四百十三話 美代の場合
文字数 2,284文字
都が倉橋美月に負けた。ジャスミンも殺され、館も山も燃やされた。都はたった一人を救うために全ての力と声を失った。たった一人救われたのは、俺だ。
「おはよう、都」
都が手話で『おはよう』と答える。
「食事を運ばせるよ」
俺は一度やったことをもう一度やるだけだ。秘書、副社長として長く働いていたし、都が不在時には社長の地位にも就いていたのだから、どうということはない。そう自分に言い聞かせている。海の近くに小さな館を建て、メイドを雇い、そこで都と暮らす。
都には特別なまやかしをかけた。
淳蔵と、直治と、千代と、桜子のことを、そしてジャスミンのことを、忘れさせた。都は産まれた時からこの海辺の館で暮らしていて、婚約者の俺と共に育って、結婚して、このままここで死んでいく。
残酷なまやかし。
見た目は美しいまま、中身はゆっくりと老いていく。老衰で死ぬのだ、都は。それがいつかはわからない。ただ、俺達に別れは必ずやってくる。なにも知らない少女のまま、なにもわからない少女のままで、都は俺の手から零れ落ちていくのだ。
でもね、都。
それは都が俺だけのものになるってことでもあるんだよ。
俺の記憶の中にしか都は存在しないのだから。
「都」
都が首を傾げる。
「週末はデートしようか。どこに行きたい?」
都はにっこりと笑ってテレビを指差す。薔薇園の特集がやっている。
「いいね。行こうか」
都が手と唇を動かす。
『ありがとう』
殆どの記憶を失っても、都は都のままだ。
薔薇なんかよりもずっと綺麗なまま。
週末は約束通り、薔薇園に出掛けた。
「都、カフェがあるよ。入ろうか」
都が頷く。パンケーキとポテトを頼んでシェアした。甘いとしょっぱいの組み合わせで無限に食べられると喜んでいる。追加で薔薇のフレーバーのソフトクリームも頼んだ。沢山歩いてお腹いっぱい食べて眠くなったのか、帰りの車中で都はうとうとしている。ラジオから流れてくるスローテンポの曲を子守歌に、都は眠ってしまった。
『家畜に名前がないように、貴方の名前を忘れてしまうの。思い出して泣いてしまうよりも、貴方自体を消してしまうの』
背筋を氷が滑ったような感覚がした。
「・・・都、家に着いたよ。起きて」
ぱちぱちと瞬く都が可愛くてキスをしたくなる。部屋に戻って暫くしても眠気が取れないので遅い昼寝をすることにしたようだ。
「・・・俺も少し寝ようかな」
睡眠が必要ない身体をしているとはいえ、眠りに落ちる前のまどろみの気持ち良さはできれば毎日味わいたいものだ。久しぶりにベッドに横になり、目を閉じる。眠りはすぐにやってきた。
『ハロー、鼠君』
「・・・やあ、クリエイターさん」
茶を基調とした部屋に溢れているのはアンティーク調のラジオと時計。ラジオが吐き出す音声は混ざり合って雑音となり、時計の針は自分勝手に時刻を刻んでいる。
『機嫌が悪いねえ』
「俺、人一倍美醜には厳しいんだよね。あんたの顔のせいじゃない?」
『ハハッ! まあ、いいや。どうして彼女にまやかしをかけたんだい? 二人で永遠に生きる方法もあっただろうにさ』
「教えないよ」
『ふうむ・・・。私が倉橋美月の所在を知っていると言ったら、どうする?』
「俺は復讐なんてしない」
『なんだあ、つまらない』
「帰りなよ」
『もう少しだけ話さないかい?』
「はあ・・・。いいよ」
『随分と悲しい夢を見ているんだね』
「・・・夢? この現実が?」
『そうだよ』
「ハハッ、夢だったらどれだけいいか・・・」
『もし本当に夢だったら、君が過ごしてきた何年もの時間は全て無駄だったということだよ? 今日までの努力が無駄になってもいいのかい? 無駄にしてでも山奥の館に帰りたい?』
