二百八十六話 醜い喧嘩
文字数 2,861文字
夕食の時間。文香が食堂にやってきた。
「文香さん、具合はどう?」
都の問いに、
「お気遣いありがとうございます。痛み止めがよく効いたみたいで、少し寝ることができました」
と、文香はすらすらと答えた。都から事情を聞かされているのであろう千代と桜子以外は吃驚している。
「不思議な夢も見たんです」
「あら、どんな?」
「断片的にしか覚えていないんですけど、自分を人畜無害な蚕だと思っていたら、本当は有害な毒蛾だった、という夢です」
「フフ、あとで聞かせて」
「はい」
食事が運ばれ、全員が席に着く。
「都様、お話したいことがあります」
「なにかしら?」
「私の指のことです。骨折の原因はドアで挟んだのではなく、椿さんと裕美子さんに折られたんです」
文香は涼しい表情で言った。椿と裕美子が目と口を開けて文香を見る。
「どういうこと?」
「二人に『指を折ったことをバラしたら社長の指を折るぞ』と脅迫されて、」
「言い掛かりですッ!!」
椿が立ち上がった。
「話の途中よ」
「こいつ頭がおかしいからまた変なことをッ、」
「黙らせて」
桜子が立ち上がり、椿に詰め寄る。椿は後退った。
「暴力を振るったら訴えますよッ!!」
桜子は構わず椿を掴み、背中から床に叩きつけた。物凄い音が鳴った。椿は上手く呼吸ができないのか、ぴくぴくと痙攣している。裕美子は顔を真っ青にしていた。
「やり過ぎじゃ、」
「貴方も黙りたい?」
「い、いえ・・・」
俺は椿を庇ったわけではなく、都のことを考えて口を開いたのだが、すぐに後悔して口を閉じることになった。
「文香さん、詳しく話して」
「はい」
文香が指を折られた日のことを話し始める。直治に勧められた小説を借りに書斎に行く途中で椿と裕美子に捕まえられて客室に放り込まれ、罵倒され、『お仕置き』と称して指を折られ、『バラしたら社長の指を折る』と脅迫された。
「・・・ということで、今まで本当の理由を話せませんでした。この人達は私が下手に出ると調子に乗って、今度は『なんだか気に食わないから』という理由で攻撃してくるでしょう。他の方にも危害を加えたあとに『バラしたら他の人間に危害を加える』と言って脅迫するかもしれません。不法侵入をしていた私を信用してくださいと言うのは、無理があるのはわかっています。それでも、皆さんが揃うこの場で、このお話を伝えるべきだと思いました」
「そう。裕美子さん、本当のことなの?」
「あっ、あのっ・・・」
そう言ったっきり、裕美子は沈黙する。
「私は別に弁護士呼ばれようが警察呼ぼうがどっちでもいいけど、当事者がどうしたいかよね?」
首謀者の椿も、共犯者の裕美子も、被害者の文香も、何故かなにも言わない。都は呆れた様子で鼻から深く息を吐いた。
「気分が悪いわ。千代さん、食事を部屋に運んでちょうだい」
「はァい!」
都が食堂を出ていくのを見送ってから、千代がキッチンに行く。食事を部屋に運ぶための準備をするのだろう。俺達はもう食事どころではなかった。
「・・・食事は部屋に運ぶから、皆、部屋に戻らないか?」
直治の提案に椿以外が頷く。漸く身を起こした椿はゼイゼイと不快な呼吸音を立てて、項垂れて身を震わせていた。俺は事務室ではなく自室に戻り、千代が運んでくれた食事を見つめる。食べる気は起きない。
声が聞こえる。
恐らく、隣の淳蔵の部屋、の前。遮音性の高い壁を擦り抜けて聞こえる程甲高い女の声。椿の声だ。内容までは聞き取れないが、淳蔵が返答しているのか、妙な間がある。可哀想な目に遭っているのかもしれない。助けてやらねば。俺は部屋を出た。
「おお、美代」
淳蔵はドアを庇うように背を凭れさせ、腕を組んでいる。対面に立っている椿は泣いていた。椿は俺を見ると、祈るように両手を胸の前で握り合わせた。
「美代様! 美代様も信じてください! 私、文香さんの指を折るなんて、そんな恐ろしいことしていません!」
「あー・・・、そうなの?」
「本当です! 私、危害を加えるだなんてそんなこと・・・!」
「うん、そう」
「さっき文香さんに酷いことを言ったのは、突然変な言い掛かりをつけられて、ついカッとなってしまっただけなんです!」
「そうかあ・・・」
そろそろ、面倒臭いな。
「おお、直治」
階下から直治が上がってきた。後ろには裕美子が居る。
「裕美子が指を折ったと認めた」
さらりとそう言う。
「電話で文香に連絡したら『気分が悪いので明日にしてほしい』と言われてな。今から都のところに行く」
裕美子はちらりと椿を見て、視線が合うと目を逸らした。
「・・・は? は? は? 待てよ、おい」
椿が苛立った様子で顔を歪める。泣いていたのはなんだったのか。
「お前、なに嘘吐いてんの?」
