百三十九話 母の日

文字数 2,618文字

俺は自分に苛立ちながら乱暴にドアを開けた。同時に、淳蔵と美代も部屋から飛び出してきた。淳蔵は強く唇を噛んでいて、美代は呼吸困難を起こしそうな程泣いている。


「夢・・・」


淳蔵が言う。俺と美代は頷いた。都の部屋に行く。

こんこんっ!


『あらっ? どうぞー』


淳蔵がドアを開ける。都は俺達を見ると、吃驚して椅子から立ち上がった。額には熱冷ましシート。こんな夜更けまで仕事をしていたらしい。


「どっ、どうしたの!?」


都が慌てて駆け寄ってくる。美代は都を見ると耐え切れなくなったのか、膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆い、爆発するように大声で泣き始めた。


「ちょ、美代」

「ごめんなさい」

「えっ?」


俺も堪え切れなかった。


「ごめんなさい・・・。ごめんなさいっ・・・!」

「な、なに? どうしたの? 私、怒ってないよ? 直治、ねえ?」

「ごめんなさいっ・・・! ごめん、なさいっ・・・!」


立ったまま俯き、美代と同じく顔を手で覆う。


「淳蔵、なにかあったの?」


淳蔵は答えない。


「ちょ、なんで貴方まで泣いて、ど、どうし、私、なにか悪いことしちゃった?」


かちゃかちゃ、ジャスミンの足音。美代の嗚咽が聞こえなくなる。俺の足にジャスミンが額を押し付けた。一瞬、頭が真っ白になって、身を引き裂きそうな悲しみが俺の中からすうっと薄れていった。俺が顔を上げると、片手で口元をおさえてぼろぼろ涙を零していた淳蔵の足にジャスミンが額を押し付けている。淳蔵も落ち着いたのか、鼻で息を吸って、口でゆっくり大きく吐いた。


「な、なにごと??」

「み、都の、夢見た」


淳蔵が言う。


「私の? どんな?」

「え、えっと、俺が来た辺りからの夢、だよな?」


都の過去には触れない方がいいと判断したのだろう。俺と美代は頷いた。


「ちょっと、立ち話もなんだし、入りなさいよ、ね?」

「お邪魔します・・・」


俺達はいつもの席に座る。都は部屋に設えてある冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、コップに注いで俺達に渡した。


「なんか、聞くのが怖いんだけど、なんでそんなに泣いてるの・・・?」

「あの、俺、ごめんなさい、来たばっかりの頃、都に酷いこと・・・」


淳蔵が小さな声で言う。


「うん? 来たばっかり?」

「・・・まだ、地下にいた頃の」

「薬の禁断症状で苦しんでた時のこと?」

「そうです・・・」

「あ、いやいや、いきなり『息子にする』なんて意味不明なこと言って拉致監禁したようなものだし、専門家でもないのに薬を絶たせようと淳蔵に無理させちゃったんだし、淳蔵が気に病むことはないよ。悪いのは私で、」

「都!」


淳蔵が声を荒げた。


「それ以上言うな」

「は、はい・・・」


淳蔵はバツが悪そうに都から顔を背けた。


「あの、美代はなんで?」

「お、俺っ、拾ってもらった時、都のこと、最初はちょっと怖かったけど、凄く、凄く嬉しくて・・・」


美代は口に添えた手がぷるぷると震えている。


「すきっ、大好き都、俺、都のこと愛してるからっ・・・」

「は、はい・・・」


ジャスミンが再び美代に身体をくっつけて、悲しみを取り除こうとしていた。


「直治は・・・?」


俺は都と視線を合わせることができなかった。


「あの・・・」

「うん?」

「こ、怖かったのか、俺のこと」


都は音にならない音を喉から漏らした。


「その、来たばっかりで、暴言吐いたり、怒鳴ったりしてた時・・・」

「あ・・・、あ、ああ! ちょっとだけね」

「い、今まで、ずっと、何十年も謝ったことなかった。俺、酷いことしたことすら忘れてて、覚えてなくて、ご、ごめんなさい・・・」

「いや、あの、直治はなにもわからない状態になっちゃって、不安だったんでしょ? 仕方のないことだってば。あの、皆、私、誰にも怒ってないから、謝らなくていいから、ね?」


ジャスミンが淳蔵と美代と俺の間を行き来する。


「ジャスミン? 元はといえば貴方のせいじゃないの?」


ぴた、とジャスミンが固まった。


「なんでそんな夢を見せたの?」


くぅん。


「甘えて誤魔化されると思ってるの? 私が怒る前に説明しなさい」


ジャスミンは都の膝に顎を乗せる。都は暫く集中したあと、溜息を吐いた。


「・・・あのー、ね、すっごく自分勝手なこと言ってて」

「な、なんて?」

「千代さんがカレンダーを見て『母の日のプレゼントどうしようかな』って言ってたんですって。多分、実家のお母様へのプレゼントね。それで、はっ、と気付いたらしいんだけど、あのねえ・・・」


都は苦笑した。


「皆が私に『誕生日おめでとう』って言うのは聞いたことがあるけど、『母の日おめでとう』って言うのは聞いたことがないから、ムカついてやっちゃったって・・・」

「な、なん・・・」

「えっ」

「・・・ムカついてやっちゃって、俺達べろべろに泣かされたのか?」


ジャスミンは珍しく、ぐるるるる、と唸った。


「なに唸ってるの。お仕置きよ」


都は立ち上がり、棚からエリザベスカラーを取り出す。ジャスミンは都の足元に纏わりつくと、きゅんきゅん、くんくん、と情けない声を上げた。


「・・・母の日っていつだっけ」

「次の日曜日だよ・・・」

「プレゼントってなに贈ればいいんだ・・・」


カラーを取り付けられたジャスミンが、悲しそうに座り込む。


「あのさ、クッキーとカステラとパウンドケーキ買ってきてよ。母の日のプレゼントってことで。皆でお茶しましょう。千代さんも一緒に。ね?」

「・・・わかったよ、ママ」

「皆で選んでくるよ、母さん」

「楽しみにしててくれよ、お母さん」

「うん」


都は笑った。

暖かい春。母の日。

淳蔵が都の額にキスをする。美代は左の頬に、俺は右の頬にキスをした。


『母の日おめでとう』

「ありがとう。とっても幸せ」

「あのう、都様・・・」


千代が恥ずかしそうに、小さな紙袋を顔の前に持ち上げる。


「わっ、私からのプレゼントです。ダージリンの茶葉です。あのっ、お祝いをしない一条家で、初めて母の日を祝うと直治様が仰ったので、あのっ、わ、私のようないちメイドが、都様を母のようにお慕いするのはヒッジョーに身の程を弁えていない行為ですが! おおお、お慕いしております! 都様がお許しくださるのなら、毎年、ダージリンの茶葉をプレゼントしますのでっ、あのォ、私、あのォッ・・・!」

「千代さん、ありがとう」


都は千代の頭を撫でた。千代は気持ち良さそうに目を細める。

わん!

ジャスミンが談話室に入ってくると、上機嫌でオテとオカワリを繰り返してから去っていった。

人生最良の一日かもしれない。皆、笑っている。俺も、笑った。
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