百九十七話 楓さん

文字数 1,988文字

九月。美波の『仕込み』が始まって少し経った頃。じゅえりの両親とじゅきあが玄関のドアを開けて館に入ってきた。廊下で軽く談笑していた都と千代が吃驚する。


「わわッ!? 不法侵入ですよォ!?」


三人は怒り心頭といった様子で、顔を真っ赤にしていた。


「テメエエエェッ!!」

「みっ、都さん! お逃げください!」


都が廊下の奥に逃げ出すと、三人は服の下に忍ばせていた刃渡りの大きい包丁を取り出した。


「じゅえり出せボケェッ!!」

「ぶっ殺してやんよォッ!!」

「待てコラァッ!!」


千代が『ヒッ』と小さく悲鳴を上げて、談話室に逃げ込む。母親が千代を追いかけ、父親とじゅきあは都を追いかけた。


「あの雑誌のせいでッ!! 俺達がどんな目に遭ったかわかってんのか雌豚ァッ!!」


都を追いかける父親とじゅきあが談話室の前を通り過ぎる。


「もう失うモンはねえッ!! テメェのおかげでなぁッ!!」


都を追いかける父親とじゅきあが談話室の前を通り過ぎる。


「金も仕事もガキも取られちまったッ!!」


都を追いかける父親とじゅきあが談話室の前を通り過ぎる。


「おまけに町じゃ爪弾きモンだぁッ!!」


都を追いかける父親とじゅきあが談話室の前を通り過ぎる。


「役所も相手にしやがらねえッ!! 生活保護も受けられねえッ!!」


都を追いかける父親とじゅきあが談話室の前を通り過ぎる。


「俺に死ねってかぁッ!? クソがアアアァッ!!」

「お、親父ッ!!」

「あぁッ!?」

「おかしいッ!! この部屋、何回前を通ったッ!?」


父親とじゅきあが談話室の前で立ち止まる。

談話室の真ん中で、じゅえりが母親が死んだあとも狂ったようにトンカチで叩き潰しているのを、俺達はソファーに座って酒を飲みながら見ていた。


「うーん。なめろう、つくね、ハンバーグ・・・」


千代がチェシャ猫のように笑って言う。直治が鼻で笑ってウィスキーを煽った。


「じゅ、じゅえり、お、おま、お前・・・」


じゅえりはゆっくりと立ち上がり、瞬いた。


「謝罪は不要です」

「な、」

「許しませんから」


ブン、とトンカチが飛び、父親の額に命中する。当たり所が良かったのか悪かったのか、死んだらしい。ぐらんぐらんと身体を揺らし、膝から崩れ落ち、前に倒れた。じゅきあが猿のように吠える。


「怖いの?」


都が笑う。


「土下座させて小便かけて馬鹿にして頭を踏んだ、自分の妹が怖いの?」


じゅきあが都とじゅえりの間で包丁を往復させる。暫く迷ったあと、脱兎の勢いで玄関の方へ走っていった。じゅえりがトンカチを拾う。

じゅきあが談話室の前を走っていく。


「はえっ!? ぶ、ぶつかってないのにっ!?」


振り返って都の方を見ながら言った。

じゅきあが談話室の前を走っていく。


「どういう仕組みになってんだろうなァ?」


じゅきあが談話室の前を走っていく。


「さっぱりわからないね」


じゅきあが談話室の前を走っていく。


「都には敵わないな・・・」


じゅきあが談話室の前を走っていく。

じゅきあが談話室の前を走っていく。

じゅきあが談話室の前を走っていく。


「だ、だずげでぇ・・・」


走り疲れたじゅきあは、談話室の前でへたりこんだ。


「命乞いは不要です」

「じゅえ、」

「許しませんから」


トンカチが横向きに振り抜かれる。倒れたじゅきあの目は見開かれていて、鼻血がびちゃびちゃと垂れて床を汚した。都が談話室の前まで歩いて移動すると、じゅえりはトンカチを床に置いて膝をつき、祈るように指を組んだ。


「都様、ありがとうございます」


にこ、と都は微笑む。


「お願いです」


じゅえりは瞳を涙で震わせた。


「私を、お傍に置いてください。なんでもします。どんなキツいお仕事でもします。都様のことだけを考えて生きていきます。どうか、どうか」

「楓さん」


じゅえりは、『楓』は諦めたように笑い、涙を零した。


「『勘違いだけはしないでね』と言ったはずよ」


楓は頷き、ゆっくりと、顔を地面につける。それは、謝罪や命乞いではなく、神にひれ伏すような土下座だった。都の顔からゆっくりと笑みが消え、愚か者を見下すような冷徹な顔になる。


「貴方の憎しみが成就したんじゃなくて、私の、」


都は楓の頭の上に、足を持ち上げる。


「拘り」


形容し難い音が鳴って、楓の頭の中身が廊下中に飛び散り、都の顔にまで飛んだ。談話室の中にも広がる。ジャスミンが尻尾を振りながらやってきて、都の周りをくるくると回ると、四つの死体を見境なく貪り始めた。都はするりと身体の向きをかえて俺達の方を向くと、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の膝を軽く曲げ、両手でスカートの裾を軽く持ち上げた。お手本のような『カーテシー』だ。


「ありがとうございました」


再び、するりと身体の向きをかえ、去っていく。俺達はグラスを置き、ぱちぱちと拍手を送った。


「『拘り』、ね・・・」


美代がグラスを持ち上げると、からん、と氷が音を鳴らす。


「怖い女だ」


美代はそう言って、舐めるようにウイスキーを飲んだ。
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