三百二十五話 嘔吐

文字数 2,459文字

ふ、と意識が白んだ。項垂れる都の後ろ姿だけが目に浮かんだ。親切な白い悪魔のしわざに違いない。俺は自室を出て都の部屋に向かった。

こんこん。

返答は無い。鍵は開いていた。俺は部屋に入るとそっと鍵をかけた。都を探して、すぐに見つける。トイレの床にへちゃりと座り込んでいた。


「・・・都?」


ゆっくり振り返った都の顔色は明らかに悪くて、俺は心臓が潰れそうになる。


「あつ、ぞう」

「どうしたんだ?」


柔らかい声を心掛けて、言う。都はどこか呆けた表情をしていた。


「うまく、はけなくて」


幼女のような呂律をしている。


「だいじょうぶ、もう、」

「都」


俺は首を横に振った。都を後ろから抱きしめるようにして身体を添わせ、右手で顎を掴み、左手の指を都の口に入れた。都は抵抗しなかった。舌の奥を何度か指の腹で擦る。


「・・・ぇう」


舌の筋肉が硬くなる。乾いていた口内に唾液が分泌されて湿る。都が身を震わせたので手を離すと、都は苦しみながらも胃の中身を吐き出し始めた。


「ごめん、な、さい」

「怒ってないよ」


都がまた吐き始める。嗚咽が混ざり始めた。俺は黙って都の背中をさすった。


「・・・淳蔵、ありがとう。もう大丈夫」


暫く吐いたあと、都の舌は明瞭になった。トイレットペーパーで口を拭き、捨てて、レバーを操作して吐瀉物を流す。


「どうしたんだよ?」

「歯磨きしたい、けど、動いたらまた吐きそう」

「喋ってて大丈夫か?」

「うん。ごめんなさい、あとでちゃんと話すから」


都を気遣って一人にするのは、妙に嫌な予感がした。


「今、話せよ」

「・・・初めてじゃ、ないの。ふとした瞬間に嫌なことを思い出して、気分が悪くなるだけ。いつも上手く吐けなくて、一時間くらいかかるけど」

「今日は?」

「三十分、かな。昔、昔ね、小さい頃、風邪で具合が悪いのに、御婆様に付き合わされてお客様と食事をして、その場で吐いちゃって、あとで叱られたの。それから、吐くことに抵抗感が産まれるようになっちゃって・・・」


涙で声が震えている。


「だい、じょうぶ。吐いたらスッキリするし、そのあと動き回っても平気だから」

「安静にしろ。強がるな」

「駄目だな私、淳蔵に嫌な部分ばっかり見せちゃって・・・」


苛立つ。都の過去に。都の祖母に。風邪の幼子に無理やり飯を食わせて、吐かせておいて叱るだなんて、人間のやることじゃない。


「都、誰が見てる?」

「え?」

「俺以外に都のこと、今、誰が見てる?」

「ど、どういう意味?」

「吐いたらスッキリするんだろ。嫌なことも全部吐いちまえよ」


僅かな沈黙。


「・・・なんでかな。もう死んでるのに『死んでしまえ』っていつも思うの」


教育という虐待を受けた都の、恨みの言葉。


「私、そんなに悪いことした?」


理不尽な仕打ちに対するやりどころのない怒り。


「してないよね?」


当たり前を享受できない寂しさ。


「してないって言ってよ・・・」


自分を肯定できない無力な都。


「してない。都はなにも悪くない」


項垂れる都を今度こそ後ろから抱きしめて、後ろ髪に頬を寄せる。


「・・・殺してやる」


都は両手で顔を覆った。


「あいつら、いつか殺してやるっ・・・!」


俺は都の父親を撃ち殺した夜のことを思い出した。都は既に死が確定している父親に、あの夜初めて見た、そしてあの夜以降は一度も見ていない、形容のできない笑みを浮かべて、馬乗りになって何度も包丁を振り下ろしていた。


「・・・落ち着いたか?」

「・・・うん。歯磨きしてくる」


不安定な都から身体を離したくないが、仕方なく、腕を解いた。二人でトイレを出る。


「あの、淳蔵」

「うん?」

「本当に、ごめんなさい。その、髪、床についちゃったでしょ?」


俺は少し考えてから、都に口付けた。


「な、なにして、き、汚いでしょっ!!」

「わかんない? 今の状態の都にキスできるくらい都のこと愛してんだけど」

「は・・・なん・・・」

「都が怒るからやんないけど舌だって入れられる。疑うなら試すか?」

「やめて馬鹿っ!! もう信じらんないっ!!」


都は顔を真っ赤にして俺の身体を押し返し、慌てながら浴室に行き、『バタンッ!』と音を立てて乱暴にドアを閉めた。


「あとで怒られるなこりゃ」


どこからともなくジャスミンがやってきて俺の前に座り、ニパッと笑う。


「ありがとよ」


礼を言って自室に戻り、口をゆすいでから風呂に入って髪を洗った。その日の夕食、都は不機嫌を隠さず食堂に来た。


「都、どうしたの?」


美代はなんでも知りたがる。


「なんでもない」

「そ、そう」

「なんでもないってば!! 黙って食べなさい!!」


俺以外の全員がビクッと身体を竦ませた。都は『いただきます』を言わずに食事を始める。


「淳蔵、あとで部屋に来て」

「はい」


やっぱり怒られるらしい。都は食事を終えると無言で食堂を出ていく。


「おい、なにしたんだよ」


美代が焦った表情で言う。


「んー、まあ悪いことはしてないんだけど俺が悪い」

「なんだよそれ! 全く・・・」


俺も食事を終えたあと、無言で食堂を出て都の部屋に向かった。

こんこん。


『どうぞ』

「失礼します」


中に入り、鍵をかける。


「なんであんなことしたの」

「愛してるから以外にない」


都は歯を食いしばるような顔をしたあと、俺の手を乱暴に引っ張って寝室に連れて行った。


「馬鹿じゃないのほんとに!」


顔を真っ赤にしながら服を脱ぎ始める。予想外の行動に戸惑ってしまった。


「虐めさせてあげる」

「ええ、ちょ、いいのかよ・・・」

「要らないなら結構です!」

「い、要ります要ります。歯磨きとシャワーしてくるから、」

「早く!!」


ヒステリックに叫ぶ都。俺は急いでシャワーを浴びて歯を磨いた。白くて可愛い下着姿でベッドに腰掛ける都の隣に座って、押し倒す。


「いいのかよほんとに」

「ぐだぐだうっさい男ね」

「口の悪いお姫様だ」

「・・・お礼できるようなもの、これしか持ってないんだもの」


身体。


「自分を卑下しちゃいけないだろ、都、うっ・・・」

「偉そうに説教しといて、私の足に当たってるモノはなんなのよ」

「すみません・・・」

「馬ッ鹿じゃないの」

「えっちなことしたら、今日は一緒に寝ような」

「・・・うん」
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