二百八十五話 糸を断つ

文字数 2,305文字

文香が右手に痛々しいギプスをつけて帰ってきたのは午前中のこと。正午の昼食に文香は参加しなかった。都と千代も居ない。椿と裕美子は上機嫌で、椿は俺と目も合っていないのに、俺を慈しんでいるつもりなのか、微笑んでから食事を再開するということが何度もあった。正直ブチ殺したい。我慢して食事を終え、俺は二階に行く。自室に戻るためではなく、千代に案内されるため。

黒猫が一匹、部屋の前で佇んでいる。

普段は空き部屋になっているはずだが、ドアを開けると床には落ち着いた色合いの高そうな絨毯が敷き詰められ、部屋の一番奥にはアンティーク調のカウチソファーが置かれていた。都はソファーの上で優雅に寝そべっている。いつもの清楚な装いではなく、胸元が大胆に開いた、身体のラインがくっきりと浮き出るドレスを着ていた。太腿にも深いスリットが入っている。濃いブラウンの生地に白で描かれているのは、蝶ではなく、蛾。柔い爪先を包むのは、滅多に履かない黒いハイヒール。

都は妖艶に笑うと、壁を指差した。そこで立って待っていろ、ということだろう。俺は大人しく従いつつも、一吸いしただけで鼻の骨が砕けそうな程の暴力的な都の色香にあてられて、くらくらした。次に部屋に来た美代は都を見るとごくりと喉を鳴らし、恥ずかしそうに俯く。直治は顔を真っ赤にしてシャツを引っ張り、視線のやり場に困ったのか目を右往左往させていた。三人で壁に沿うように立ち、待つ。

桜子が文香を連れてきた。

文香は異様な光景に驚き、怯えていた。桜子は都の前に文香を立たせると、俺達の対面の壁に沿うように立つ。最後に片腕の無い千代が入ってきて、案内のために置いていた猫をしゅるりと身体に戻すと、ドアを閉めて鍵をかける。文香はそれを見て言葉を失っていた。千代はカウチソファーの斜め後ろに立つ。


「気分はどう? 『虫けら』さん」


都は文香を見て、そう言った。


「蚕になったつもりかな。虫は虫に違いないのに」


千代が都に差し出した物を見て、俺達は驚いて変な声を出してしまった。

煙草!?

都は慣れた様子で箱から一本取り出し、千代がライターで火をつける。


「あら、どうして跪いているの?」


文香は何故か、身体をガクガクと震わせながらも都に近付いて跪き、許しを乞うような目で都を見上げていた。


「『灰皿が欲しい』なんて、まだ一言も言ってないけど・・・」


紅い唇が煙草を挟み、白い煙を吐く。


「本当のことを教えてあげましょうか」


都は座り、文香の顔を覗き込む。


「人は内包しているものしか出力できない。貴方が書いた小説の登場人物は、全て、貴方なのよ。男も女も、老いも若きも、善人も悪人も、そして狂人すらも、全て、貴方なのよ」


千代が大きな糸切り鋏を都に差し出す。受け取った都が、くい、と鋏でなにかを引っ張る仕草をすると、白く輝く細い糸がどこからともなく現れた。糸は鋏の刃にギッチリと巻き付いている。都は両足で、跪いている文香の両肩を蹴るように押す。ヒールが喰い込むのもお構いなしだ。刃に巻き付く糸はどんどん太さを増していく。糸は、文香の皮膚から発生していた。その様相は、文香が白く溶けているようだった。糸は触手のように床を這い、俺達の足首に巻き付き始める。ギチギチと嫌な音が鳴った。文香の首に絡まる糸は、縊り殺すどころか骨を折る勢いである。首の糸は、都の手の糸切り鋏に繋がっていた。都が腕が震える程力を入れて鋏を引っ張ると、文香の首がギュウギュウと絞まる。


「あがっ、あっ、あ、あのっ、み、都、様、わ、私はっ・・・」

「貴方の内に秘めた激しい怒り。それは貴方が筆を執るための原動力」

「な、なにが、起こってっ・・・」

「存分に自己表現なさい。貴方は素晴らしい」


シャキンッ。鋭い音。都が糸を断った。

サイレンのような音が部屋中に響く。

恐らく、これが、『二度目の産声』。

糸は力を失い、するすると解けて消えていく。

文香は気絶し、横向きに倒れた。


「片付けておいて」

「はい」


都は千代が差し出した携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、俺達を一瞥もせずに部屋を出ていった。桜子も文香を抱え上げ、部屋から出ていく。


「皆さん、ぽかぁんとしてますけど、大丈夫ですか?」


千代がチェシャ猫のように笑う。


「せ、説明、しろよ」


直治が言う。


「文香さんは、自虐することで自分をおさえつけていたんですよ。そうしないと血が沸騰するような怒りに支配されて、取り返しのつかないことをしてしまいそうになるからです」


千代は手に持っている灰皿を、俺達に見せるようにずいと前に出した。


「煙草は、文香さんが最も腹立たしく感じるものなんです。父親に仕込まれた『人間灰皿』という『芸』を思い出すからでしょうねェ。正座して上を向いて口を開けてじーっとして、口の中に灰を落とされるのを堪える、ってヤツです」


まただ。

また、父親に虐待された過去を持つ女を、都は。

気分が悪い。


「私は良好な家庭環境で育ちましたので、本当の意味での共感は永遠にできないのかもしれません。都さんは私にこう問いました。他人の手垢が付いていない無知で無力な若い雌を目の前にして、様々な欲求を制御できる雄は、果たして『正常』なのでしょうか?」

「雄は野蛮だと決めつけているような問いだね」


美代が言った。母親と祖母に虐待されていた美代には、看過できない問いだろう。


「早とちりですよ、美代さん。都さんは答えは求めていないでしょう。問われた相手が考える様子を見て、面白い答えが返ってきたら儲けモン、って具合ですニャ」


千代は再びチェシャ猫のように笑って、部屋を出ていった。


「・・・泥棒猫」


不機嫌になって言う美代に、共感しつつも笑いそうになってしまった。
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