「う、嘘なんか吐いてません!」
「嘘じゃん? 私達なんにも悪いことしてないじゃん?」
「貴方こそ嘘吐かないでくださいよ!」
裕美子は椿を指差す。
「私は貴方が怖くて従ってただけです! 『一条家を乗っ取る』だなんてわけのわからないこと言い出す変人に逆らったら、なにをされるかわからないから怖くて言うことを聞いていただけです!」
「はああ!?」
「貴方、淳蔵様と直治様に色仕掛けをしようって私に持ち掛けてきたじゃないですか!」
「なッ、なに言ってんの!?」
「二人は中卒で馬鹿だから私達で再教育しようとかなんとか一人で盛り上がってたじゃないですか! 断ったら私が指を折られていたかもしれないです!」
「マジで、マジでふざ、ふざけんなよお前っ、お前ェッ!!」
椿が裕美子に掴みかかり、醜い喧嘩が始まる。
「やめてッ!! 助けてえッ!! 指が折られるッ!! 指が折られるぅッ!!」
「ふッざけんなあああッ!! お前もッ!! お前もノリノリだっただろうがあッ!!」
「いたッ!? 触んないでよッ!! マジで頭おかしいッ!! やめろよッ!!」
ぐら、どすん。二人は突然意識を失い、倒れた。
「『あーあ』って顔してる場合じゃないでしょ」
階段から都とジャスミンが降りてくる。
「直治、まーた気がかわっちゃった。『アレ』、すぐに作って」
「はい」
直治が階段を降りていく。
「ジャスミン、直治が『アレ』を作り終わるまで、部屋に閉じ込めておきなさい」
ジャスミンがニパッと笑うと、椿に自室として与えている部屋のドアが独りでに開いた。ジャスミンは椿の首根っこを掴み、ずるずると引き摺って運び始める。
「どうするの? あの二人・・・」
「直治におもちゃを作ってもらっているから、出来上がるまで部屋に閉じ込めるわ。お風呂もトイレもあるんだし、二、三日食べなくたって死にゃしないでしょ」
教えてくれる気は無いらしい。都が部屋に帰っていく。
「喰わねえのかな?」
「かも?」
「今は肉より安らかな日々が欲しい」
「・・・俺も」
翌日。
「おはよう、文香さん。具合はどう?」
文香は、
「おはようございます、都様。お気遣いありがとうございます。思いっ切り寝返りを打っちゃって、痛くて朝早くに目が覚めてしまいました。ドアに挟んで折ったことといい、自分のドジ加減が本当に嫌になります・・・」
椿と裕美子のことを、綺麗さっぱり忘れていた。
「文香さん、具合はどう?」
都の問いに、
「お気遣いありがとうございます。痛み止めがよく効いたみたいで、少し寝ることができました」
と、文香はすらすらと答えた。都から事情を聞かされているのであろう千代と桜子以外は吃驚している。
「不思議な夢も見たんです」
「あら、どんな?」
「断片的にしか覚えていないんですけど、自分を人畜無害な蚕だと思っていたら、本当は有害な毒蛾だった、という夢です」
「フフ、あとで聞かせて」
「はい」
食事が運ばれ、全員が席に着く。
「都様、お話したいことがあります」
「なにかしら?」
「私の指のことです。骨折の原因はドアで挟んだのではなく、椿さんと裕美子さんに折られたんです」
文香は涼しい表情で言った。椿と裕美子が目と口を開けて文香を見る。
「どういうこと?」
「二人に『指を折ったことをバラしたら社長の指を折るぞ』と脅迫されて、」
「言い掛かりですッ!!」
椿が立ち上がった。
「話の途中よ」
「こいつ頭がおかしいからまた変なことをッ、」
「黙らせて」
桜子が立ち上がり、椿に詰め寄る。椿は後退った。
「暴力を振るったら訴えますよッ!!」
桜子は構わず椿を掴み、背中から床に叩きつけた。物凄い音が鳴った。椿は上手く呼吸ができないのか、ぴくぴくと痙攣している。裕美子は顔を真っ青にしていた。
「やり過ぎじゃ、」
「貴方も黙りたい?」
「い、いえ・・・」
俺は椿を庇ったわけではなく、都のことを考えて口を開いたのだが、すぐに後悔して口を閉じることになった。
「文香さん、詳しく話して」
「はい」
文香が指を折られた日のことを話し始める。直治に勧められた小説を借りに書斎に行く途中で椿と裕美子に捕まえられて客室に放り込まれ、罵倒され、『お仕置き』と称して指を折られ、『バラしたら社長の指を折る』と脅迫された。
「・・・ということで、今まで本当の理由を話せませんでした。この人達は私が下手に出ると調子に乗って、今度は『なんだか気に食わないから』という理由で攻撃してくるでしょう。他の方にも危害を加えたあとに『バラしたら他の人間に危害を加える』と言って脅迫するかもしれません。不法侵入をしていた私を信用してくださいと言うのは、無理があるのはわかっています。それでも、皆さんが揃うこの場で、このお話を伝えるべきだと思いました」
