二百三十七話 水蜜桃の桃源郷

文字数 2,557文字

鴉でのパトロールは、基本、一日三回、食事の前後に行っている。規則性を持たせながらもランダムにしているのは、厄介なヤツに完璧には時間を把握させないため、と言いつつ、単純に俺の気分だったりする。今日の昼のパトロールは食前。窓を開けて鴉を数羽飛ばして、すぐに異変に気が付いた。

庭に都が居る。

黒い水着を着て噴水の中に座り、こちらに向かって笑顔で手を振っていた。俺はそのまま鴉を飛ばし、窓を閉めると庭に向かった。


「なァにしてんだよ、都。そ、こ、は、ジャスミンのプールだろ?」

「いーじゃんいーじゃん。たまには都ちゃんもおんもに出て遊ばないとね」


俺は腕を組み、首を傾げて笑うと、腕を解いてズボンのポケットから髪を結ぶ紐を取り出し、少し高い位置で一つに結わえた。


「ウヒヒ、淳蔵ちゃんのポニーテールはいつ見ても良いですなあ」

「おちびちゃんなのかおじさんなのかどっちかにしなさい」


シャツのボタンも少し開けて、噴水の縁に腰掛ける。七月、じわりと滲む汗が肌を伝う。


「桜子さんと喧嘩した」

「みたいだな」


二週間程前。桜子の機嫌が悪い日が三日続いた。態度に出すことは無かったのでちょっとした違和感を抱く程度だったが、夜になるとトレーニングルームからサンドバッグをしばきまわしている音が響いていた。しっかりと防音対策はされているのに、だ。桜子の不機嫌の原因は、直治が桜子に『人間らしい感情を味わわせるためにわざと桜子を苦しませる』という都の計画をバラしたから。直治はそれを特に悪びれる様子もなく俺達に言い、聞いた都も怒らなかった。

桜子の機嫌が多少良くなった四日目に、愛坂が俺達と同じ食堂で食事を摂るようになった。都の対面ではなく桜子の対面に座り、桜子に食事作法の指導を受けていた。愛坂の食事作法はかなり改善されていたが、いつも物凄く悔しそうな顔をしていて、時には泣きながら食べていることもあった。桜子は淡々と指摘し、時々睨み付けるように目を細める。愛坂はそれだけで身を縮こまらせ、反抗せず唇を噛む。正直なところ、俺は食事が息苦しくて堪らなくなってきている。


「小動物に噛まれても、決して手を振り解いてはいけない。そんなことをしたら怪我をさせてしまうか、殺してしまうからね。そういう話をした」

「小動物? ハン、そんな可愛いモンじゃねえだろ『アレ』は」

「なんだっていいさ。『アレ』は我儘なだけで害は無い。桜子さんが反応しなくなったら適当に理由を付けて追い出すよ」


都はかなり砕けた口調で話している。リラックスしているようだ。


「どうにも根性が無いみたいだし、追い出す前に出ていくかもしれないけどね」


『どうにも』にたっぷりと抑揚を付けて言い、ちゃぷ、と水音を立てて組んでいた足を組みかえる。


「おまけに『悪い兆し』も見えるときたもんだ」

「なんだそりゃ?」

「愛坂さんの母親の不倫」


俺は言葉を失った。愛坂の母親は確か、独身のはず。ということは。


「所帯持ちの男と乳繰り合ってんだよ。学習しない女だね」


やっぱり。呆れて溜息も出ない。都が続ける。


「若い頃も色恋で女優の道を断つかどうか迷ったのにねえ。いくら賢く立ち回ったって、男の方が馬鹿じゃどうしようもないよ。ま、時間の問題じゃない?」

「おッそろしい情報網だなァ」

「賢い金持ちなら皆やってることだよ。マスメディアに姿を晒すのは三流のすること。淳蔵が知らないだけで私みたいな人はいっぱい居るよ」

「一つ利口になりましたよ」

「フフッ・・・」


都は両手で水を掬い上げ、ぱしゃっと顔にかける。そして髪を掻き上げ、撫で付けた。


「おやまあ、可愛いおでこですこと」

「淳蔵、お昼食べなくていいの?」

「都と話していたい」

「ンヘヘ、嬉しい」


都が笑う。俺も笑った。


「はーあ。都ちゃん、いつになったら大人になれるんだろう・・・」


俺は城壁のような外壁を見て、重厚な門扉まで目を滑らせる。気が遠くなるほど昔、ここに『幽閉』された都。

大人になる門は固く閉ざされている。

親切な白い悪魔の狂った愛に包まれた深い森から、雄の蝉が雌を呼び寄せるために鳴いているのが聞こえてくる。


「都ちゃん」


俺は道化を演じ切ることができなくて、真剣な声音で名前を呼んでしまう。都が俺の表情を見る前に、俺は顔を横に反らした。


「都ちゃんは、おじさんと一緒に、ずっとここで暮らすんだよ」


返答は、無い。雄の蝉が必死に鳴いている。俺みたいに。


「おじさん、私のこと好きなの?」

「愛してる」

「恥ずかしげもなくそういうこと言うんだから、こっちが恥ずかしくなっちゃうよ」


ぢゃぷん、と水音を立てて、都が立ち上がり、噴水の中に足を入れたまま縁に座る。俺が都の顔を見ると、都はどこか拗ねたように唇を尖らせながら、照れて目を伏せていた。


「都からはあんまり言ってくれねえよなァ」

「え・・・、い、言うでしょ? 言ってない?」

「こっちから聞いた時か、『盛り上がってる時』しか言ってくれない」

「今、この状況で言っても駄目じゃん」

「全く、愛情表現が上手いんだか下手なんだか。はにかみ屋さんめ」

「エヘヘ・・・」


俺は気付かない振りをした。

ずっと一緒にここで暮らす。

いつもその答えをはぐらかすことを。

ここは水蜜桃の桃源郷。

『外』の世界は穢れている。


「なあ、都」

「うん?」

「桜子がパン作りしたがってるの知ってるか?」


都は目を見開いた。そしてにやりと笑って両手を揉む。


「へへぇ、それは、あっしもご相伴にあずかれるんですかい、旦那ぁ・・・」

「食い意地の張った三下だなァ。パン用のオーブン、買ってやれよ」

「ホームベーカリーも要るかな?」

「相談してみ」

「仲直りのきっかけをありがとうね」

「どういたしまして」


都はいつも、笑顔を絶やさないようにしている。けれど時々、こころの底から笑っている時がある。今がそうだ。この瞬間が永遠に続けばいいのに、ジャスミンも都自身もそれを許さない。俺が立ち上がり、髪を解いてパトロールしていた鴉を身体に戻すと、都も立ち上がった。二人で館に戻ると、玄関ホールの中央で座っているジャスミンが、俺に向かってオテとオカワリを繰り返す。嫌味な犬だ。ジャスミンと手遊びするために膝をついた都の後ろ姿が艶めかしくて、すぐに興奮してしまう自分が最高に馬鹿馬鹿しくて、俺は都に見えないように後ろを向き、片手で頭を抱えた。
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