百七十六話 酩酊

文字数 2,935文字

一週間が過ぎ、三日、五日と過ぎた。今日で丁度二週間。都の身体は治癒するどころか、食事の回数が徐々に減り、ついに食堂に姿を現さなくなった。直治も、朝と夜に部屋とベランダを繋ぐ窓を開閉する時にしか見ない。

美代はもう限界だった。今まで『都のために働いていると落ち着く』と言って際限なく仕事をしていたのに、『今日はこれだけ』と量を決めて仕事を終わらせると、ザルだから酔えないのに浴びるように酒を飲んで、一瞬だけ得られる酩酊で気を紛らわせるようになった。夜は俺の部屋で一緒に寝ている。

俺は客室の一号室の傍の壁に背を預けて立ち、鴉を飛ばし続ける。敷地内にも、山にも、変化は無い。都と直治の食事を持ってきた千代が、俺を見て首を横に振る。俺が部屋の中を見ないように千代に背を向けると、千代は静かに部屋に入っていった。

少しすると、千代が部屋から出てくる。ドアが閉まった音を聞いてから、俺は元の体勢に戻った。千代の手には、都も直治も殆ど手を付けていない一食前の食事が乗った盆がある。千代は深くお辞儀してから去っていった。

俺は鴉を出し過ぎて短くなった髪をばりばりと掻く。一日一回、不規則な時間に中畑が様子を伺いに来る。初めの頃は陽気に『髪を切ったのか』などと話しかけてきて、目の前に立って視線を合わせてきたが、黙って見下ろしているうちに俺が怖くなったのか面白くなくなったのか、微妙な表情で去っていくようになった。今日はまだ来ていない。


『直治』

『うん?』


都と直治の声。俺も、ベランダに居る美代の鼠も、ぴくっと反応した。


『たまには湯船に浸かっておいでよ』


直治は返答しない。


『今日は気持ち良い風が吹いてるから、お風呂に入る前に、もう少し窓を開けていってね』

『・・・わかった。一時間で戻るからな』


直治が窓とカーテンを大きく開け、ベランダに顔を出す。黙って俺と美代を見つめると、部屋の中に戻っていった。夏の虫の声と、風に撫でられた草木が揺れる音がしているのに、これ以上ない程、静かだった。


「淳蔵、美代」


名前を呼ばれて、久しぶりに酸素を吸った心地になる。


「おいで」


二人で部屋に飛び込んだ。車椅子に都は座っていない。ベッドで寝ている。美代は混乱しているのか、ぢゅうぢゅう鳴き叫びながら、届きもしないのにぴょんぴょん跳ねてベッドに乗ろうとしていた。俺が両脚で無理やり掴んで、ベッドの上に飛び乗って美代を降ろす。

都の肌は、生気を感じられない程、真っ白になっていた。

車椅子生活が始まる前の都は、白さの下に血の赤が透けて、命の温かさを感じる肌をしていた。今はマネキンのような温度の無い肌をしていて、虚ろな目をしている。美代が都の頬に身体を擦り寄せ、必死に話しかけている。


「ごめんなさい。なにを話してくれているのか、わからなくなっちゃったみたい・・・」


俺も話しかけたが、都には伝わらなかった。それでも美代は喋り続けてぢゅうぢゅう鳴いて、都の頬に身体を擦り寄せ続けた。


「んふ、くすぐったくて、気持ち良い・・・」


都が少し、笑う。俺は黙って、都の頬に身体を引っ付けた。都の頬は、冷たかった。


「・・・一時間だ」


いつの間にか、直治がベッドの傍に立っていた。性質の悪い冗談であってほしかった。だってまだ会えたばっかりで、一分も経ってない気持ちだ。


「もう少し・・・」

「飯をちゃんと食うならまた入れてやる」

「食べるから・・・」

「食べてからだ。淳蔵、美代、外に出ろ」


返答を聞かず、直治が俺の身体を持ってベッドの下に降ろす。次いで美代を持ち上げると、美代は盛大に暴れて直治の手から血が出る程噛み付き引っ掻き、直治を罵倒した。


「淳蔵、外に出ろ」


ベランダに出る。直治は美代を床に押し付け、靴の裏で踏み付けながら器用に手だけ抜くと、足を放した瞬間にバチンッと音が鳴る程素早く窓を閉め、カーテンも閉じた。美代は意味のある言葉を発することができない程怒り狂っているのか、ぢゃーぢゃーと甲高い叫び声を上げながら窓をカリカリと引っ掻く。そして少しずつ疲れていき、ぢいい、と小さく鳴くと、へちょっとその場に倒れ込んだ。