「帰りたいね。兄弟と、二人のメイドと、ムカつく馬鹿犬と、誰よりも強くて優しい都が居たあの世界に・・・」
『私が君にそういうまやかしをかけてあげることもできるよ?』
「結構。余計なお世話だ」
『あはははは! 君達は実に面白い。いや、面白かったと言うべきかな?』
「お前は一体何者で、なにが目的で俺達に接触したんだ?」
『地獄にも刑務所があるのを知ってるかい?』
「知らない」
『実はつい最近、そこから出てきたんだよ。いやー、参った参った。楽しいことが好きな私にとってあの場所は実につまらなかった! もう二度と入りたくないから大人しくしていようと思う程にはね! それでさあ? 出てきたら天国で噂の、』
なんと言ったのか、聞き取れなかった。
『・・・が、人間の少女に惚れ込んで堕とされたっていうじゃないか! 一癖二癖どころか癖しかないあの男が気に入った少女がどんなものかと見に来てみたら、なんと子持ちだ! しかも三人も! しかも全員血の繋がらない男の子ときた! おまけに『闇の女王』と呼ばれるに相応しい程、強く美しく成長していて驚いたよ! まあ、彼女は私のタイプではないけれどね。あははっ! 蜂君みたいにちょっとツンとした女の子が好きなんだよ私は。追われるよりも追いかけたいタイプなのでね!』
「地獄まで追いかけて行ったら?」
『ハハハハハッ! わかっているくせに! 死後の世界なんてものはない。人間が考える天国と地獄の概念も大きく間違っている。地獄に行ったって蜂君には会えないさ。この宇宙のどこにも、ね。さてさて、楽しいお喋りだったよ。悲しい夢から目が覚めればいいね。おやすみ、鼠君』
そこで目が覚めた。
「ッチ、なあにが『おやすみ』だ。起きてんじゃねえかよ」
一時間も眠れていない。上体を起こすとぽろぽろと涙が零れた。誰に対して泣いているのだろう。なにに対して泣いているのだろう。
「・・・好きだよ、都」
蹲り、声を殺して、泣いた。
「おはよう、都」
都が手話で『おはよう』と答える。
「食事を運ばせるよ」
俺は一度やったことをもう一度やるだけだ。秘書、副社長として長く働いていたし、都が不在時には社長の地位にも就いていたのだから、どうということはない。そう自分に言い聞かせている。海の近くに小さな館を建て、メイドを雇い、そこで都と暮らす。
都には特別なまやかしをかけた。
淳蔵と、直治と、千代と、桜子のことを、そしてジャスミンのことを、忘れさせた。都は産まれた時からこの海辺の館で暮らしていて、婚約者の俺と共に育って、結婚して、このままここで死んでいく。
残酷なまやかし。
見た目は美しいまま、中身はゆっくりと老いていく。老衰で死ぬのだ、都は。それがいつかはわからない。ただ、俺達に別れは必ずやってくる。なにも知らない少女のまま、なにもわからない少女のままで、都は俺の手から零れ落ちていくのだ。
でもね、都。
それは都が俺だけのものになるってことでもあるんだよ。
俺の記憶の中にしか都は存在しないのだから。
「都」
都が首を傾げる。
「週末はデートしようか。どこに行きたい?」
都はにっこりと笑ってテレビを指差す。薔薇園の特集がやっている。
「いいね。行こうか」
都が手と唇を動かす。
『ありがとう』
殆どの記憶を失っても、都は都のままだ。
薔薇なんかよりもずっと綺麗なまま。
週末は約束通り、薔薇園に出掛けた。
「都、カフェがあるよ。入ろうか」
都が頷く。パンケーキとポテトを頼んでシェアした。甘いとしょっぱいの組み合わせで無限に食べられると喜んでいる。追加で薔薇のフレーバーのソフトクリームも頼んだ。沢山歩いてお腹いっぱい食べて眠くなったのか、帰りの車中で都はうとうとしている。ラジオから流れてくるスローテンポの曲を子守歌に、都は眠ってしまった。
