二百三十六話 躾

文字数 2,945文字

愛坂が淳蔵を誘惑しようとしてから、五日後の水曜日。俺も千代も桜子も休みなので、必然的に愛坂も『息抜き』という名目で休みになる。桜子の表情は三日で死んだ。館に来たばかりの時のような顔になっている。そして五日目の今日、我慢できなくなったのか、昼過ぎに俺の部屋に訪ねてきた。


「馬鹿に戻っちまったか・・・」

「はい・・・」


折角改善していた食事作法が、元通りになってしまったらしい。


「『自分より不細工な人間の言うことは聞かない』と言われてしまいました」

「その理屈じゃ立場は逆になるだろうに」


あ、失言。桜子は目を見開きぱちぱちと瞬く。俺が片手で頭を抱えると、桜子はくすくす笑った。俺は息をすぅーっと吸いながら頭を上げた。


「わたくしは失恋した経験がありませんから、推測でしかお話ができないのですけれど、ランジェリー姿で部屋に突撃するというのは、勇気が必要な行動だと思います。反動で自暴自棄になってしまうのも、わからないことはないのですけれど・・・」

「どうだか。『女優の私にかかればラクショー』と思ってたかもしれないぞ」

「・・・その可能性も大いにありますね。頭が痛くなる考え方です」


可哀想な桜子。都が愛坂の父親の椎名社長に靴にキスをさせて愛坂の敵対心を煽ったのも、食事作法に一番厳しい都が自ら指導をせず、『都様の心労を減らしたい』という桜子の提案を受け入れて桜子と愛坂を二人っきりにする時間を設けているのも、全ては桜子のこころを掻き乱して『人間らしい感情』を呼び起こさせるため。


「愛坂のこと、どう思う? 正直に言っていいぞ」


桜子は眉を顰め、一度唇を噛み締めた。


「腹立たしいです」


俺は頷いて先を促す。


「犬のジャスミンの方がお行儀が良いですよ。見習ってほしいものです。『女優』を自称するのならば、それに恥じぬよう振舞ってほしいですね。今、彼女を『女優』と認めているのは椎名社長だけです。何事も、基礎がなければ結果は出せません。なのに、『自分は才能があるから』と言って努力することから逃げて、大きな声とキツい言葉で相手を委縮させて我儘を通そうとする。それが通じなかった結果、一条家で指導を受けることになり、社長であり父親である存在が、人前で土下座して靴にキスをするなんていう、屈辱的な行為を強いられたのに、その屈辱を糧にして『見返してやろう』という気持ちが、向上心が無いのです。『やればできる』のなら今すぐやればいい。『演技の仕事だ』と割り切って指導を受ければよいのです。彼女はそれができない。自分より『上』の存在を受け入れられない、認められないのです。『自分はマナーを知らないだけで上品な人間だ』と思っていることが本当に腹立たしいですね」


桜子は、ふう、と息を吐いた。都の目論見通り、桜子はこころを掻き回されている。


「淳蔵様と美代様にも聞きましたけれど、何故、教育の場にセクシーなネグリジェなんて持ち込んでいるのだか。可愛い服を着て英気を養うためなら兎も角、男性を誘惑するのに使うだなんて・・・」


微笑ましい成長もしている。『可愛い服を着て英気を養う』だなんて、如何にも女らしい考え方だ。


「勝手に恋をして勝手に失恋して勝手に自暴自棄になって。さぞ生きづらいでしょうね。物凄く腹立たしいのに、同時に同情してしまう自分も居ます。そんな自分が嫌になってしまいました。それで、今日、ここに。直治様の折角の休日なのに、お邪魔してしまって申し訳ないです」

「構わねえよ。なあ、桜子。なんで都が椎名社長の提案を受け入れて、愛坂を一条家で指導することになったのか、わかるか?」

「人脈のため、か、なにか特別な計画、ですか?」

「お前のためだ」

「えっ・・・」


桜子は驚き、固まる。


「ジャスミンの持論だ。『幸せなだけの生活は死んでいることと同じ』ってな。だからジャスミンは『人間らしい感情』を忘れさせないために、敢えて都を苦しめることもある。都も同じだ。俺達に『人間らしい感情』を忘れさせないため、俺達を苦しめることがある。その過程や結果で、俺達と衝突したり、自分が苦しむことになっても、だ。俺はそんな都を、今でも腹立たしく思うことがあるぞ」


桜子はゆっくり、俯いた。


「わたくし、ずっと、都様のためを思って、我慢していたのに・・・」

「それが目的だよ。爆発して愛坂と口論になっても構わないと思ってるんだろう。都は愛坂のことも椎名社長のこともどうでもいいんだよ。『黒木桜子』という人間のこころを掻き回してグチャグチャにして、『人間らしい感情』を味わわせられればそれで満足なんだ。だから、もう、我慢しなくてもいいんじゃないか? 優しく諭しても宥めすかしても駄目なら、こちらも強く出るしかないぞ。手は上げられたら上げ返して構わない。やられっぱなしは相手を増長させるだけだ」

「そ、そんなこと・・・」

「力加減がわからなくて怖いか? 全力でやるんだよ。俺は都にそうやって躾けられた」


俺が笑うと、桜子は眉を八の字にした。


「桜子、人間よりも犬の方が言葉を理解している場合だってあるんだ。言ってわからない馬鹿は殴るしかない、殴ってわからない馬鹿は殺すしかない。極論に聞こえるか? 淳蔵の言葉を借りるなら『人間はピンキリ』だ。どうしたって駄目な時は駄目なんだよ。愛坂は『教養』の無い人間だ。教養の無い人間は教養が必要な場所に入ることができない。そして、教養の無い人間は自分に教養が無いことを理解するどころか、気付くことすらできないんだよ。品のある人間に対して『いけ好かない』だの『お高くとまりやがって』だの言っておしまいなんだ」


桜子は小さく声を漏らす。


「都に怒りを覚えたか?」

「・・・はい」

「ならぶつかるべきだな。それとも、また自分を押し殺すか?」


俺の目を見た桜子を見つめ返して、言ってやった。


「黒木桜子は一条都に奉仕することが『本能』であり、『プログラム』に従って行動する『こころ』の無い生き物だと、この館で再び『虫』のような生活を送るか?」


桜子は俺を睨み付けた。


「桜子、『贅沢』と『無駄』を覚えろ。お手本なら都が用意してくれただろう? 『愛坂優里』って存在をな。愛坂はどこまでも中途半端な女だ。だから力加減が、手加減が難しい。加減が難しいと思った時は最初っから全力でいけ。相手はお前を舐めてるんだ。人に舐めた態度をとるヤツは総じて下種だ。お互いを思いやって尊重するなんて土台無理な話なんだよ。下手に優しくしたらそこにつけこんで関係がどんどん悪化するだけだぞ」

「で、でも、でもですね・・・」

「俺は都にそう躾けられた」


二度、同じ台詞を言った。


「桜子、相手がこちらを見下せないよう、引き摺り下ろすだけでいいんだよ。優しくしたり褒めてやるのはそれからにしろ。それと、相手の気持ちを思いやることを忘れるな。暴言や暴力の虜になったら、『人間として終わり』だぞ」


桜子は言葉を選んでいるのか、唇を何度か噛みしめながら沈黙した。


「・・・勉強になりました。ありがとうございます」

「それはどうも」

「都様と話をしてきます」

「行ってらっしゃい」

「失礼します」


桜子はお辞儀をしてから部屋を出ていった。俺はふうと息を吐く。


「愛坂は兎も角、都と桜子がギスギスしたら困るな・・・」


そう、独り言ちた。
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