荒っぽい足音と、ガチャンガチャン、と硬いものがぶつかる音が近付いてくる。振り乱したかのように髪をぼさぼさにした美代が、据わった目をして、両手の指の股に酒の瓶の飲み口を挟めるだけ挟んで現れた。瓶が割れそうな勢いでぶつかりあって、ガチャンガチャン、と音を立てていたのだ。美代は俺と同じようにドアの傍の壁に背を預け、片膝を立てて座る。そして瓶をその辺に転がすと、怪力でコルクを引き抜いて、ワインを丸々一本、一気に飲み干した。


「わかってる。こんな姿見せても、中畑が喜ぶだけだって」


独り言ち、新しい酒を開ける。


「でも、もう、なにも考えられねえ・・・」


ごくっごくっと喉を鳴らして酒を一気に飲み干し、ぼうっと虚空を見つめ、そのまま動かなくなった。


「わッ! すッごいお酒の数ぅ!」


中畑の声が嬉しそうに聞こえるのは、気のせいじゃない。


「こンなところで、二人で飲ンでるンですかぁ?」


楽しそうに笑いながら近付いてきて、美代の顔を見ると身を竦ませ、媚び諂うような笑いにかえた。


「あ、あのぉ、あンまり沢山飲むと、身体に悪いですよ? 都さん、きっといつか良くなりますよ。だからそンな、悲観せずに、」

「お前さあ、なにがしたいの? どうしてほしいわけ?」


美代が苛立った声で言う。


「え・・・」

「あと二週間、大人しくしてらんないの?」


中畑が出ていくまで、あと二週間。


「・・・あの、純粋に疑問です。本当に、わけがわからないです」

「なにが?」

「なンでそンなに、都さんのこと好きなンですか?」

「はあ? お前、婚約者居るのにそんなこともわかんないの?」


俺も中畑の言葉の意味がわからない。中畑は悔しそうな顔をしている。俺は中畑を、異次元か、異世界の生きものなのだと思った。と、突然、不愉快な音が響いた。中畑の携帯が鳴っている。


「馬鹿かお前? 仕事中でも休憩中でもマナーモードにしとけよ」

「すっ、すみませン!」


中畑はポケットから携帯を取り出しながら走り去っていった。


「美代」

「なんだ」

「『ヤツ』が来た」


髪の色は鮮やかな青になっていたが、色黒の肌と顔は間違いない。大きなリュックサックを背負った『達磨屋の辰』だ。鴉を近くに飛ばす。


『お待たせして申し訳ありません。ちょっと別件で一週間かかってしまいまして。その分のお代は結構ですから。・・・はい。外壁の近くでテント張って待ってますから、隙を見計らって、夜、中に入れてください。・・・はい、お客様のお望みのタイミングで。では、失礼します』


電話を切ると、黙々と山を登り始める。俺はドアを三回ノックした。直治が少しだけドアを開けて、顔を覗かせる。


「うわ、酒臭い・・・。なんだ?」

「『ヤツ』が来た」


直治の瞳が、ぎらぎらと輝きを増す。


「明日の昼過ぎ、決行する。都の指示を待て」


俺が頷くと、直治はドアを閉めた。


「美代、その辺にしとけ」

「ういー」


美代は適当な返事をして、新しい酒を開ける。


「おい」

「お前が飲むんだよ」

「残り全部?」

「俺、馬鹿だから、取り上げてくれないとぜーんぶ飲む」

「へいへい」


酔えないのに酔いたくて飲む酒は、苛立たしくて虚しかった。
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