二百八十八話 紙
文字数 2,162文字
七月。文香を修道院に送る車を見届けたあと。
「ねえ、都。この山の森って『迷いの森』と呼ばれているんだよね?」
美代が問う。
「ええ、そうよ」
「どういう仕組みになってるの? 『招かれざる客は二度と生きては帰れない』って噂らしいけど・・・」
「あ、そういえば、貴方達は知らないのね。いいわよ、教えてあげるから、全員こっちに来なさい」
指示に従い、庭の森に入る。
「隣に居る人と手を繋いで。いい? ぜーったいに手を離しちゃ駄目よ?」
頷き、手を繋ぐ。
都が一歩、動いた。
「うわっ!?」
「えっ!?」
「なっ、なんだ?」
「おおッ!?」
「す、すごい・・・」
都の身体は分割され、その断片は木や木々の隙間にバラバラに配置されている。木の奥にも手前にも見えて、木の幹には精巧な絵のように映し出されている。都がどこに居るのか全くわからない。空間が、歪んでいる。
『『ルネ・マグリット』が制作した『白紙委任状』という絵画を知っているかしら?』
都の声は、頭上から、森の奥から、まるで草や葉が擦れ合うように聞こえてくる。
『だまし絵、目の錯覚、というヤツよ』
「はニャニャニャ・・・!!」
するり、と伸びた手が千代の背中に触れる。千代は直治と桜子と手を繋いでいるので動けない。
わんっ!
ジャスミンが楽しそうに吠える。しかし、森に入ってきたのは、ラブラドール・レトリーバーという犬種の犬ではなく、ぎょろぎょろと動く大きな目玉が一つ、丸太のような足が六本、ゆらゆらと揺れる長い尻尾が二本、一目見ただけでゾッとする不気味な口が二つの、白い、巨大な、謎の生きもの。
『あら、可愛い犬さん』
つつ、と都の人差し指が、千代の背中を下から上に撫で上げる。謎の生きものは、ジャスミンは、二つの口を交互に噛み合せながら千代を覗き込む。
「・・・ね? 目の錯覚って面白いでしょ?」
「は、はニャ・・・」
ふと気付くと、千代の後ろに都が立っていて、前には『犬の』ジャスミンがニパッと笑いながら座っていた。
「そういえば、『犬派か猫派か』という問いにそれ以外の生きものだと答えるのは野暮なのかしら?」
都は直治を見て、
「今は蛇の気分」
と言って、館に向かってすたすたと歩いていく。直治は美代と千代と繋いでいた手を振り解く勢いで都を追いかけていった。
「わかりやす過ぎるだろあいつ・・・」
「むっつりすけべめ」
美代が毒を吐く。
「あれ、おジャス、首輪になにか挟まってますね?」
「あ、ほんとだ」
取り出しやすいようにしているつもりなのか、ジャスミンが頭を下げる。黒い首輪に挟まっていたのは、薄いピンク色の封筒だった。美代が取り出し、手首を翻して裏を見る。
「一条淳蔵様へ、久遠寺椿より」
「ええ・・・」
ジャスミンは大袈裟に鼻をフンッと鳴らし、ニチャアと笑う。
「ラブレターじゃねえのぉ、兄貴ぃ?」
美代もにやにやと笑う。
「・・・都にバレてないよな? 読まなきゃ駄目?」
「必要以上に辱めないために、本人以外は読まないこと。酒の肴にしていいのは脅迫めいた内容の時だけ。そう言われただろ。ほらよ」
「はあ・・・」
俺が手紙を受け取ると、ジャスミン以外は館に戻っていく。都の『尊厳』に対する基準は、ちょっとよくわからない。俺は仕方なく、手紙を取り出し、読み始めた。
『一条淳蔵様へ。
『人は見かけによらぬもの』という諺があります。
貴方の『見かけ』は大変恵まれています。
しかし、『中身』はどうでしょうか。
『見かけ』に釣り合っていないと思いませんか?
不足していると思いませんか?
現状で満足するのはおやめなさい。
今の生活で満ち足りていると思うのはおやめなさい。
『精神的に向上心のない者は馬鹿だ』
夏目漱石のこころという作品の言葉です。
今の貴方は馬鹿者です。
では、私はどうでしょうか。
久遠寺椿はどうでしょうか。
人は私を『清らかで美しい』と評します。
中には『天使のようだ』と言う人もいます。
私が精神的に向上心を持ち続けていることは、
私の学歴を一目見ればわかるでしょう。
私は貴方の隣を歩くのに相応しい人物です。
しかし、貴方は私に相応しいでしょうか。
人は『見かけ』だけでは生きてゆけません。
清らかで美しいだけでは生きてゆけません。
知識と知性がなければ生きてゆけないのです。
貴方は、一条淳蔵は、このまま一生、
この山で飼い殺されるつもりですか?
