱いしてくれた。それが普通だと思っていた、恋人なのだから。男は、女を護るものだと。
反して、ミノルを少し見直した。だが、何もここでアサギの彼氏ぶりを発揮しなくてもと、疎ましさを感じた。
アサギが、昨日よりも嫌いになった。常に、すぐに溶け込んでしまう。今も、ケンイチと愉しそうに会話している。
……それは私の彼氏なの、話さないで。
遠慮しない、図々しくも愚鈍な親友。いや、狡猾な女。ユキは一本ずつ麺を啜っていたが、飽きてしまったので残した。けれども、会話はまだ続いている。退屈過ぎて、早く帰りたかった。
ユキは、四人でいるから愉しいのだと思っている三人の気持ちになど気づけなかった。独りよがりの癇癪持ちは、自分だというのに。
ケンイチは、純粋に嬉しかった。大人しいユキが映画に誘うのは勇気が必要だったろう、恥ずかしがり屋だから親友であるアサギを呼んだことも、可愛くて好きだと思っていた。何より二人きりだと緊張してしまうが、今はミノルもいるので普通にはしゃぐことが出来て気も楽だ。彼女のことが、一段と好きになった。
ミノルはただ、照れていた。自分では誘えないので、共にいられる機会を作ってくれたユキに感謝した。映画を観ながら泣くアサギがとても可愛らしかったし、彼氏という立場で隣に座れたことも歯痒いくらいに嬉しかった。
アサギはただ、幸せだった。大好きな親友と、好きな人と共に居られたのだから。
ユキに感謝しながら、三人はラーメンを綺麗に完食した。
キィィィ、カトン……。
賑わうフードコートに、奇怪な音が響く。テーブルに爪を立て、ユキは唇を噛み締めたまま陰鬱な瞳で三人を見つめていた。
……みんな、嫌いよ。私を、無視する。
憎しみが頭に沸き返る。
『今日はとても楽しかったね! 誘ってくれてありがとう』
アサギが別れ際に告げた言葉にゆっくりと微笑んだユキだったが、手を振って背を向けるとすぐにギリリと唇を噛み締めた。ケンイチと二人で出かけていたら、こんな思いをしなくて済んだだろうにと自嘲気味に嗤う。顔が引き攣る、全てが裏目に出てしまったと後悔した。
眩しいアサギは、何処へ行っても人目を惹く。今日だけで何人の男がアサギに見惚れていただろうか、何人の女が嫉妬の混じった溜息を吐いただろうか。
それを、漠然と見ていた。
彼氏が劣っていたとしても、アサギ自身はそのまま普段通り際立っていた。類稀なる美貌を持つ、可愛い女の子は自分の親友。駆け足で帰宅すると、自室のドアを勢いよく閉めて頭を掻き毟りながら蹲る。優越感に浸れなかった、何処で狂った、何がいけない、と悲鳴に近い声を発した。
数分してようやく落ち着いたので、長い髪をかき上げながら近くにあった鏡を見つめる。
その中には、疲れきった顔が映っていた。鏡が熱で歪んだのではないか、と思い込みたくなるくらいに、酷い顔をしていた。これでも自他共に認める美少女の筈だが、妙に冴えない顔色はまるで陰険な魔女。クマも濃くなっている、寒さで血行が悪くなったのが原因か。
朝の自分は、何処へいった。
「アサギちゃんが悪いのっ! どうして毎回毎回あんななのっ! 私を気遣ってくれてもいいでしょう!? 親友なのだからっ」
鏡に爪を立てる。キキィ、と耳を劈き、背筋を虫が這うような嫌な音がした。
鏡に映る自分が、一瞬揺れて微笑んだ気がした。
「私だって、私だって、私だってもっともっともっともっと見て欲しいのに! 全部アサギちゃんが持っていっちゃう! なんなのよっ、最悪っ! この私が、親友のフリをしてやっているのにっ! 施しを当然だと思ってるっ!」
鼻息荒く、狂気じみた歪んだ顔で奇声を発した。
『あの子は、親友だと思っていないよ。私の事を見下して、嗤ってるんだよ。ねぇ、もう無視しちゃおうよ、関わらないほうがいいよ、損するだけだよ。親友の振りしているだけにしようよ、何があっても助けちゃ駄目。優しいユキ、可愛いユキ、優しい私は苦しむアサギを助けたいと願うけど、それは駄目。調子に乗るから、絶対に駄目。……駄目だよ、私』
