二百九十三話 開戦

文字数 2,213文字

夜は蝉の声が聞こえない。

八月二十六日。淳蔵さんが都さんの部屋に行った。

八月二十七日。美代さんが都さんの部屋に行った。

八月二十八日。直治さんが都さんの部屋に行った。

八月二十九日。桜子さんが都さんの部屋に行った。

最後の日、八月三十日。私は都さんの部屋に呼ばれた。


「都さん」


この世で最も美しく、恐ろしく、

無垢で、狡猾で、

力強く、寂しがりやな生きもの。


「ご武運を」


都さんは頷き、立ち上がった。時刻がかわる。日付もかわった。八月三十一日。都さんは部屋を出て階段を降り、玄関から外へ。身に纏うのは白いシーツ一枚。広い庭の中央まで素足で土を踏む。私は玄関の前で都さんを見つめる。

髪が、身体が、硝子のように透き通る。

都さんは月を見上げて、両手で顔を覆った。硝子の身体から彩度が失われて、白く濁っていく。シーツがさらりと滑り落ちた。ぱり、ぱり、乾いた音が響く。

背中が、割れる。

白銀の竜が星空に向かって飛んでいく。都さんの抜け殻は、ゆっくりと、まるで嘆いて跪いているようにその場で丸くなった。

分厚い愛の壁の向こう。

白い翼と黒い羽の生きもの達が、都さんに襲い掛かるのが見えた。都さんは身体を一回転させ、斧のような尾で全てを薙ぎ払う。それだけで数百は居るだろう生きもの達は体液の飛沫を上げながら遥か彼方まで弾け飛んでいった。あんなヤツらは話にならない。だってジャスミンが作った『結界』に触れた瞬間に蒸発している。

巨大な生きものが二匹、来た。

大きな黄金の剣を持った白い生きものと、腕が四本ある黒い生きものが、都さんに襲い掛かる。都さんは剣の一閃を躱したが腕の一本に捕まり、結界に叩き付けられる。世界が揺れた。

都さんは激怒した。

黄金の剣に喰らい付き、噛み砕く。白い生きものは怯むような仕草をした。そのまま白い生きものの頭に齧り付いて、ぶんぶんと左右に振り回した。ゴキボキゴキと骨が折れる轟音が響く。あんな生きものにも骨があるんだ、と、私は何故か感心してしまった。都さんは白い生きものを空高く、いや、宇宙に目掛けて放り投げた。物凄い速度だ。あっという間に夜空に輝く星よりも小さくなって、見えなくなった。

黒い生きものも狼狽えている。あんなに大きいのに、凄く大きいのに、自分より小さい都さんに怯えているのだ。黒い生きものが口からなにかを吐き出した。巻き添えを喰らった雑魚達はあっという間に溶けて消えた。酸のようなもの。都さんはそれを咆哮で跳ね返した。鼓膜が破れるどころか脳が爆発するような音がしているはずなのに、私の耳には、不思議と生きることを鼓舞するような素晴らしい雄叫びに聞こえた。

自分が吐き出した液体で溶ける黒い生きものが逃げていく。それと同時に、一目見て雑魚とは違うとわかる生きもの達が都さんを取り囲んだ。全員殺すつもりだ。都さんを。全員殺すつもりだ。都さんは。月と星の光で輝き、夜の闇に浮かび上がる強く美しい竜は、真っ直ぐに上空に飛び、去っていく。奇妙な生きもの達は皆、都さんを追いかけていった。

静かになった。

都さんの抜け殻は、かわらずそこに有る。私は都さんに歩み寄った。都さんは、どこか諦めていて、それでいて慈愛に満ちていて、少し怒ったように笑っていた。私はそっと、手を伸ばした。


「触るなッ!!」


怒号。直治さんだ。振り返ると、玄関には一条家の者が全員集まっていた。直治さんは怒り心頭といった様子で、ざつざつと土を踏みしめて大股で近付き、私の胸倉を掴み上げた。


「テメェが触っていいモンじゃねえッ・・・!!」


私は泣くことを堪えられなかった。だって直治さんが泣いていたから。


「直治!」


美代さんが窘めるように言う。直治さんは私から手を離した。そして都さんの抜け殻の横に膝をつき、両手を翳して震わせる。

風が吹いた。

都さんは蝶の鱗粉のように細かく砕けて煌めいた。淳蔵さんの瞳が紫から黒に戻る。淳蔵さんは黙って首を横に振った。


「あっ・・・、あ、あああああああああああっ!!」


直治さんは蹲り、慟哭する。


「・・・千代君、部屋に戻るんだ。明日も仕事があるだろう?」


美代さんは動揺を隠すようにゆっくりと私のところまで歩いてきて、そう言った。それでも、声が少し震えていた。直治さんは土に爪を立てて、呼吸困難になりそうな程、泣いている。美代さんが淳蔵さんに目配せをすると、淳蔵さんもこちらに来た。桜子さんは玄関で膝をつき、両手で顔を隠すようにして泣いていた。


「千代、『社長命令』だ。聞こえてただろ?」


淳蔵さんは『社長』と言う時に美代さんを見た。美代さんは、努めて冷静に振舞っている。


「はい・・・。失礼、しますっ・・・!」


頭を下げると、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。私は走って玄関まで戻り、桜子さんの肩に手を置いた。桜子さんは顔を手で庇ったまま、頷き、無言で立ち上がった。私達はそのまま、二階の自室に戻った。


「みやこ、さん・・・」


一条都。

あの人は、私を救ってくれた神様。

愛らしさは天使のよう。

魔を統べる恐ろしい女王。

人間を喰らう悪魔。

その全てが人の形をしていた。

人間こそが素晴らしいと。

でも、

あの人は、人間の肉体を捨ててしまった。

戦うために。


「待っていますから・・・。ずっと、ずっと・・・」


私は窓から空を見上げた。いつもとかわりない、美しい山の夜空。ふと、視線を下ろすと、淳蔵さんの姿が見えた。美代さんと直治さんは居ない。淳蔵さんは都さんから貰った眼鏡をかけて、空を見上げていた。
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