私が、久遠寺椿が、導いてあげましょう。
私の教えに従って、正しい道を歩みましょう。
幸せになれることを約束します。
私は貴方を愛しています。
私は貴方を正しく愛しています。
久遠寺椿は一条淳蔵を愛しています。
無償の愛は、存在しません。
貴方も私を愛しましょう。
貴方も私を正しく愛しましょう。
一条淳蔵は、久遠寺椿を愛しましょう。
お返事待っています。
久遠寺椿より』
「あッたまいてぇー・・・」
本当に頭痛がする。便箋二枚でここまで精神的な苦痛を与えられるのだから大したものだ。
「ジャスミン、おやつだぞ」
封筒と便箋をクシャクシャに丸めてジャスミンに放り投げる。ジャスミンはパクッと空中で捉えると、よく噛んでから嚥下した。都の言いつけをきちんと守っている。偉い。尻尾をブンブンと振りながら館へ駆けていく。俺も腕を上げて伸びをしながら、館へ戻るために歩き出した。
「ねえ、都。この山の森って『迷いの森』と呼ばれているんだよね?」
美代が問う。
「ええ、そうよ」
「どういう仕組みになってるの? 『招かれざる客は二度と生きては帰れない』って噂らしいけど・・・」
「あ、そういえば、貴方達は知らないのね。いいわよ、教えてあげるから、全員こっちに来なさい」
指示に従い、庭の森に入る。
「隣に居る人と手を繋いで。いい? ぜーったいに手を離しちゃ駄目よ?」
頷き、手を繋ぐ。
都が一歩、動いた。
「うわっ!?」
「えっ!?」
「なっ、なんだ?」
「おおッ!?」
「す、すごい・・・」
都の身体は分割され、その断片は木や木々の隙間にバラバラに配置されている。木の奥にも手前にも見えて、木の幹には精巧な絵のように映し出されている。都がどこに居るのか全くわからない。空間が、歪んでいる。
『『ルネ・マグリット』が制作した『白紙委任状』という絵画を知っているかしら?』
都の声は、頭上から、森の奥から、まるで草や葉が擦れ合うように聞こえてくる。
『だまし絵、目の錯覚、というヤツよ』
「はニャニャニャ・・・!!」
するり、と伸びた手が千代の背中に触れる。千代は直治と桜子と手を繋いでいるので動けない。
わんっ!
ジャスミンが楽しそうに吠える。しかし、森に入ってきたのは、ラブラドール・レトリーバーという犬種の犬ではなく、ぎょろぎょろと動く大きな目玉が一つ、丸太のような足が六本、ゆらゆらと揺れる長い尻尾が二本、一目見ただけでゾッとする不気味な口が二つの、白い、巨大な、謎の生きもの。
『あら、可愛い犬さん』
つつ、と都の人差し指が、千代の背中を下から上に撫で上げる。謎の生きものは、ジャスミンは、二つの口を交互に噛み合せながら千代を覗き込む。
「・・・ね? 目の錯覚って面白いでしょ?」
「は、はニャ・・・」
ふと気付くと、千代の後ろに都が立っていて、前には『犬の』ジャスミンがニパッと笑いながら座っていた。
「そういえば、『犬派か猫派か』という問いにそれ以外の生きものだと答えるのは野暮なのかしら?」
都は直治を見て、
「今は蛇の気分」
と言って、館に向かってすたすたと歩いていく。直治は美代と千代と繋いでいた手を振り解く勢いで都を追いかけていった。
「わかりやす過ぎるだろあいつ・・・」
「むっつりすけべめ」
美代が毒を吐く。
「あれ、おジャス、首輪になにか挟まってますね?」
「あ、ほんとだ」
取り出しやすいようにしているつもりなのか、ジャスミンが頭を下げる。黒い首輪に挟まっていたのは、薄いピンク色の封筒だった。美代が取り出し、手首を翻して裏を見る。
「一条淳蔵様へ、久遠寺椿より」
「ええ・・・」
ジャスミンは大袈裟に鼻をフンッと鳴らし、ニチャアと笑う。
「ラブレターじゃねえのぉ、兄貴ぃ?」
美代もにやにやと笑う。
「・・・都にバレてないよな? 読まなきゃ駄目?」
「必要以上に辱めないために、本人以外は読まないこと。酒の肴にしていいのは脅迫めいた内容の時だけ。そう言われただろ。ほらよ」
「はあ・・・」
俺が手紙を受け取ると、ジャスミン以外は館に戻っていく。都の『尊厳』に対する基準は、ちょっとよくわからない。俺は仕方なく、手紙を取り出し、読み始めた。
『一条淳蔵様へ。
『人は見かけによらぬもの』という諺があります。
貴方の『見かけ』は大変恵まれています。
しかし、『中身』はどうでしょうか。
『見かけ』に釣り合っていないと思いませんか?
不足していると思いませんか?
現状で満足するのはおやめなさい。
今の生活で満ち足りていると思うのはおやめなさい。
『精神的に向上心のない者は馬鹿だ』
夏目漱石のこころという作品の言葉です。
今の貴方は馬鹿者です。
では、私はどうでしょうか。
久遠寺椿はどうでしょうか。
人は私を『清らかで美しい』と評します。
中には『天使のようだ』と言う人もいます。
私が精神的に向上心を持ち続けていることは、
私の学歴を一目見ればわかるでしょう。
私は貴方の隣を歩くのに相応しい人物です。
しかし、貴方は私に相応しいでしょうか。
人は『見かけ』だけでは生きてゆけません。
清らかで美しいだけでは生きてゆけません。
知識と知性がなければ生きてゆけないのです。
貴方は、一条淳蔵は、このまま一生、
この山で飼い殺されるつもりですか?
私が、久遠寺椿が、導いてあげましょう。
私の教えに従って、正しい道を歩みましょう。
幸せになれることを約束します。
私は貴方を愛しています。
私は貴方を正しく愛しています。
久遠寺椿は一条淳蔵を愛しています。
無償の愛は、存在しません。
貴方も私を愛しましょう。
貴方も私を正しく愛しましょう。
一条淳蔵は、久遠寺椿を愛しましょう。
お返事待っています。
久遠寺椿より』
「あッたまいてぇー・・・」
本当に頭痛がする。便箋二枚でここまで精神的な苦痛を与えられるのだから大したものだ。
「ジャスミン、おやつだぞ」
封筒と便箋をクシャクシャに丸めてジャスミンに放り投げる。ジャスミンはパクッと空中で捉えると、よく噛んでから嚥下した。都の言いつけをきちんと守っている。偉い。尻尾をブンブンと振りながら館へ駆けていく。俺も腕を上げて伸びをしながら、館へ戻るために歩き出した。