鏡の中の自分が、あざとく微笑んでそう囁いた。
大きく喉を鳴らし、愛らしく微笑んでいる鏡の中の時分を見つめる。幻覚でも幻聴でもなく、これが本心だと素直に認めた。
鏡の自分は今朝のように軽やかに回転すると、ユキの耳元に唇をあてた。そうして、愉快そうにクスクスと笑いながら囁く。
『私は、私が大事』
ユキは虚ろな瞳で静かに頷くと、口元に笑みを浮かべる。鏡の中のユキも嗤い、二人の狂喜の声が部屋中に響き渡った。
「うん、私は私が一番可愛くて、大事」
『そうだよ、私。絶対にあの子を助けないで、手を差し伸べてきてもその手を取らないで』
「取るわけないよ、私。だって私、あの子から何も貰っていないもの、あげるだけだもの。そんなの、おかしいよね。親友って対等な立場だよね」
『そうだよ、私。賢い私、良い子の私、あの子なんてもう知らない。それで良いよ』
「うん、そうする」
二人の会話が始まる。ユキは鏡にぴったりと顔を寄せると、うっとりと微笑んだ。鏡に映る自分は、自分にはない魅力を持っている気がしてとても綺麗だった。それは、普段の自分よりも勝気な表情と仕草のせいだと悟る。
『大丈夫、私は可愛い。アサギの影に隠れてなくて大丈夫、もっと自信を持って前に出て。光を浴びよう! 足りないのは自分を愛し、尊敬することだよ』
「そうだよね、そうだよね、そうだよねぇっ!」
カーテンを閉め忘れていた部屋の窓から、月の光が差し込む。空には曇が浮かんでおらず、満月に近い月がユキを照らす。
月の周囲には、肉眼では見えない遠くて小さな宇宙の光が無数に存在し、ゆらぁりゆらりと、光を放つ。
『思い出して、忘れないで。屈辱を晴らす時が来たの』
「うん、解ってる。もう、失敗しない、負けない、私は勝つから!」
『うん、頑張ろうね』
一階で、母親が「夕飯よ」と声をかけていた。だが気付くことなく、ユキは鏡の中の自分と対話し続けた。本音を吐露し合った、蟠りなく素直な気持ちで、心から分かり合えている親友の様に。
部屋に、風が舞う。
壁に貼り付けてあったアサギとユキの映る写真が、ひらりと宙に舞った。写真の二人は身体を寄せ合い、笑顔で手を繋いでいる。
勉強机の片隅に置いてある硝子細工のペンギンは、アサギから土産で貰った物。
机の引き出しを開けば、アサギと交換日記をしている黄色いノートが顔を出す。出遭った四年生の頃から書き綴っており、六冊目だ。
お揃いの筆記用具、色違いのシュシュ、出かける度に二人で何かしら購入してきた。
「私、嫌いだったのずっと」
ユキは奇怪な笑い声を止めると、急に冷めた口調になり真顔で呟く。
……ずっと、嫌いだった。
――うん、嫌いだったね。ずっと、昔から。
風が窓を叩くので、アサギは勉強机から離れると不思議そうに窓を開いた。ふぅわりと風が入ってきて、頬を撫でる。
「……なんだろ?」
小首を傾げて、夜空を見上げる。星が瞬く、月光が降り注ぐ。優しい光に瞳を閉じたアサギは、口元に笑みを浮かべると呟いた。
「今日もとても楽しかったです、一日ありがとうございました。ミノルと一緒に映画に行きました、大親友のユキが気を利かせてくれたからです、とても優しくて素敵な子に出会えてよかったです。また、この四人で一緒に出かけられたらいいな」
呟いたアサギは頬を朱に染め嬉しそうに微笑むと、机の上に飾ってあるユキとの写真を見つめる。自慢の親友とは、大人になっても一緒にいるのだと信じている。
アサギは今、日記を書いていた。思い立った時に書いているもので、一行の時もあれば三ページ使用する時もある。毎日綴っているわけではない、本当に“心の声”を綴るだけのもの。
『今日はとても楽しかった! たくさん楽しいことがあったけど、一言で表すとユキに大感謝! の日でした。ミノルはラーメンが大好きだっていうのも、分かったよ』
※イラストは、甘抹らあ様から頂いたユキです(*´▽`*)
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