『家畜に名前がないように、貴方の名前を忘れてしまうの。思い出して泣いてしまうよりも、貴方自体を消してしまうの』
背筋を氷が滑ったような感覚がした。
「・・・都、家に着いたよ。起きて」
ぱちぱちと瞬く都が可愛くてキスをしたくなる。部屋に戻って暫くしても眠気が取れないので遅い昼寝をすることにしたようだ。
「・・・俺も少し寝ようかな」
睡眠が必要ない身体をしているとはいえ、眠りに落ちる前のまどろみの気持ち良さはできれば毎日味わいたいものだ。久しぶりにベッドに横になり、目を閉じる。眠りはすぐにやってきた。
『ハロー、鼠君』
「・・・やあ、クリエイターさん」
茶を基調とした部屋に溢れているのはアンティーク調のラジオと時計。ラジオが吐き出す音声は混ざり合って雑音となり、時計の針は自分勝手に時刻を刻んでいる。
『機嫌が悪いねえ』
「俺、人一倍美醜には厳しいんだよね。あんたの顔のせいじゃない?」
『ハハッ! まあ、いいや。どうして彼女にまやかしをかけたんだい? 二人で永遠に生きる方法もあっただろうにさ』
「教えないよ」
『ふうむ・・・。私が倉橋美月の所在を知っていると言ったら、どうする?』
「俺は復讐なんてしない」
『なんだあ、つまらない』
「帰りなよ」
『もう少しだけ話さないかい?』
「はあ・・・。いいよ」
『随分と悲しい夢を見ているんだね』
「・・・夢? この現実が?」
『そうだよ』
「ハハッ、夢だったらどれだけいいか・・・」
『もし本当に夢だったら、君が過ごしてきた何年もの時間は全て無駄だったということだよ? 今日までの努力が無駄になってもいいのかい? 無駄にしてでも山奥の館に帰りたい?』
「帰りたいね。兄弟と、二人のメイドと、ムカつく馬鹿犬と、誰よりも強くて優しい都が居たあの世界に・・・」
『私が君にそういうまやかしをかけてあげることもできるよ?』
「結構。余計なお世話だ」
『あはははは! 君達は実に面白い。いや、面白かったと言うべきかな?』
「お前は一体何者で、なにが目的で俺達に接触したんだ?」
『地獄にも刑務所があるのを知ってるかい?』
「知らない」
『実はつい最近、そこから出てきたんだよ。いやー、参った参った。楽しいことが好きな私にとってあの場所は実につまらなかった! もう二度と入りたくないから大人しくしていようと思う程にはね! それでさあ? 出てきたら天国で噂の、』
なんと言ったのか、聞き取れなかった。
『・・・が、人間の少女に惚れ込んで堕とされたっていうじゃないか! 一癖二癖どころか癖しかないあの男が気に入った少女がどんなものかと見に来てみたら、なんと子持ちだ! しかも三人も! しかも全員血の繋がらない男の子ときた! おまけに『闇の女王』と呼ばれるに相応しい程、強く美しく成長していて驚いたよ! まあ、彼女は私のタイプではないけれどね。あははっ! 蜂君みたいにちょっとツンとした女の子が好きなんだよ私は。追われるよりも追いかけたいタイプなのでね!』
「地獄まで追いかけて行ったら?」
『ハハハハハッ! わかっているくせに! 死後の世界なんてものはない。人間が考える天国と地獄の概念も大きく間違っている。地獄に行ったって蜂君には会えないさ。この宇宙のどこにも、ね。さてさて、楽しいお喋りだったよ。悲しい夢から目が覚めればいいね。おやすみ、鼠君』
そこで目が覚めた。
「ッチ、なあにが『おやすみ』だ。起きてんじゃねえかよ」
一時間も眠れていない。上体を起こすとぽろぽろと涙が零れた。誰に対して泣いているのだろう。なにに対して泣いているのだろう。
「・・・好きだよ、都」
蹲り、声を殺して、泣いた。