「そう。裕美子さん、本当のことなの?」
「あっ、あのっ・・・」
そう言ったっきり、裕美子は沈黙する。
「私は別に弁護士呼ばれようが警察呼ぼうがどっちでもいいけど、当事者がどうしたいかよね?」
首謀者の椿も、共犯者の裕美子も、被害者の文香も、何故かなにも言わない。都は呆れた様子で鼻から深く息を吐いた。
「気分が悪いわ。千代さん、食事を部屋に運んでちょうだい」
「はァい!」
都が食堂を出ていくのを見送ってから、千代がキッチンに行く。食事を部屋に運ぶための準備をするのだろう。俺達はもう食事どころではなかった。
「・・・食事は部屋に運ぶから、皆、部屋に戻らないか?」
直治の提案に椿以外が頷く。漸く身を起こした椿はゼイゼイと不快な呼吸音を立てて、項垂れて身を震わせていた。俺は事務室ではなく自室に戻り、千代が運んでくれた食事を見つめる。食べる気は起きない。
声が聞こえる。
恐らく、隣の淳蔵の部屋、の前。遮音性の高い壁を擦り抜けて聞こえる程甲高い女の声。椿の声だ。内容までは聞き取れないが、淳蔵が返答しているのか、妙な間がある。可哀想な目に遭っているのかもしれない。助けてやらねば。俺は部屋を出た。
「おお、美代」
淳蔵はドアを庇うように背を凭れさせ、腕を組んでいる。対面に立っている椿は泣いていた。椿は俺を見ると、祈るように両手を胸の前で握り合わせた。
「美代様! 美代様も信じてください! 私、文香さんの指を折るなんて、そんな恐ろしいことしていません!」
「あー・・・、そうなの?」
「本当です! 私、危害を加えるだなんてそんなこと・・・!」
「うん、そう」
「さっき文香さんに酷いことを言ったのは、突然変な言い掛かりをつけられて、ついカッとなってしまっただけなんです!」
「そうかあ・・・」
そろそろ、面倒臭いな。
「おお、直治」
階下から直治が上がってきた。後ろには裕美子が居る。
「裕美子が指を折ったと認めた」
さらりとそう言う。
「電話で文香に連絡したら『気分が悪いので明日にしてほしい』と言われてな。今から都のところに行く」
裕美子はちらりと椿を見て、視線が合うと目を逸らした。
「・・・は? は? は? 待てよ、おい」
椿が苛立った様子で顔を歪める。泣いていたのはなんだったのか。
「お前、なに嘘吐いてんの?」
「う、嘘なんか吐いてません!」
「嘘じゃん? 私達なんにも悪いことしてないじゃん?」
「貴方こそ嘘吐かないでくださいよ!」
裕美子は椿を指差す。
「私は貴方が怖くて従ってただけです! 『一条家を乗っ取る』だなんてわけのわからないこと言い出す変人に逆らったら、なにをされるかわからないから怖くて言うことを聞いていただけです!」
「はああ!?」
「貴方、淳蔵様と直治様に色仕掛けをしようって私に持ち掛けてきたじゃないですか!」
「なッ、なに言ってんの!?」
「二人は中卒で馬鹿だから私達で再教育しようとかなんとか一人で盛り上がってたじゃないですか! 断ったら私が指を折られていたかもしれないです!」
「マジで、マジでふざ、ふざけんなよお前っ、お前ェッ!!」
椿が裕美子に掴みかかり、醜い喧嘩が始まる。
「やめてッ!! 助けてえッ!! 指が折られるッ!! 指が折られるぅッ!!」
「ふッざけんなあああッ!! お前もッ!! お前もノリノリだっただろうがあッ!!」
「いたッ!? 触んないでよッ!! マジで頭おかしいッ!! やめろよッ!!」
ぐら、どすん。二人は突然意識を失い、倒れた。
「『あーあ』って顔してる場合じゃないでしょ」
階段から都とジャスミンが降りてくる。
「直治、まーた気がかわっちゃった。『アレ』、すぐに作って」
「はい」
直治が階段を降りていく。
「ジャスミン、直治が『アレ』を作り終わるまで、部屋に閉じ込めておきなさい」
ジャスミンがニパッと笑うと、椿に自室として与えている部屋のドアが独りでに開いた。ジャスミンは椿の首根っこを掴み、ずるずると引き摺って運び始める。
「どうするの? あの二人・・・」
「直治におもちゃを作ってもらっているから、出来上がるまで部屋に閉じ込めるわ。お風呂もトイレもあるんだし、二、三日食べなくたって死にゃしないでしょ」
教えてくれる気は無いらしい。都が部屋に帰っていく。
「喰わねえのかな?」
「かも?」
「今は肉より安らかな日々が欲しい」
「・・・俺も」
翌日。
「おはよう、文香さん。具合はどう?」
文香は、
「おはようございます、都様。お気遣いありがとうございます。思いっ切り寝返りを打っちゃって、痛くて朝早くに目が覚めてしまいました。ドアに挟んで折ったことといい、自分のドジ加減が本当に嫌になります・・・」
椿と裕美子のことを、綺麗さっぱり忘れていた。